第七十二話:セレスの飛翔とヴァイスの驚愕【前編】
「――リヴィア様ァァァッ!!」
私は喉が裂けんばかりに叫び、愛馬の首を抱え込むようにして離宮の庭へ走り込んだ。
月明かりの下、見えた光景に血が沸騰する。
黒い霧に縛られ、力なく崩れ落ちたリヴィア様。そして、彼女に薄汚い手を伸ばそうとしている黒ローブの男。
「ふん、邪魔が入りましたか」
男が忌々しげに舌打ちし、指を振る。
瞬間、周囲の闇から這い出た泥人形たちが、私の前に壁となって立ちはだかった。
(どうする!?)と考えることもなく、(跳べ)と思った時にはすでに、私と馬は跳躍していた。全ての重さから切り離された浮遊感が体を包み、壁のように並んだ泥人形と男を軽々と飛び越えた。
「……!?」
こちらを見上げる男の驚愕の表情が、酷くゆっくり見えた。それは男や泥人形はもちろん、リヴィア様や私の周りを通り過ぎてゆく風、そして月から届く光すらゆっくりに感じる。あらゆるものが早さを失った世界の中で、私だけがいつもと同じ速度で全てを捉えることができた。
私は空中で剣を抜き放つと、すれ違いざまに、眼下のローブの男の右肩を薙ぎ払う。カチンと剣先が男の防具に当たるのを感じる。(完全には斬れなかったか)と思うが、その想いはすぐに背後に飛び去り、遅れて聞こえてきた男の悲鳴も一瞬で消え失せる。いま意識しているのはリヴィア様だけだった。
防具の上からでも斬られた衝撃で男の魔力が切れて、彼女を縛っていた縄のようなものが消える。同時に力を失った彼女の体が地面に崩れ落ちてゆく。
私は着地と同時に手綱から手を離し、剣を持つのと反対側の左腕を伸ばす。鎧の動きに反応した馬が僅かに体を低くして、その動きを助けてくれる。そのまま私は馬の動きに身を任せて地面すれすれまで上体を下ろす。
「リヴィア様ッ!」
私は倒れる寸前のリヴィア様の細い腰に腕を回すと、馬の勢いを利用して、その小さな体を軽々と掬い上げた。
「――っ!」
腕に重みがかかる。だが、不思議と重くない。羽のようだ。
私はそのまま馬上で体勢を戻し、リヴィア様を自分の前に抱え込むようにして安全な場所まで走り続ける。そうするうちに段々と時間の感覚が戻ってきた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
馬を止め、腕の中のリヴィア様を確認する。
震えてはいるが、怪我はないようだ。
「セ、セレス……?」
「ご無事ですか、リヴィア様」
問いかけながら、私は自分に問いかけていた。
(いま、私は何をしたの?)
泥人形の壁を飛び越え、空中で敵を斬り、走りながら人を掬い上げる。そんなこと、騎士団の曲乗り大会でもやったことはもちろん、誰かがやっているところを見たこともない。まるで自分ではない誰かが体を動かしていて、それを外から見ているような、不思議な感覚だった。ただやっていた間は、それを不思議と思うことはなかった。私も馬も最初から何をするのかが分かっていて、そこに疑問を挟む必要は全くない、ごく当たり前のこととしていた。剣を抜いたり、振ったりするよりも、もっと普通のこと。それこそ顔を洗ったり、ご飯を食べたりするよりも、もっと普通の(息をするようなこと)だった。
(これが……ライル様の仰っていた『全てが稽古』ということ……?)
驚きに呆然とする私の耳に、私に縋り付いたリヴィア様の泣きじゃくる声と、そして背後からの憤怒の声が響いた。
「おのれ、小娘が……」
男が斬られた肩を押さえながら、憎々しげに睨みつけてくる。その周りには、数十体もの泥人形が蠢き、地面からは新たな泥が湧き出していた。
「許さん……。八つ裂 」
「セレスさん、お見事です」
背後から、男の言葉の途中に割り込んだのは、ライル様の声だった。どこをどう走っていたのか、音もなく現れた彼は、穏やかな笑みを浮かべて私を見ている。
「ライル様……」
「リヴィア様をお願いします。後は私が引き受けましょう」
そう言うと、彼は馬から下りると、労うように軽く馬の首を叩き、こちらに向かって歩き始めた。
私と彼との間には、蠢く数十体の泥人形と、それを使う黒いローブの男がいるのだが、それを気にする様子はない。ライル様は、まるで当たり前のように歩き出した。
お読みいただき、ありがとうございました。
覚醒したセレスが大活躍です。そして久しぶりにライルの出番です。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




