第五十九話:水晶の静寂、理(ことわり)の波紋【前編】
季節は「霜月の月」の中旬を迎えていた。
王都の空は鉛色の雲に覆われ、時折、冷たい風が枯れ葉を舞い上げている。
城では騎士団の本部がある区画からは、朝から絶え間なく喧騒が響いていた。北の辺境からもたらされた凶報は、この平和な王都を一瞬にして戦時下の空気へと変えていた。
だが、俺がいるこの「水晶の離宮」だけは、まるで別世界の静寂に包まれていた。
強力な結界によって守られたこの場所には、外界の音は届かない。聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、俺たちの稽古着が僅かに立てる衣擦れの音だけだ。
「――そこです。また、無理に止めようとしましたね」
俺は、静謐な空気に声を落とす。
枯芝が広がる中庭の中央。俺と向かい合って立っているのは、この国の王太子、アレクシウス・アウレリア殿下だ。
「……くっ!」
殿下が踏み込んでくる。
その速さは、常人のそれを遥かに凌駕している。しなやかなバネがあり、鋭い。だが、その動きにはわずかな「外連」がある。
俺は、突き出された殿下の手首を、そっと指先で払った。本当に、羽虫を払う程度の力だ。しかし、それだけで殿下の体勢は大きく崩れ、彼女はたたらを踏んで芝生に膝をつきそうになった。
「……なぜだ。なぜ、これほど簡単に崩される」
殿下は、荒い息を吐きながら俺を睨み上げた。その宝石のような碧眼には、焦燥と悔しさが滲んでいる。
俺は、彼女の手首――男として振る舞うにしてはあまりに細く、華奢な骨格を持つその部位に視線を落とした。
俺は知っている。この「王太子」という皮の下にあるのが、男性ではなく、女性の肉体であることを。
そして、なぜ彼女がそう振る舞わなければならないのか、その理由も知っている。
ヴァレリウス王は、俺に全てを明かしてくれた。
亡き先王との誓い。王位継承を巡る混乱を防ぎ、そして何より、この娘を政敵や『深淵の盟約』の魔手から守るため、生まれた瞬間から「男」として育てるしかなかったのだと。
彼女の立ち振る舞いには、遊びがない。それは、国を背負うために自分自身を殺し続けてきた、悲壮なまでの覚悟の表れだ。だが、その崇高な「宿命」という名の呪縛が、いま、彼女の骨の髄まで染み込み、本来の肉体の動きを邪魔している。
彼女は「男の王太子」として戦おうとしすぎているのだ。
「殿下。あなたは、ご自分に合わない『鎧』を着て戦っているようなものです」
俺は静かに指摘した。
「……鎧だと?」
「あなたは、自分を強く大きく見せようとして、常に肩と腕に不要な力を込めている。……それは、王太子という役回りが作る不自然なもので、あなたの本来の体が求めているものではありません」
殿下はどこかで男性特有の「力でねじ伏せる剣」を理想としているのだろう。だが、彼女の女性としての体がそれを拒絶している。
その不一致が、動きの硬直を生み、不自然な動きにしているのだ。
「……北の情勢が気になりますか?」
俺は話題を変えるふりをして、核心に触れた。
「私が、そう言ったら?」
「責任感は結構です。ですが、あなたは心だけでなく、体まで『王太子』という虚像で固めている。……それでは、いずれ中身が壊れます」
俺は一歩踏み出し、殿下の正面に立った。
王から託された真実を知る者として、俺には彼女を導くことを頼まれた。それは、偽りの男としてではなく、性別さえも超えた、アレクシウス本人の「個」に気づかせることだ。もちろん、俺ができることは限られている。馬を水辺に連れて行っても、水を飲むか飲まないかは馬が決めることだからだ。
「殿下。私は師範として、事実を申し上げます」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、屈強な騎士にはなれません。岩のような筋肉で敵を弾き返すことも、剛腕で叩き潰すこともできない」
「……っ、分かっている! だから私は……!」
「ですが」
俺は言葉を重ねた。
「岩になれないのなら、水になればいい」
「……水?」
「はい。あなたの体は、本来とても柔らかい。その柔軟さは、剛剣をも絡め取り、無効化する最強の武器です。……生まれた時から背負わされた重荷を、一度下ろしてください」
俺は、彼女の肩に手を置いた。
男として振る舞うために、常にいからせていた肩。
「力を抜いて。……あるがままの、あなたの重心で立ってください。誰に見せるためでもなく、ただ、あなたが最も楽だと感じる立ち方で」
殿下は一瞬、戸惑ったように俺を見た。俺の瞳の奥に、秘密を知る者特有の理解を見て取ったのかもしれない。
俺は何も言わず、ただ静かに待ち続けた。
やがて、彼女は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
重心が下がり、骨盤が自然な位置に収まる。
無理に広げていた足幅が狭まり、全身から「張り」が消えた。
そこには、王太子の威厳という鎧を脱ぎ捨てた、一人の華奢な人間――いや、少女の姿があった。
「……不思議だな」
彼女は自分の掌を見つめた。
「力が抜けているのに、さっきまでよりも、大地を掴んでいる気がする」
「それが、あなたの『理』に合った姿だからです」
俺は再び構えを取った。
「目を閉じてください。城の外の喧騒も、王族としての宿命も、一度すべて忘れるのです。……ただの、水になってください」
殿下は、素直に瞼を閉じた。
その表情から、険しさが消えていく。
魔力の奔流も、抑え込まれるのではなく、静かな水脈のように彼女の中を巡り始めた。
「行きますよ」
俺の声と同時に、彼女の喉元へ、ゆっくり突きを放つ。通常の十分の一程度の速さだ。ただ狙いは正確に、殿下の喉を狙い真っ直ぐに突き出す。
あと少しで木刀の切っ先が喉に触れるところで、フワリ、と、風に揺れる柳のように、彼女の上体が自然に揺らいだ。
思考するよりも早く、体が最適解を選んでいた。力に抗うのではなく、流れを受け流す動き。
「……あ」
目を開けると、俺の木刀が、殿下の白い首筋を僅かに掠めたところで止まっていた。完全に、躱していた。
「……見事です」
俺は、心からの称賛を口にした。
「それが、あなたの本当の強さです。……偽りの鎧など必要ない。あなたは、そのままで十分に強い」
殿下は、驚いたように自分の体を見下ろし、それから俺を見た。
その瞳には、初めて自分自身の肉体、そして背負った運命ごと肯定された喜びが宿っていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
久しぶりのライル登場です(笑)。王都はにわかに慌ただしくなってきていますが、離宮では相変わらずマニアックな稽古風景で、書いていても新鮮です。後編はアレクシウスの視点でお送りします。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




