第六十一話:王の思いと、分かたれる道【前編】
大会議室での激論を終え、重苦しい空気を引きずったまま、私は私室へと戻っていた。
暖炉には火が入れられ、パチパチと薪が爆ぜる音が響いている。だが、その温もりも、私の骨の髄まで染み込んだ寒気を追い払うことはできなかった。
窓の外は依然として冷たい雨が降り続いている。ガラスを叩く無数の水滴が、まるで暗闇から忍び寄る無数の視線のように見え、私は思わずカーテンを閉ざした。
「……陛下。ライル・アッシュフィールド殿をお連れしました」
扉の向こうから、近衛兵の声がした。
私は大きく息を吐き出し、乱れた心衣を整える。王としての仮面を被り直し、椅子に深く腰掛けた。
「入れ」
重厚な扉が開く。
現れたのは、質素な衣服を纏った黒髪の青年だった。
ライル・アッシュフィールド。
どこにでもいそうな平凡な容姿。華美な装飾もなければ、英雄然とした覇気もない。だが、その立ち姿には、大樹のような揺るぎない安定感がある。
彼が入室した瞬間、部屋に満ちていた澱んだ空気が、ふっと澄んだものに変わったような気さえした。
「お呼びでしょうか、陛下」
ライルは、自然な動作で一礼した。過度なへりくだりもなく、かといって不敬でもない。ただ、そこに在るがままの敬意。
「うむ。……ライルよ、よく来てくれた」
私は、彼に近くの椅子を勧めた。本来、王の前で許可なく座ることは許されないが、今の私は形式張った儀礼よりも、少しでも彼との距離を縮め、その温もりに触れていたかったのだ。
「そなたも聞いたであろう。先ほどの会議で、騎士団の主力を北へ送ることを決定した」
「はい。イザベル殿、ギデオン殿、そしてレオポルド殿も向かわれるとか」
ライルの声は淡々としていた。
「アウレリアが出せる、最強の布陣だと聞いています」
「……左様。彼らは最強だ」
私は頷いた。言葉の上では同意しながらも、胸の奥で黒い不安が渦巻くのを止められない。
「だが、それは諸刃の剣でもある。主力をすべて外へ送り出せば、当然、この王都の守りは手薄になる。……イザベルもギデオンもいない王都など、裸も同然だ」
私は立ち上がり、暖炉の前へと歩いた。揺れる炎を見つめながら、背中で語りかける。
「もし、北の騒ぎが陽動で、手薄になった王都を狙われたら……。いや、それだけではない。余が恐れているのは、外敵だけではないのだ」
私は振り返り、苦渋に満ちた顔でライルを見た。
「ライルよ。そなたには、正直に話そう。……余は、怖いのだ」
ライルの眉がわずかに動いたが、彼は何も言わず、静かに聞き入っている。
「余は長年、信頼していたゲルハルトによって、薬で操られていた。思考を奪われ、国を傾けるような愚策を裁可させられ、あまつさえ我が子や后妃が危機に晒されていることにも気づけなかった」
拳を握りしめると、爪が掌に食い込んだ。
「クーデターは終わった。だが、人の心はそう簡単には変わらぬ。貴族や騎士の中には、あのような醜態を晒した余を、王に相応しくないと考えている勢力が未だに残っている。……彼らの目には、不満や軽蔑の色が見えるのだ。『また操られているのではないか』『この王で大丈夫なのか』と」
それは、被害妄想かもしれない。だが、一度裏切られた傷は深く、疑心暗鬼という毒となって私の心を蝕んでいる。
主力が不在となるこの時期に、王都で再び不穏な動きがあるのではないか。寝首をかかれるのではないか。その恐怖が、私を捉えて離さない。
「本来であれば、余自らが北伐の指揮を執り、王としての威信を示すべきであったろう。だが……ゲルハルトの毒は、まだ余の体を蝕んでいる。長時間の遠征に耐えうる体力はない。それに、この疑念渦巻く王都を空けるわけにもいかんのだ」
私はライルに歩み寄り、その瞳を覗き込んだ。
「だからこそ、だ。……ライル。そなたは、余の側にいてくれ」
「……北へは、行かなくてよろしいのですか?」
彼は静かに問い返した。
「ギデオン殿やイザベル殿が向かうとはいえ、相手は未知の魔術を使う集団です。人手は少しでも多い方が良いのでは?」
彼らしい、謙虚で素っ気ない反応だ。自分が行けば戦局が変わるなどという驕りは微塵もない。ただ純粋に、戦力が足りているのかを案じているだけだ。
だが、私は知っている。彼という「個」が持つ力が、千の兵にも勝ることを。
「ならん!」
私は強い口調で否定した。自分の声が上ずり、焦りが滲んでいるのが分かった。
「そなたの力が、北の戦場でどれほど有用かは分かっている。だが……余は、そなたを失うリスクを冒したくないのだ。そして何より、余自身と、城に残る娘のリヴィアを守るための、絶対的な『盾』が必要なのだ」
私は、ライルの肩を掴んだ。
「そなたは、アウレリアの貴族ではない。派閥にも属さず、利害関係もない。余が今、この王都で心から背中を預けられるのは、命の恩人であるそなただけなのだ。……頼む、ライル。王城に留まり、余と后妃とリヴィアを守ってくれ」
ライルは、私の目を真っ直ぐに見返したまま、静かに口を開いた。
「……承知いたしました。ですが、アレクシウス殿下の警護は如何なされますか? 離宮は王城からは離れておりますが」
ライルの瞳に、微かな懸念の色が見えた。
だが、私はその懸念を、手を振って打ち消した。
「アレクシウスについては心配ない。離宮には、王家最強の防御結界がある。それに、あれにはクララがついている」
離宮で執事を務めるクララ。その正体が、かつて裏の世界で名を馳せた「王の影」の長、クレール・アイゼンリーゼであることを、ライルも知っている。
「クララの実力はそなたも知っていよう。あれはかつての王の影であり、最強の盾だ。それに、離宮はもともと人の出入りも限られており、不審な者がつけ入る隙も少ない。……むしろ、多くの人間が出入りし、敵意が渦巻くこの王城の方が、遥かに危険なのだ」
これは、私の願望が含まれた判断だったかもしれない。だが、最強の結界と最強の暗殺者がついているアレクシウスよりも、無防備な自分とリヴィアの方が危ういというのは、論理的な帰結のようにも思えた。
ライルは、一瞬だけ沈黙した。
その瞳が、窓の外の雨雲を見るように、どこか遠くを映した気がした。
彼の「理」は、何を感じ取っているのだろうか。
だが、彼はそれ以上、王の判断に異を唱えることはしなかった。
「……承知いたしました」
やがて、ライルは静かに頭を下げた。
「陛下のご命令とあらば。……この身、王都に留まり、陛下とリヴィア様、后妃様をお守りいたします」
「おお、そうか! 受けてくれるか!」
私の顔に、ようやく本当の安堵の色が戻った。胸のつかえが取れ、呼吸が楽になるのを感じた。
「そなたがいれば、百人力だ。これで余も、枕を高くして眠れるというものだ」
私は満足げに笑った。ライルの肩を叩き、感謝の意を示す。
この時の私は、気づいていなかったのだ。
自らが負った心の傷が人間不信が目を曇らせ、敵の本当の狙い――「アレクシウス(王家の血)」への警戒を緩めてしまったことに。
そして、ライルという最強の剣を、自分の恐怖心を鎮めるためだけの「精神安定剤」として手元に置いてしまった罪深さに。
ライルが退室した後、私は再び窓の外を見上げた。
雨は止む気配もなく、王都を濡らし続けている。
「……頼んだぞ、ライル」
私は、祈るように呟いた。
不吉な風が、窓の隙間から入り込み、蝋燭の炎を揺らした。
お読みいただき、ありがとうございました。
今回はヴァレリウス王とライルです。ヴァレリウス王のトラウマは深く、ライルですらもここでは無言で退出します。ちなみにトラウマの解消法としてはソマティック・エクスペリエンス(SE)と呼ばれる神経系へアプローチする方法が注目されています。いずれ作中にも反映させてみたいと思っています。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




