第七十九話:絶望の淵と疾駆する影【前編】
私は再び水晶に魔力を注ぎ込んだ。
魔力が水晶の中を駆け巡り、鋭く輝く。その光を通じて、私はアレクシウスの心に、深く、深く入り込む。
揺れ動く心。乱れた感情。その隙間から、私は滑り込んだ。まるで開いた傷口に指を滑り込ませるように。
そして――あの違和感に触れた。それは小さいけれどとても硬い。当然だ。彼女が産まれて以来、ずっとひた隠しにしてきた秘密なのだから。この王太子の人生は、自分が女性であるという事実を隠すために費やされてきたのだ。それも、自分の記憶にはほとんどない亡き父と叔父の約束のために、始めから人生の全てが定まっていたのだ。
疑問、苦痛、怒り、あらゆる感情を彼女は抑え込み、ひた隠しに生きてきた。
だが――もうそれも終わりだ。
私が知ってしまったのだから。
(見つけたわよ、アレクシウス)
私は彼女の心に直接語りかける。冷たく、そして甘く、囁くように。
(私はあなたの秘密……見つけたわ)
水晶を通じて、アレクシウスの心が激しく揺れるのが分かった。まるで、雷に打たれたように。いや、それ以上だ。心の根幹が、揺さぶられている。
(あなたは……女性なのね)
その言葉を、アレクシウスの心の奥底に、一字一字、刻み込む。それは熱い焼鏝とは違う。冷たく、触れたものの温かさを全て奪い取る氷の楔で、治ることのない凍傷を負わせるのだ。
老人に駆け寄ろうとしていたアレクシウスの動きが鈍くなり、剣を持つ手から力が失われるのが分かった。同時に凄まじい負の感情が彼女の中から奔流となって溢れ出してくる。その激しさは想像以上で、私ですら一瞬たじろぐほどだった。なんというご馳走か!思わず私は舌舐めずりする。
(そう……それが、あなたの隠していたもの。王太子という仮面の下に隠された、本当のあなた)
彼女の足がもつれた。辛うじて倒れるのは避けたが、振るった剣には鋭さはなく、硬いゴーレムの体に弾かれた。
その姿に押さえきれない興奮が私の中で首をもたげる。それを冷たい血で沈め、さらに私は自分の心を冷たくして、それを彼女の心の深くに注ぎ込む。激しく抵抗する力はもうない。あれほど捉えられなかった心が、いまは止まり乱れている。決して光が差し込まない深い井戸の底で、それでも休むことなく、こんこんと湧き出し続けていた女性としての自分。その心の奥底が露わになり、私の前に晒されている。
(あなたは、ずっと隠してきたのね。誰にも知られないように。必死に、必死に)
抵抗はもうなくなっていた。
私は、アレクシウスの心を掴んだ。しっかりと、逃がさないように。
それは小さな白い小鳥のように震えていた。
私はその彼女の心に、呪いの種を植え込んだ。
黒い、小さな種。それは水晶を通じて私の魔力に包まれ、アレクシウスの心の奥底に滑り込む。心臓に触れ、食い込み、根を下ろし始める。
〈命脈同調〉
古代魔術の中でも、強力な支配の術。
(さあ……もう逃げられないわよ、アレクシウス)
私は再び、にぃと笑った。勝利の笑みだ。
(あなたは……私のものよ)
水晶が、僅かに脈打つように輝く。呪いの種が、冷たい根を張り始めている。彼女の心臓に食い込み、血管を伝い、全身に広がっていく。
完璧だ。
あと数分もすれば、命脈同調が完成する。
✴︎✴︎✴︎
(見つけたわよ、アレクシウス)
声が――頭の中に響いた。
誰の声かは分からない。冷たく、甘い声。それは私の心の奥底に不躾に触れてきた。まるで氷の指で、直接心臓を撫でられたような感覚。その冷たさに全身に鳥肌が立つ。
(あなたの秘密……見つけたわ)
その一言で、声の主がなんのことを言っているのかが、私には分かった。でもそれを認めることはできなかった。
足の動きが鈍くなる。深い泥沼の中を行くようだ。纏わりつき、壁のように行く手を遮るゴーレムを斬る手にも力が入らなくなってくる。
(あなたは……女性なのね)
その言葉が――心の奥底に、突き刺さった。
まるで氷の刃で、心臓を貫かれたような衝撃。いや、それ以上だ。私の全てを否定するような、破壊的な言葉。
(違う……!)
私は、心の中で叫んだ。
頭の中に怒り、悲しみ、羞恥……、あらゆる感情が吹き出す。
幼い頃から男として育てられたこと。クラリス以外の身の回りを世話する侍従たちにすら正体を明かせず、常に人目を気にして生活してきたこと。稀に公の場に出れば、その容姿から容赦ない好奇の目で見られること。どうしても耳に入ってくる私に対する悪意ある噂話。そして、たった一人の友達であり義姉妹であったリヴィアと会えなくなったこと……。どこにも私の場所はなかった。産まれてから一度も思いを共有できる人はいなかった。王太子? こんな私が王位に就く? とてもそんなこと信じられなかった。いずれ病弱を理由に廃嫡されるのだろう。その後私はどうなるのか? 死ぬまで離宮から出ることは許されず、愛する人と巡り会うことはもちろん、誰に愛されることもなく、女としての喜びも知ることもなく、忘れ去られるのだろう……。怖い……。そんなの嫌だ! そもそも私は王になることを望んだことなどなかった。全部、私が生まれる前から決まっていたことだ……。
(……そう、私の人生が、私のものであったことは一度もなかった!)
どうしようもない怒りと悲しみ、そして憎しみが溢れてくる。どす黒い感情が胸に渦巻く。
(それが、あなたの隠していたもの。王太子という仮面の下に隠された、本当のあなた)
その冷たい声には、隠しようのない喜悦の響きがあった。
(駄目だ、なんとか止めなければ……)
そう思うのだが、どうにもならない。それどころか止めようとすればするほど、冷たい声が、私の心の奥底に、ずるずると侵入してくる。
(あなたは、ずっと隠してきたのね。誰にも知られないように。必死に、必死に)
自分の心が他者に晒される羞恥が全身に広がる。これまで私が積み上げてきた全てが、崩れていく。男性としての私。王太子としての私。リヴィアの義兄としての私。そこへ容赦無く疑問が浮かぶ。
(私って誰?)
それは冷たい女の声ではなかった。
自分自身の声だった。
(……めて、やめて、やめて、やめて!!!!)
もはや私は誰に抵抗しているのか分からなくなってきた。それでもライル様の教えを思い出そうと思った。あの流れ。あの静けさ。あの、全てを受け入れる心。
だが――できなかった。
心がどうしようもなく乱れている。流れが、止まっている。ライル様の教えが、頭から消えている。あれほど確かにあったものが、いまはもう――ない。
私は――ただの、怯えた少女だった。秘密を暴かれ、震え、泣きそうになっている、弱い、弱い少女だった。
その瞬間――。
ズキリ。
胸の奥で、鋭い痛みが走った。
(……!?)
痛みは一瞬だった。針で刺されたような、鋭く、冷たい痛み。だが、次の瞬間――。
心臓を、鷲掴みにされるような不快感が襲ってきた。
何か――冷たいものが、心臓から溢れ出している。それは血管を通じて、全身に広がっていく。まるで毒のように。いや、毒よりも悪いものだ。
(これは――呪い?)
そう思う間もなく、心臓に食い込んだそれは急速に根を張ろうとしている。
(なに……これ……!?)
私は、胸を押さえた。心臓が、激しく脈打っている。いや、違う。心臓だけではない。胸の奥で、何かが、生き物のように蠢いている。
剣を持つ手が、激しく震える。膝が、がくりと折れそうになる。視界が、揺れる。息ができない。
(さあ……もう逃げられないわよ、アレクシウス)
声が、冷たく笑っていた。勝ち誇ったように。まるで、獲物を捕らえた狩人のように。
(あなたは……私のものよ)
私は、前を見た。
クラリスが倒れている。血を流して。動かないまま、倒れている。それでも目は開き私を見ている。微かに口元が動く。
ゴーレムの足が持ち上がっている。巨大な泥で作られた足が、ゆっくりと、だが確実に、クラリスの小さな体を踏み潰すために持ち上げられていく。
(クラリス……!)
私は最後の力を振り絞って走ろうと足に力を込めた。だが――。
足が、もつれた。
ゴーレムの太く、重い腕が私を捉える。
強烈な衝撃で体が宙を舞い、次の瞬間、地面に叩きつけられる。立とうとするが体に力が入らない。胸の奥から氷のような冷たいものが全身を蝕んでいくのが分かる。
もう一度クラリスの方を見る。まだ私を見ている。再び口元が動く。
すでにゴーレムは最後の一歩を踏み出している。
その時私は分かった、彼が言っていることが。
「……お嬢様」
それは産まれて初めて聞く、私への呼び方だった。
私の視界が、滲んだ。涙が、溢れ出していた。
「クラリス……」
私は届かないのを承知で手を伸ばす。
遠い。あまりにも遠い。
それでも私は手を伸ばした。
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