第七十一話:偽りの約束と、森の捕食者【後編】
「……誰が、おまえの思い通りになんて!」
私は拳を握りしめ、踵を返した。
逃げなければ。馬のところまで戻って逃げるのだ! 必死で走っているつもりなのに、体がとても重かった。体だけではない、空気自体が重く、全身がぬかるみに嵌ってしまったように感じた。それでも足は動く。それを頼りに体を前に進める。
「逃がしませんよ」
背後で、男の落ち着いた声がすると、彼の指がパチンと鳴らされる。
前方の闇が揺らいだ。
「ヒヒィィィンッ!!」
悲鳴のような嘶きと共に、大きなものが倒れる音がした。
「いいですねぇ。貴い血をお持ちの方の恐怖の味は、平民風情とは違い滴るようです」
男の声には、他人を弄ぶことを愉しむ、粘り着くような嫌な響きがあった。その声に導かれるように、馬を繋いだ方向から、なにかがズルズルと引きずるような音が聞こえた。
慌てて足を止めて闇の中に目を凝らす。
最初はそれがなんだか分からなかった。時折、人のような輪郭が見えるけれど、動き方が人のそれではない。
ズルズル、べタン、ズルズル、べタン
そんな音が重なりながらこちらに近づいてくる。やがて月明かりに照らされたその姿を見た時、私は輪郭がない理由が分かった。それは人のような形をした泥人形だった。目鼻はなく、歩くたびに不愉快な音をたて、生きながら体が溶けているような何かが、私を取り囲むように迫ってきていた。
「な、なに……?」
悪夢の中にいるような光景に、足が竦んだ。
「どうしました殿下? もうお逃げにならないのですか? もっとも、ここには殿下を守る騎士も、兵士もいない。貴女は完全に孤独なのです」
男が一歩、また一歩と近づいてくる。
「来ないで……!」
私は震える体を叱咤すると、足元の小石を拾い、男に投げつけた。
だが、石はヴァイスに届く前に、見えない壁に弾かれて落ちた。
「流石はアウレリアの王女、愉しませてくれますね。血の色を見るのが楽しみです」
吐き気がするような笑みを浮かべた男が片手を持ち上げ、私に向けた。
その掌に、不気味な紫色の紋様が浮かび上がる。
「――《縛鎖》」
短い詠唱と共に、足元の地面から黒い霧のようなものが噴き出した。
それは蛇のよう私の足首に絡みつくと、瞬く間に全身へと這い上がってきた。
「ひっ!?」
体に絡みつき這い回るそれは、蛇の腹のように冷たく、全身が粟立つ。やがて乗馬服の生地の隙間から素肌へと侵入し、嬲るように腿の柔らかな肉の上を這い、腰や胸を締め上げて私の自由を奪っていく。
(い、嫌っ)
声に出そうとした瞬間、その一本がうなじから首筋に素早く巻きつき、苦痛と羞恥で伏せようとした顔を無理やり上げる。僅かに吐息を漏らすことしかできず、指一本動かせない。無理に動こうとすれば、より深く体を締め上げてくる。私は叫ぶことも、声をあげて泣くことすらできず、月明かりの下で立ったまま縛り上げられていた。
「これは素晴らしい。恐怖と羞恥に染まったその表情……ますます血の質が高まりそうだ」
そう言いながら近づいてくる男の目は狂気に歪み、濡れた唇が異様に生々しい。その背後では、泥人形たちが喉を鳴らすような異音を立てて、じりじりと包囲を狭めていた。
恐怖と嫌悪で身を捩った体に、さらに強く縄が食い込む。
(セレス……お父様……)
視界が涙で滲む。
(ごめんなさい。私の愚かさのせいで、アウレリアの血が穢されてしまう……。……お願い、誰か、助けて)
そう心の中で叫んでも、返ってくるのは僅かな森のざわめきと、ひどく大きい男の呼吸音と、躙り寄る泥人形たちがたてる音だけだった。
「さあ、参りましょうか。殿下のために用意した祭壇がお待ちかねです」
男が私の体へと手を伸ばした、その時だった。
ドッドッドッドッ――!
突然、森の静寂を切り裂いて、地鳴りのような音が響き渡った。
幻ではない。それは、こちらに向かって猛烈な勢いで迫りくる、力強い蹄の音だった。
「――リヴィア様ァァァッ!!」
闇を切り裂くような、凛とした叫び声。
私のよく知る、大切な友の声が、絶望の淵にいる私に届いた。
(第七十一話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
リヴィアには悪いけど、ほんと、こういうシーン書くのは楽しいです(笑)。
「面白い」「続きが読みたい」と少しでも思っていただけましたら、ブックマークや、ページ下の【★★★★★】から評価をいただけますと、大変励みになります。
次回は明日の11時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




