第七十五話:老雄の意地と結界の崩壊【後編】
結界の頂点近く、私は両手で支えた水晶に意識を集中させていた。
眼下には離宮の美しい庭園が広がっている。だが、そんなものには目もくれない。いま、私の全神経は、目の前に広がる透明な壁――離宮を守る魔法結界に注がれていた。
(……見事な構造だわ)
水晶を通して感じ取れる結界の術式は、古代魔法の理論を基礎としている。幾重にも張り巡らされた魔力の層が、まるで精巧な機械仕掛けのように組み合わさり、侵入者を拒んでいる。一つ一つの層に独自の防御機構があり、それらが相互に補完し合っていた。
(これを構築した術者は相当な腕だ。だけど――)
私の唇が、自然に笑みを形作る。
(解けないわけではない)
私にとって、複雑な術式を解析し、その核心を突くことは――快感だった。
まるで、精巧な鍵を一つ一つ開けていくように。まるで、複雑に絡まった糸を丁寧に解きほぐしていくように。術式の流れを読み、その隙間を見つけ、そこに自分の魔力を滑り込ませて術式を書き換える。
私はヴァイスのような自己陶酔型の術者を心底軽蔑していた。確かにあの男の魔道具作りの腕は認める。しかし出来上がった道具のその醜さと、質の高い魔石頼みの乱暴な術式には辟易する。術式は無駄なく美しくなければならない。それでこそ、質の高い貴重な魔石の真の力が解放されるのだ。そう考えると、作られてからすでにかなりの時間を経ているにも関わらず、この堅牢さ! 素晴らしい。無骨な古代魔術の術式を近代魔術で再解釈することで効率を格段に上げている。なにより古代魔術と近代魔術の相性の悪さ自体を防御力に組み込むという発想には驚かされた。どうやら作った時のままではなく、誰かが更新しているのだろう。
(最後の書き換えは二年ほど前か……。Loという署名があるが、誰だろう?)
そう考えながら、意識は水晶から浮かび上がる術式に集中させ、手際よく書き換えていく。
(……もう少しで核心に届く……)
その時、何かが、私の魔力に反応して飛んでくるのを感じた。
黒い影が風を切る音すら立てず、まっすぐに私へ向かってくる細い針。
(――!)
咄嗟に首を傾けたが、結界破壊の術式に集中していた私の反応は、わずかに遅れた。
「あっ!!」
黒い影が左耳を掠めると同時に、鋭い痛みを感じた。一瞬、水晶から映し出される術式が歪んだが、辛うじて取り落とさずに済んだ。血が首筋に流れる。術式に集中していたとはいえ、一瞬でも反応が遅ければ頭を貫かされていただろう。
視力を強化すると、眼下でこちらを見上げている男の姿が見えた。先ほどの館から出てきた老人だ。その表情には、一切の感情が浮かんでいない。冷ややかな目には明確な殺意が宿っている。
私の眉間に、苛立ちの皺が刻まれる。
(ドルゴは何をしているのだ。おいぼれ一人片付けられず、私の仕事の邪魔をさせるのか!?)
私は、耳の傷口に手を当てて、止血と解毒魔術をかけつつつ、ドルゴへ念を送った。
『ドルゴ。その老人をいますぐ黙らせなさい。私の邪魔をさせるな』
そうしておいて、私は再び水晶が写す術式に再び没頭した。
✴︎✴︎✴︎
『ドルゴ。その老人をいますぐ黙らせなさい。私の邪魔をさせるな』
メルルの冷たく鋭い、まるで氷のような念が俺の頭に届いた。
(……ああ、分かっている)
俺は、目の前の老人を見据えた。
痩せた、小さな老人。だが、その目は油断なく光っている。俺が鍛え上げた部隊を、たった一人で翻弄し、俺を一対一の戦いに引き摺り出した男。そのうえ、俺に隙を作らせ、結界を破る作業をしているメルルを攻撃するとは……。どうやら彼女は無事なようだが、もし成功していれば、ここまで綿密に進めていた計画が頓挫する可能性すらあった。それもこの老人一人のせいで。
(まさか、ここまでとはな……)
俺は小さく笑った。その頬をさっきから俺の周囲を舞っている木の葉が、俺の顔を薄く切り、血が流れる。それでも俺は笑い続けていた。痛みは感じるがそれを上回る喜びがあった。これほどの相手と出会える機会を与えてくれたことを、改めてガロン様に感謝していた。
俺は笑いを収めると、深く息を吸った。
本当なら、ガロン様より頂いた貴重な力をここで使うつもりはなかった。できることなら、自分本来の力だけで勝ちたかった。
だが、この男を相手にその力を使わないのは、かえって失礼だろう。
(この男には全力で応じる価値がある)
その瞬間、胸に刻まれる刺青が熱を帯び始めた。続いて額と顔に刻まれた隈取のような模様にも同じ熱を感じる。ガロン様に入れていただいた古代魔術の印が熱を持ち、赤黒く輝いているのだ。印が脈打つように疼くと共に力が溢れてくる。
筋肉が膨れ上がり、血管が浮き出る。心臓が、ドクン、ドクンと激しく鼓動する音が体に響き、熱を持った血に乗り魔力が全身を駆け巡る。生きたまま体を内側から焼かれるような苦痛と――快感がある。
力が、力が、力が――溢れてくる。もっと、もっと、もっと――。
(――いや)
俺は、歯を食いしばる。
この快感に溺れてはならない。印の力に身を任せすぎれば暴走し、耐えきれなくなった体が、内側から燃え上がり焼き尽くされる。俺はその姿を何度も見てきた。
俺は、この力を注意深く、制御しなければならない。
それまで激しく明滅していた体に彫られた印が次第に安定し、巨大な力が俺の手の平に収まっていく。
流石の老人も、驚いた様子でこちらを見ている。
「楽しませてくれた礼をする」
グッと全身に力を込めると、それまで俺の周囲で舞っていた木の葉が、一斉に吹き飛んだ。
右手の大剣を構え直す。
(さあ、老人――ガロン様から授かった力を受けてみろ)
俺の足が地面を蹴る。さっきまでとはまるで違う爆発的な加速が、一瞬で老人との間合いを奪う。
右へ払った大剣を、老人は飛び退って避けようとしたが間に合わず、咄嗟に剣で受ける。
ガギィン!!
金属が軋む音と共に衝撃で、小さな体が宙を舞い地面に転がる。すぐに体勢を立て直したが、その顔には隠しようのない驚愕が浮かんでいた。
それはこちらも同じだ。俺のこの一撃を受けて立っていた者は初めてだ。俺は心底、この老人の技量と精神に感嘆していた。
だが、もう終わりだ。
俺は容赦なく踏み込み、横薙ぎ斬る。これを老人が身を低くして躱す。剣を返し、真っ向から斬り下ろす。これも老人が後ろに跳んで距離を取る。それを追って逆袈裟に斬り上げる。これも老人はこれを飛び退いて躱す。俺の大剣が嵐のように老人を襲うが、この老人はその全てを躱し、捌き、受け流す。
(なんという反応速度だ……!)
封印を解放した俺の速度に、この老人は対応している。完全に捌ききれず掠めることはあるが、それでも致命傷を避け続けている。体が覚えている技術と経験が、衰えた肉体を補っているのだろう。ならば……。
俺はさらに速度を上げた。体内を駆け巡る魔力がさらに加速する。心臓がさらに強く速く脈打ち、印が輝きを強め、大剣が唸りを上げる。
次第に俺の加速に老人の動きがついてこられなくなる。
俺の右へと薙いだ大剣が、老人が右手に持った短剣を弾き飛ばす。すかさず左手で右の腰に差している短剣を抜こうとした。だが流石に体が右へ崩れ、無理な体勢から抜こうとしているため速さがない。俺は右に薙いだ勢いをそのまま体を右回転させ、もう一度、大剣を右に払う。その斬撃が、剣を握ったばかりの老人の左腕の肘から先を断ち斬った。
ガッ
肉と骨を断ち切る鈍い音と共に、それでも剣を握ったままの左腕が右へ飛んでいくのを、目の端に捉えた。その瞬間、素早く老人の右手が俺に向かって突き出された。その手には、どこから出したのか三本目の短剣が握られている。
(左腕は囮か!)
老人は体勢が崩れたのを利用して、わざと鈍く使った左腕を囮に、俺の正面が開く右払いを誘ったのだ! なんという男だ!
間髪を入れず、短剣を握った右手ごと、老人がその身を俺の喉笛めがけて迫る。
俺はガロン様に仕えて以来、初めて人間だった頃の感情、感動を、目の前の老人に感じていた。その一方で、俺の体は人間だった頃の速さを遥かに超えて反応していた。必殺の短剣の切っ先が俺の喉に届く寸前、
ガッ
俺の左手が、飛びかかる老人の首を捉えた。そのまま俺は左手一本で老人を宙に持ち上げる。それでも男はなんとか刺そうと右手を伸ばそうとする。無駄な足掻きだ。だがそれを醜いとは思わない。こいつは凄い男だ。
グッと左手に力を入れる。「グハッ!」と声が漏れ、老人の鼻から血が流れ落ちた。
ガチャン
と手から滑り落ちた短剣が落ちる音がした。俺はそれに構わず、さらに左手を高く差し上げ、男の顔を正面に捉えられる高さに持ち上げる。目の端から血が噴き出しているのが見えた。それでも男の目はまだ死んでいない。
その瞬間――
パリィィン!!
頭上で、ガラスが砕けるような音が響き渡った。メルルが結界を破ったのだ。
✴︎✴︎✴︎
(まさかライル殿の他に三本目を躱す奴がいるとはな……)
虚ろな頭でそう思った。どうやら俺はこの男に喉を掴まれ、宙に持ち上げられているらしい。手から短剣が滑り落ちるのが分かった。気がつくと目の前に男の顔があった。瞳は黄色さが増し、さらに顔全体が不気味に赤黒く光っている。(それは、【深淵の盟約】とやらで流行ってるのか?)と言いたかったが、口が動かないうえに息も足りない。
体のどこに力が入るのかを試そうと思った瞬間、頭上でガラスが砕けるような音が響き渡った。
離宮を守る魔法結界が――破られたのだ。
(くそっ……)
その世界が砕け散ったかのような凄まじい音に、いままで感じていなかった左腕が痛み出す。それでもまだ剣を握っている感覚があるのが不思議だった。息も血も足りず、どうやら俺の体に動かせるところはないようだ。左腕から血が滴り落ち、意識が遠のいていく。体が、もう限界を訴えている。それでもまだ頭はかろうじて働く。
(殿下の部屋には、まだ守りがある……)
離宮全体を覆う外側の結界は破られた。だが殿下が籠る部屋には、さらに強固な結界が張られている。あの女魔術師が外側の結界を破るのに、これだけの時間を要したのだ。内側の結界を破るには、さらに時間がかかる。その間に城からの援軍が間に合うかもしれない。ふとフォルカーの顔が浮かんだ。
(イザベルを可愛がれよ)
そう言ってやりたかった。
意識が、薄れかかる。なぜこの男が一気に絞め上げないのか不思議だった。俺ならこんなに時間をかけない。掴んだ瞬間にへし折っているはずだ。そこで分かった。
(ああ、こいつは騎士なのだ)
外道に堕ちても騎士であることに拘るとは、もはや呪いだな。まったく馬鹿な奴らだ。やっぱりイザベルが騎士団に入るのにもっと反対すればよかった。ああ、いよいよ視界が暗くなって来やがった。
いや、死ぬわけにはいかない。殿下を、守らなければ。俺は(王の影)の長だった男だ。この程度で、終わるわけにはいかない。こいつがつまらない感傷に浸っている間に何かするのだ。
俺は、残った右手に力を込めて、ベルトに触れようとした。針でもいい、毒でもいい、何かこの男の注意を一瞬でも引けるものを探す。だが指先に力が入らない。首への圧が段々と強くなる。息を詰まらせて死ぬのが先か、それとも首の骨がへし折られるのが先か。意識が、糸のように細くなっていく。
その時だった。
「クラリス!」
聞き覚えのある声が、離宮の正面から響いた。
俺は、残る力を振り絞って目玉を声の方向に向けた。ぼんやりとした視界の中に複数の人影が見える。開いた離宮の門から、騎馬のアレクシウス殿下が護衛を連れて駆けてくるのが見えた。
(殿下……!?)
俺は、目を見開いた。いや、開いたつもりだった。だが、もう瞼すら思うように動かない。
なぜ、殿下が? 部屋に籠っているはずではなかったのか。なぜ、わざわざ敵の前に姿を現すのだ。危険だ。逃げてくれ。どこか安全な場所へ――。
だが、殿下が走る馬上でスラリと剣を抜いたのが分かった。
首から男の力が抜け、どさりと地面に落ちた。もはや痛みを感じない。横倒れのまま近づいてくる殿下を見る。その目が俺に向けられている。
「クラリス! いま助けに参る!」
俺は笑いたかった。なんてことだ、殿下もまた馬鹿な騎士道精神をお持ちだとは……。 俺なりに王のなんたるか教えてきたつもりだったのだが、(王の影)の俺では無理だったのか。
ほろ苦い思いと共に、何かが込み上げてくる。それが何なのか、もう分からない。ただそれは怒りでも絶望でもなかった。なにか得体の知れない温かなものだった。
(俺には子育ては向かない)
そう思った時、意識が途切れた。
お読みいただき、ありがとうございました。
最初は脳筋キャラを考えていたドルゴですが、気がついたら北斗の拳に出てきそうなキャラになってました(笑)。声のイメージは当然、故内海賢二さんです。他に思い当たる方はいません。と思ったらいました、玄田哲章さんです(笑)。ドズル(劇場版Ⅲ)&ラムちゃんのお父さんですね(笑)。
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次回は明日の12時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




