第七十四話:水晶の離宮、クレールの戦い【前編】
ギチ、ギチ、ギチ……。
耳障りな音が、『水晶の離宮』の空気を震わせていた。姿は見えないが、この離宮を覆う見えない何かが魔法結界を破ろうとしている音だった。まるで巨人が両手で結界ごと離宮を包み、握り潰そうとしているようだった。
「……少々、外が騒がしいようですな」
奥の部屋で私にお茶を淹れてくれているクラリスが、天気の心配でもするかのように呟いた。その手はいつものように優雅に、そして正確に白磁のティーポットを扱い、傾けられた注ぎ口からは琥珀色の液体がカップに注がれた。ふわりと、豊潤な香りが漂う。
その声と香りが、不安に揺れた私の心をいくらか落ち着かせてくれた。それでも隠しようのない閉塞感がゆっくり、そして確実に私の胸から空気を奪い、首を締め上げようとしているのを感じる。かろうじて出した声は、自分のものでないように震えていた。
「クラリス、これは……結界が……、誰かがこの離宮の結界を壊そうとしているのか?」
「そのようですな」
クラリスは落ち着いた様子でカップをソーサーに乗せると、恭しく私の前に差し出し、ちらりと窓の外に視線を向ける。
「どうやら予定外のお客様のようです。……少々、たちの悪い」
「敵か……! ならば私も」
椅子から腰を浮かした私を、クラリスが軽く手で制する。
「殿下がお相手をするまではありません。こうした迷惑なお客様を御断りするのが私の仕事です。おいぼれの仕事を主人がお奪いになるのですか?」
そう言うと湯気の立つカップを勧める。
冗談めかした口調だったが、そこにはいつもの彼とは違う緊張感があった。クラリスは、私が物心がつく前から常に側にいる、最も信頼できる執事だった。それだけではない、彼は私に王家の人間としての振る舞いや常識などを教える教師であり、なにより私が女性であるという秘密を知り、その秘密を守る壁でもあった。
そのクラリスがいま緊張している。
そこから分かるのは、何か異常なことがいま起きているということだ。
その私の気持ちを察したのか、クラリスはいつものように静かな笑みを見せる。
「どうぞ冷めないうちにお楽しみください。その間に私が御用向きを伺って参りましょう」
そう言うと彼は、深く、静かに一礼して下がることに許しを乞う姿勢をとる。私は一瞬迷った。なぜかもうこれで、彼とは会うことができないような、そんな予感がしたからだ。改めて見直すクレールの髪には、いつの間にか白いものが多く混ざっていた。子供の頃は大きく見えた身長も私が超えて久しい。そんなことがわずか数瞬の間に、私の心を掠めた。私の許可を待ち、微動だにしない彼に、軽く手を上げて許しを与える。
顔を上げたクラリスの顔には、さきほど変わらない静かな笑顔が浮かんでいた。
「お茶の替えが必要な頃に戻ります」
私が無言で頷くと、彼は静かに部屋を出ていった。同時に、
ギチ、ギチ、ギチ
という音が静かな部屋に響いた。その音はさっきよりも大きくなっていた。
✴︎✴︎✴︎
(……やれやれ。俺の目を盗んでここまで接近するとはな)
扉を閉め外へと向かう回廊に向き直りながらそう思った。すかさずフォルカーが「父上もお年ですな」と言っている顔が浮かび、苦笑いが溢れるが、足は止めない。
この水晶の離宮には、古代魔術を由来とする強力な魔法結界が掛けられているが、それ以外にも、付近には、近づくものを感知する様々な魔術具が仕掛けられている。この離宮への招待状を持たない者の接近は、すぐに検知され、ここへ辿り着く前に排除される。もっともそんなことはほとんどなく、この数年は何事もなく過ごせてきた。最近あった変事といえば、ライル殿が来たことくらいだ。もちろん彼は殿下の招待であったので、招待状を持っていたのだが、個人的な興味もあり身体検査をさせてもらった。もっとも検査をされたのはこちらだったが……。
いずれにしろ、いきなりこの離宮の魔法結界を潰しにくるということは、フォルカーからの情報にあった、【深淵の盟約】と名乗る連中だろう。相手の狙いは分からないが、こちらの対応は排除するだけだ。
回廊を歩く俺に数名の護衛兵が駆け足で近寄ってくる。先頭のガレル隊長の報告を足を止めずに聞く。
「敵は正面の森に潜んでいますが、まだ姿を現しません」
「ふん、結界の方は?」
その俺の口調に、ガレルに従う護衛兵が驚いた顔をする。普段の老執事然とした姿しか知らないのだろう。騎士団からここへ来ているガレルのような者にしか、俺の正体は知らされていない。無論それも全部ではないが。
「……まだ保ちますが危険です。かなり強力な破壊魔法で、このまま続けばいずれ……」
その答えに内心驚いたが、顔には出さず小さく頷く。想像以上の連中だ。
「……避難状況は?」
「側仕えや料理人などは念の為に地下の食糧庫に集めています。……殿下はどういたしますか?」
「いまは奥の部屋にいらっしゃる。あそこには離宮全体とはまた違う防御魔法が掛けられているので一番安全だ。とはいえ、念のためにお前たちは全員で殿下をお守りしろ」
「わ、我々全員ですか!?」
「そうだ」
もともとこの離宮は主人である殿下の秘密に考慮して、あまり人間の護衛を置いていない。その代わり、国内でも最強の魔法結界が張ってあるのだ。その結界を相手にここまでのことを仕掛けてきた相手との戦いに、残念だが彼らができることは少ない。俺が敗れたらそこで終わりだ。それでも殿下が逃げる時間稼ぎくらいにはなってもらう。
「俺が奴らを止められず、結界が破れるようなことがあったら、お前たちの半分は、予定通り〈身写し〉の指輪を使い、できるだけバラバラに逃げろ。残りの半分は、殿下を部屋から湖の反対側にある東屋に繋がる地下通路へお連れしろ。東屋の馬には〈風の魔石〉がつけられている。後は陛下の元へ突っ走れ」
俺の指示に、ガレルは即答せず、言い淀んだ。
「どうした?」
「い、いえ……。殿下の御姿を写し、あまつさえ戦いもせず逃げるというのが……」
「王家に剣を捧げた身としては畏れ多く、不本意だというのか?」
「……はい」
ガレルはそこそこ腕が立ち、頭も切れる男だがやはり騎士は騎士だ、俺とは違う。
「気持ちは分からんでもないが、これはただ事ではない。各々、いま我々が最悪の中に在ることを自覚して、最善の手を打つことに集中しろ。何があっても殿下を守るのだ」
「はっ! 分かりました」
そう答えると彼らは、それぞれの役割を果たしに離れていった。前を向いたまま歩いている俺にはその姿は見えなかったが、足音からどこへ向かうのかは分かった。
(それにしても)
と俺は回廊の窓から外の様子を見る。暗い空に時折、稲妻のような光と、それに応じるように術式が浮かび上がっていた。
俺が(王の影)の長をフォルカーに譲ったのは、もう二十年以上も前のことだ。
アレクシウス殿下が、前王アウグスブルグ陛下の弟君・エルハンゼ様のお子としてお生まれになった際、陛下の望みに従い、後をフォルカーに託して、殿下に仕えることになった。以来、俺は名をクラリスと変えて片時も離れず御身辺をお守りしてきた。
思えば殿下は気の毒な方だった。母上は産後の肥立ちが悪くすぐに亡くなり、父君であるエルハンゼ様も殿下が二歳の時に亡くなった。なにより、父君と叔父上であるアウグスブルグ陛下との間で交わされた約束によって、女性であるにも関わらず、次代の王となるべく、男として生きなければならなかったのだ。
それまで我が子の面倒をみることもなく、年に数度しか会うことがなかった俺にとって、幼い殿下を見守るという任務は驚きと戸惑いの連続だった。だが、慣れてくるに従って、殿下と過ごす日々が楽しいものへと変わり、いつしか俺にとって救いとなっていた。物覚えをつく前から血生臭い世界をずっと生きてきた俺に、殿下は人として失っていたものを与えてくれたのだ。
(これはフォルカーには言えぬがな)
そう内心で再び苦笑する。しかし、それは本音だ。
だからこそ、殿下が成長され、女性としての輝きを放ち始めるとともに、その輝きはおろか、女としての生そのものを隠さなければならなかったのは、あまりに不憫だった。それでも幼い頃から聡明な殿下は、ご自分よりも王家のお立場を考え、決して泣き言を漏らすことはなかった。
ただ一度だけ、俺は見ている。
それは、殿下によく懐いていたリヴィア殿下と会うことを禁じられた時のことだ。陛下からの書簡に目を通された殿下は、俺に静かに人払いを命じられた。
退出のために部屋の扉を閉める間際、殿下の白磁のような頬を、涙がつたうのが見えた。
十歳になったばかりの殿下は立ったまま、声も上げず、身じろぎひとつせず……ただ静かに涙を流していた。
その日を最後に、殿下の顔から明るい笑顔が失われた。
あの時俺は本気で、殿下を攫って、どこか遠いところで違う人生を歩ませたいと思った。そして、そんなことを考えた自分に驚いた。(王の影)の長・クレール・アイゼンリーゼの頃の俺は「アウレリアの弔鐘」と呼ばれていた。時を告げる鐘の音が聞こえる範囲の者を、流行病より多く、早く、確実に殺すと恐れられる存在だった俺が、そんなことを考えるとは!
気がつくと外へと出る、扉の前に着いていた。
人生の大半を影として生きてきた俺に、光を与えてくれた殿下への、御恩を返す時がきた。
久方ぶりに、クレール・アイゼンリーゼとして働くのだ。
俺は重い扉に手をかけると、ゆっくりと押し開いた。
お読みいただき、ありがとうございました。
老雄、クラリス(クレール)の出陣です。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




