第五十九話:水晶の静寂、理(ことわり)の波紋【後編】
稽古の後、私たちは離宮のテラスで休憩を取った。
侍女がハーブティーを運び去ると、再び結界特有の静寂が戻る。私は、自分の掌をじっと見つめていた。先ほどの感覚――体が羽毛のように軽く、世界と一体になったような全能感が、まだ指先に残っている。それは、生まれて初めて感じた「自由」の感覚だった。
「……ライル。そなたは、不思議な男だ」
私は、向かいに座る黒髪の青年を見つめた。彼は、王族を前にしても全く萎縮せず、かといって不敬に感じることもない。ただ、そこに在る大樹のように自然体だ。
「私は、自分のこの立場を、ずっと私の体と心を蝕む呪いのように感じていた。雁字搦めにされる苦しさと、それを打ち破ろうとするうちなる猛獣を、鎖で繋ぎ止めているような、二つの相反することをずっと続けている気分だった。……だが、そなたはその全てを『流せ』と言った」
ライルは、出された茶菓子を一口食べてから、ゆっくり答えた。
「どんな清らかな水も、堰き止めれば濁り、淀み、そして溢れ出します。ですが流れるべき場所へ導けば、それは恵みになります。洪水もまた豊かな作物を得る土壌となるのです」
ライルの瞳は、どこまでも澄んでいる。
「殿下も同じです。抑え込むから苦しい。……あなたが自然な器として安定し、その流れを制御できるようになれば、それは本当の殿下を映す鏡となり、最強の武器になるはずです」
「器、か」
私は、カップの水面に映る自分の顔を見つめた。蒼白で、線の細い顔。父上のような武骨な髭もなければ、歴戦の騎士のような傷もない。今まで、私は「騎士のように戦えない自分」を恥じていた。前線で剣を振るうことこそが、アウレリア王家の務めだと思い込み、それが叶わぬにしても、せめて男として、武人として振る舞わねばならないと、自分自身を呪縛していた。
「ですが、殿下」
ライルは、私の思考の泥を掬い上げるように続けた。
「王の役割とは、最前線で剣を振るうことだけでしょうか」
「……何?」
「私は『理』しか教えられません。ですが、この『理』は、剣だけではなく、おそらく統治の『理』にも通じるように思ます」
ライルは、テーブルの上の水差しを指差した。
「器の水は、自ら動こうとすれば波立ち、濁ります。ですが、器そのものが揺るぎなく安定していれば、水は静まり、鏡のように全てを映し出す」
ライルは、私の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「騎士たちは剣です。そして、殿下はそれを満たす器です。……もし、器であるあなたが不安に揺れれば、中の水――騎士や民たちもまた、動揺し、力を発揮できないでしょう」
私は、ハッとした。 そうだ。私がここで焦り、恐怖し、「自分も戦わなければ」と無意味に騒げば、その動揺は必ず伝播する。 逆に、私がここで揺るぎない「静寂」を保てば……。
「……私が、揺るがぬ器であれば……剣は、迷わず振るわれると?」
「はい。あなたがここで、静寂を保ち、揺るぎない『理』を体現していれば……その波紋は必ず外へ伝わります。騎士たちは、背後にいるあなたの静けさを感じ取り、安心して戦えるはずです」
ライルの言葉は、どんな高僧の説法よりも、私の腑に落ちた。それは、ライル自身が「理」を体現しているからこその説得力だった。私は、無理に剣士になろうとする必要はない。男のふりをして、肩を怒らせる必要もない。この剣を力任せに振るう必要もない。ただ、それを御する「器」として、ここに在ればいいのか。
「……そうか」
私の中で、何かがカチリと嵌まる音がした。長年、私の心を締め付けていた焦燥と劣等感が消え、代わりに、深く静かな覚悟が満ちていく。体の中を流れる魔力の奔流が、先ほどよりも滑らかに、静かに巡り始めるのを感じた。それは決して暴走する力ではなく、私の意志に従う従順な大河だった。
「ライル。……礼を言う」
私は、カップを置き、凛とした表情で顔を上げた。もはや、そこには「虚弱な王太子」という演技も、「性別を偽る少女」という負い目もない。ただ一人の、国を背負う王族としての顔があった。
「私は、私の戦いをしよう。この離宮で、誰よりも静かに、誰よりも強く在り続ける。……それが、今の私にできる、王としての務めなのだな」
ライルは微かに笑うと、立ち上がった。 その眼差しは、師匠が弟子を見るような温かさと、一人の人間への敬意に満ちていた。(私に許可や、何かを認めてもらう必要はないのです)そう言っているように思えた。
「では、休憩は終わりです。……今度はもう少し長く、少しずつ早くしてみましょう」
私たちは再び中庭へと戻る。風は依然として冷たく、木々が揺れる音が聞こえる。だが、私の心は、もう揺れてはいなかった。私の中に芽生え始めたのは、かつてのムルド王のような破壊的な「力」への渇望ではない。 ライルが導いてくれた、万物をあるがままに受け入れ、統御する「理」への目覚め。
アウレリア王家の血が持つ本当の意味――「支配」ではなく「調和」の力に、私は今、初めて触れた気がした。
ライルの前に立ち目を閉じる。始めの合図はない。風の音が大きくなる。だけど、そこに意識は留めない。吹きゆく風を、吹きゆくままに受け流す。不意にその中に、何か固いものが交じるのを感じる。それはほんの僅かな、気のせいのような違和感だ。だが私はそれを無視せず、向かってくる速度に合わせてゆっくり躱す。何かが自分の首のすぐ傍を通るのを感じる。(できた)と湧き上がる気持ちを感じる。それを無理に抑えようとはしない。その気持を素直に喜び、手放し、次の変化に耳を澄ます。すると今度は右の方向から、頭に向かって何かが迫ってくるのを感じる。さっきより僅かに速くなっている。私もまた、僅かに速くそれを頭を後ろに引いて躱す。知らず知らずのうちに私の口元に笑顔が浮かんでいる。それは体から自然に湧き上がった笑みだった。
その時、私は幸福だった。
(第五十九話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
アレクシウスの稽古は順調そうでなによりです。ほのぼのした二人の後に続くのは、なんでしょう? 実はまだ考えていないのです(笑)。
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次回は明日の11時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




