第六十九話:「冷たい紅茶と、分かたれた道」【後編】
それが目に入った瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。同時にその短い言葉が、私への断罪のように目に焼き付いた。横からその手紙を覗いた侍女長が、「嘘……」と呟いてその場に崩れ落ちる。私は彼女に構わず、テーブルの上のティーポットに触れた。陶器の肌は、氷のように冷え切っていた。
「侍女長! 貴女が最後に殿下を確認したのはいつだ!?」
私は崩れ落ちた侍女長の肩を揺さぶった。答えられない彼女に代わって、控えていた侍女の一人が真っ青な顔で答えた。
「は、はい……! 私たちがお茶をお持ちしたのは、昼下がりの鐘が鳴ってすぐ……三つの頃(15時頃)でございます! その時に、お休みになると……」
「いまは……五つ過ぎ」
すでに二刻(二時間)過ぎている。もし、侍女たちを遠ざけた直後にここを出たのだとしたら……。
「大変だ……!」
その時、廊下から伝令の兵士が顔色を変えて駆け込んできた。
「隊長! 報告します! 厩舎から、リヴィア殿下の愛馬がいなくなっております! また裏門の兵士より、二刻(2時間)ほど前に『使者の形をした、小柄な人物が馬で出ていった』との報告がありました……!」
「なんだと!?」
「た、ただ、王家の許可書を持っていたそうです」
隊長の気迫に弁解気味に答えたその一言で、その場にいた全員に事態が確定的になったのが分かった。
「リヴィア殿下が城を出られた! 総員、捜索だ! 城門を閉鎖しろ! いや、もう外に出ているなら追跡隊を……!」
「まずは陛下に! 陛下に報告を!」
怒号が飛び交う中、私は呆然と立ち尽くしていた。恐らく目的地はあの手紙にあった「森の離れ」だろう。
彼女は行ってしまったのだ。私の制止を振り切り、私を欺いて、たった一人で。
「……リヴィア……」
誰も聞いていない喧騒の中で、私は思わず友の名を呼んだ。
次の瞬間、強烈な後悔の念が心に渦巻いた。やはりあの時に、手紙のことを陛下にご報告すべきだったのだ。王の剣としての責任を全うしていれば、こんなことにはならなかったはずだ。
いまから捜索隊を編成しても、馬で二刻の距離を埋めることは容易ではない。その間に彼女は……。
絶望が私の足をすくませようとした、その時だった。
「……どうしたのですか?」
混乱の渦中にある部屋の入り口に、一人の影が立った。
その落ち着いた声に振り返ると、そこにはいつものライル様が静かに立っていた。
「ラ、ライル様」
彼は衛兵や侍女たちの騒ぎをよそに、当たり前のように部屋に入ってくると、テーブルの上のティーポットと私、そして私の手の中にある書き置きを一瞥し、不思議によく通る声で隊長を呼んだ。
「隊長、陛下へのご連絡は?」
「あ、ライル様。はい、すでにお伝えしております! 城門の封鎖も……」
「いや、それはもう間に合わないでしょう」
そう言うライル様の口調は場違いなほど淡々としていたが、その指示は的確だった。
「ただこの機に乗じて不審者が忍び込む可能性があります。警備をさらに厳重にして、それとリヴィア殿下の不在が城外に漏れないように箝口令を、王都全域に敷いてください」
「は、はいッ! 直ちに!」
隊長が弾かれたように走り出す。
ライル様は、その背中を見送ることなく、私に向き直った。
「セレスさん」
「は、はい……!」
「正規の捜索隊も出されるでしょうが、それを待っていては間に合いません。二刻もあればかなりの距離を進んでいます。いますぐ動ける者だけで追いますよ」
ライル様の黒い瞳が、呆然とする私を射抜いた。
「貴方には彼女が行き先に心当たりがあるのではないのですか?」
「……ッ!」
その言葉に言葉を失った。ライル様は分かっているのだ。私が騎士として許されざる失敗をしたことを。その瞬間、悲しみと自分への怒り、そして、それよりも遥かに激しい羞恥の感情が、指一本動かすことも、息もつけないほどに強く私の体を縛った。アークライト家の名誉はもちろん、自分を一番、分かって欲しい人に、自分の一番見せたくないところを晒してしまったのだ。
(この場から消えてしまいたい)
心からそう思う私の耳に、ライル様の静かな声が届いた。
「セレスさん、大事なことは『いま』何をするかです」
その言葉に思わず彼の顔を見直す。そこにあるのはいつもと同じ、初めて道場で会った時と変わらない、少し困ったような笑顔を浮かべている青年だった。
そうだ。私が犯した過ちは、私の剣で償わなければならないのだ。それ以外のことをいま考える必要はない。
「はい!」
ライル様は私の返事に満足したように頷くと、私を連れて部屋を出て厩舎へ向かった。
「城を出る時に門番にリヴィア殿下の行先と、我々が追ったことを伝えてください」
「分かりました!」
私たちは戸惑う衛兵を尻目に、手早くそれぞれの馬に馬具を設えると、石畳の上を駆け、王城の裏門を目指した。近づくと緊急事態を受け、警備兵たちが槍を構えて門を閉ざそうとしているのが見えた。
一気に駆け抜けようとする私たちに向かって、慌てた衛兵が駆け寄る。
「止まれ! 何人たりとも通行は……!」
「道を開けなさい! 緊急任務です!」
私は嘶く馬を制して足を止めさせると、馬上で叫んだ。
「セ、セレスティア殿!? ライル様まで!?」
私の顔と、後ろに続くライル様の姿を認め、兵士たちが動揺する。
「陛下に、リヴィア殿下の行先は森の離れだと伝えてください」
「リ、リヴィア殿下の行き先は森の離れ!?」
慌てて復唱する衛兵に、
「一足先に私たちは先に向かいます。門は私たちが出た後、封じなさい」
と言い捨てると、私たちは馬腹を蹴り一気に門を駆け抜ける。背後に慌てた衛兵たちが声を掛け合い動き出す姿と、王城の灯りが、あっという間に遠ざかっていく。
冷たい風が頬を打つ。
私は手綱を握りしめながら、闇の向こうを見据えた。
(お願い、リヴィア……!)
どうか、間に合って。私の愚かさが、取り返しのつかない悲劇を招く前に。後ろから聞こえるライル様の騎乗する馬がたてる規則正しい馬蹄の音が、ともすれば崩れそうになる私の気持ちを奮い立たせてくれる。
(いまは考える時じゃない)
ふと、ライル様の教えが蘇り、私は馬の揺れに気持ちと体を集中させる。
すっと周囲の音が遠くなる。音が小さくなったのではない。ただ川の水のように、私の周りをさらさらと音が流れてゆく。それと同時に、次第に揺れへの意識が消えていく。体を馬の揺れに合わせるのではなく、実際の馬の動きの僅かに先に軽く身を添えるような感じ。馬と自分の体が一体となり、力強く、そして滑らかに動く足先から揺れる尻尾の先まではもちろん、それどころか激しく流れる血と吹き出る汗が冷たい空気に触れて、熱くなった体をひやりと冷やす感覚までが伝わってくる。そしてなにより、走ることへの快感が私の体の奥に響く。
(道場の稽古、剣を振るだけが稽古ではありません。生活の全てが稽古なのです)
ライル様が言う、その言葉の意味がその時分かった。
その瞬間、いま自分が何のために馬を走らせているのか、友人であるリヴィアや北の地へと進む父上、そして行方不明のルナのことも忘れて、私は幸せだった。
(第六十九話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
不運続きのセレスですが、最後に少し良いことがありました。これぞ「不幸中の幸い」(笑)。でも何かを分かる時ってこんな感じだったりするのではないでしょうか。
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次回は明日の11時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




