第七十一話:偽りの約束と、森の捕食者【前編】
(どのくらい経ったのかしら……)
私は石畳の広場に置かれた、蔦の絡まる長椅子に腰を下ろし、森の入り口を見つめ続けていた。
到着した時には、まだ西の空にわずかな茜色が残っていたけれど、ほどなく夜の帳が降りてきた。いまは空には凍てつくような星々が瞬き、周囲の森は深い闇に塗りつぶされている。
王都から馬で数刻。森の奥深くに佇む「森の離れ」は、私の記憶の中にある姿と変わらず、ひっそりとそこに在った。(最後にここへ来たのはいつだったかしら?)御兄上と会えなくなった後も、一度か二度は訪れたはずだが、一人で過ごす虚しさを感じるだけで、やがて途絶えてしまった。
それでもこの離れは記憶にある当時のままの姿だった。管理人の手によって掃除は行き届き、庭木の剪定もされている。けれど、そこには「人の温もり」はなかった。主を失い、ただ時間を止めたまま保存されているだけの場所だけが持つ、冷たく物悲しい空気が漂っている。
遠くの教会から、風に乗って微かに鐘の音が響いてきた。
夜の八つ(20時)。約束の時間だ。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
(早く御兄上に会いたい!)その一心でここまで駆けて来た。だけどいまのところ人の気配はない。(本当にいらっしゃるのかしら?)ふと、それまで蓋をしていた気持ちが頭をもたげた。それは初めて手紙を読んだ時からあった疑問だけど、私はずっとそれに気がつかないふりをしてきた。
「お前に会いたいのだ」
という切々とした文章と、行間から漂う甘い匂いが、私をそうさせていた。
でも、こうして一人で待っていると、次第に頭が冷静になってくる。それに従って、自分の行動がいかに常識から外れ、王家の人間として許されざるものであることが分かってきた。それだけではない。私は友人、セレスも欺いたのだ。
ひやりとしたものが背筋を走る。それは夜風が原因ではなかった。自分の心臓の鼓動がひどく大きく聞こえてきて、いまにも不安と後悔で叫び出したい気持ちが体の中で大きくなる。堪えきれず立ち上がった私は、なんとかそれを抑えようと、側にある薔薇の植え込みへと歩み寄る。そこには季節外れにも関わらず、一輪だけが、赤黒い花弁を開いていた。
(そういえば、最後にこの場所で御兄上とお会いした時も、こんな風に薔薇が咲いていた)
懐かしさに誘われるように、私はその花へと手を伸ばす。
「……っ!」
指先に棘の鋭い痛みが走った。慌てて指を引っ込めると、人差し指の腹に、ぷくりと赤い血の玉が浮かんでいた。
「痛い……」
ズキズキとした痛みが、指先から腕へ、そして頭へと響く。その痛みと共に、ずっと頭の中を支配していた、靄のような熱っぽい高揚感が、急速に冷めていくのを感じた。
(……私、どうしてこんな所にいるの?)
冷静になるにつれて、先ほどまでは「都合の良い幸運」としか思えなかったことが、次々と「不自然な事実」となって蘇ってくる。
この離れの門は、普段は厳重に施錠されているはずだ。管理人が常駐しているわけではない。なのに、どうして今日は鍵が開いていたの? まるで、誰かが私が来るのを予期して、招き入れたかのように。
それに、あの手紙。
あんなに都合よく机の上に置かれているものだろうか? 御兄上が、戦時下の危険な夜道に、私をたった一人で呼び出すだろうか? 護衛もつけず、父様にも内緒で、こんな人里離れた場所に――。その結論はセレスに言われるまでもなかった。
「……おかしいわ」
一旦そう口に出してしまうと、疑念は指先の血のように滲み出し、心の中に広がっていく慄然とする。
(私はなんていうことをしているんだろう!?)
セレスを欺き、父様の言いつけを破り、勝手に城を抜け出したのだ。それでもまだ、御兄上に会いたいという思いは、焼印でもされたようにしぶとく胸に残っていた。でもそれ以上に「ここは危険だ」という本能的な寒気が、背筋を駆け上がっていた。
「帰らなきゃ……!」
私は血の滲む右手の人差し指を口に入れると、ぎりっと噛んだ。口の中に血の味が広がる。それが私に正気を保たせてくれる。そのまま繋いでおいた馬の元へ戻ろうと踵を返した。その時、
ジャリッ。
不意に、背後で砂利を踏む音がした。
私は弾かれたように振り返る。
「リヴィア」
前触れもなく影から、一つの人影が現れた。
月明かりに照らし出されたその姿は、金色の髪に、優しげな顔立ち。記憶の中にある面影よりも少し大人びているが、何度も思い描いていた人物だった。
「お……御兄上!?」
恐怖が一瞬で揺らぎ、喜びが込み上げる。
(やっぱり、いらしてくれたんだ。疑ってごめんなさい)
私は安堵のあまり涙ぐみ、御兄上のもとへ駆け寄ろうとした。
「お会いたかったです……! リヴィアはずっと、ずっとお会いしとうございました!」
私が手を伸ばし、彼に近づいた時だった。
ふわり、と風に乗って、鼻腔をくすぐる香りがあった。
蜜のように甘く、どこか頭が痺れるような香り。
(……え?)
この匂い、知っている。
昨日、私の机の上に置かれていた手紙。あの封蝋を開けた瞬間に漂ってきた香りと、同じ匂いだ。
それを認識した途端、さきほど薔薇の棘で取り戻した理性が、警鐘を乱打した。
(……違う)
私は足を止めた。
指先が触れ合うほどの距離。そこで、私は見てしまった。
目の前の御兄上の瞳。いつも穏やかで、温かい光を宿していたその瞳が、いまはまるで硝子玉のように無機質で、何の感情も映していないことに。
それは私の知っている御兄上ではなかった。どんなに時が経とうとも、こんな風にただの道具を見るような目で、私を見たりしない。それだけは確かだった。
「……誰?」
震える声でそう問うと、目の前の「御兄上」の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
いや、表情が歪んだのではない。顔そのものが、泥が崩れるように変形し、溶け落ちていく。
美しい金髪も、優しげな顔立ちも、夜の闇に溶けて消え――後には、黒いローブを纏った、神経質そうな痩せぎすの男が立っていた。
「おや……。感動の再会とはいきませんでしたか」
男は、残念そうに、しかしどこか楽しげに肩をすくめた。
「初めまして、リヴィア殿下。私の名はヴァイス。『深淵の盟約』にて導き手を務めさせていただいております」
「しんえんの……盟約……?」
聞き覚えのない名前に、私は後ずさる。
御兄上はいなかった。甘い香りの手紙も、この再会も、最初から私を誘い出すための罠だったのだ。ずっと私の目の前にありながら、それを見ることを拒んできた絶望的な答えがそこにあった。
「……私を騙したのね……」
私の問いかけに、ヴァイスと名乗った男は、芝居がかった仕草で恭しくお辞儀をした。
「騙すなどと、人聞きが悪い。私はただ、殿下の『会いたい』という切なる願いを、少しばかり後押しさせていただいただけですよ」
ヴァイスは細長い指を立て、ふわりと振った。すると、彼の袖口からあの甘い香りが漂ってきた。咄嗟に鼻を覆う。私の様子を見て男が馬鹿にしたように笑った。
「お気づきになられましたか。これは希少な魔木から抽出した、精神を解きほぐす薬です。思考の隅にある警戒心を麻痺させ、心にある願望を肥大化させる。……まあ、殿下のように純粋で、強い願いをお持ちの方にしか効きませんがね」
男は嘲るように目を細めた。
「『御兄上に会いたい』。その一心で、殿下は不自然な点から目を逸らし、自ら進んで籠を抜け出してくれた。実に扱いやすい、素直な姫君だ」
「……っ!」
屈辱と後悔で、顔が熱くなる。
私は操られていたのだ。自分の弱さを、心の隙を突かれて。
セレスが止めてくれたのに。彼女の懸命な言葉も、この甘い香りの前では届かなかった。
(いえ違う。私が弱かったからつけ込まれたのだ)
そう思うと同時に、体の中にアウレリアの人間としての誇りが息を吹き返すのを感じた。
「目的は何なのですか? 私を拐って、身代金でも要求するおつもり?」
私は震える足を叱咤し、男を睨みつけた。これ以上無様な姿を、こんな男に見せるわけにはいかない。
「金? ふふ、そんなものに興味はありませんよ」
そう答えつつ、男は冷ややかな瞳で、私を頭からつま先まで値踏みするように見つめた。
「我々が求めているのは、貴女の中に流れるものです。アウレリア王家の血……それこそが、偉大なる力を呼び覚ます鍵となる」
「王家の……血……?」
「ええ。貴女の血を捧げてもらうことで、我々の悲願は成就するのです」
そう言う男の目には、間違えようのない狂気の光があった。
ゾクリ、と背筋が凍りついた。
(この男は本気だ。ここかどこかは分からないけれど、いずれにしろ私を生かしておくつもりはない)
お読みいただき、ありがとうございました。
窮地に陥るリヴィア。こういうシーンを書くのはかなり好きです(笑)。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




