第五十八話:深淵の盟約、蠢動【前編】
アウレリア王国の東方。魔法大国タイドリアとの国境に挟まれた、主権の曖昧な中立地帯。 草木も眠る荒涼とした岩砂漠の地下深くに、その空間は存在した。 数百年、いや、あるいは千年もの間、地上の光を拒絶し続けてきた忘れられた古代遺跡。湿った冷気と、古い石材特有のカビ臭さ、そしてそれらを凌駕する濃密な魔力の澱が、空間全体を支配していた。
こここそが、我々『深淵の盟約』が長きにわたり築き上げてきた拠点である。
私――黒きローブを纏った指揮官は、巨大な石机の前に立っていた。 机上には、アウレリア王国の詳細な立体地図が魔力によって投影されている。北のグリフォン山脈、西の港湾都市、そして中央に座する王都。すべてが、私の掌の上にある盤上の駒に過ぎない。
「……予定時刻だ。北が、動いたな」
私は、感情を排した低い声で、事実だけを口にした。 地図の北端。氷雪に閉ざされた山脈を示す位置に置かれた、どす黒い駒が、不気味な脈動を始めている。それは、現地の魔力濃度が臨界点を超え、物理的な侵攻が開始されたことを告げる合図だ。
背後の闇から、一人の男が進み出る。私の腹心であり、最も優秀な術者の一人、ザックスだ。
「はっ。現地に潜伏させていた部隊より報告がありました。蛮族どもの統率、完了、および、国境防衛線への進軍を開始したとのことです」
ザックスの声には、抑制された興奮が滲んでいた。
「アウレリアの監視砦『白狼』周辺は、すでにパニック状態にあるようです。異種族混成部隊による、統率された行軍……。平和ボケした騎士たちには、さぞかし恐ろしい悪夢に見えていることでしょう」
「結構だ」
私は、地図上の「王都」にある白銀の駒を、指先で軽く弾いた。
「これで、王都の騎士団は北へ目を向けざるを得ない。精鋭たちが雪山へ誘い出され、王都の守りが薄くなる。……そこまでは、三流の策士でも描ける絵図だ」
私の視線は、地図の上を滑り、東へ――現在我々がいる、この「国境付近」へと移された。 そこには、まだ起動していない、巨大な「ゴーレム」を示す紋章が描かれている。
「重要なのは、『時間差』だ」
私は顔を上げ、周囲の闇に控える幹部たちを見回した。彼らのローブの奥から、無数の視線が私に突き刺さる。期待、畏怖、そして一部の者たちが抱く、狂信的な熱。 私はその全てを受け止め、冷徹に戦略を説いた。
「北の動乱は『囮』ではない。アウレリアという巨大な象のバランスを崩すための重要な部隊だ」
私は、空中に拳を握ってみせた。
「騎士団という防壁を、北へ強制的に引き剥がす。そのためには、生半可なボヤ騒ぎでは意味がない。国が傾くほどの、本物の脅威でなければならんのだ。……巨像が北へ向かってよろめき、体勢を崩したその一瞬の隙。その時、我々が東の無防備な脇腹を食い破る」
北と東。距離にして数千キロ。 この広大な距離と時間を支配し、敵の戦力を盤面から排除することこそが、私の描く戦略の美学だ。
「ですが、閣下」
ザックスが、慎重に言葉を選びながら問いかけた。
「東からの一撃……すなわち、この地下に眠る『神』を完全に目覚めさせるには、まだ最後の『鍵』が足りませぬ。器は完成していても、魂を入れる準備が……」
「分かっている」
私は、背後の闇――巨大な魔力修復槽の中で眠る、未完成の泥の巨像を一瞥した。 ムルド王の遺産にして、我々の悲願の結晶。培養液の中で微動だにしないその巨体は、未だ「仮死状態」にある。
「鍵は、王都にある。……北の騒乱が最高潮に達し、騎士団の主力が王都を離れた時こそが、鍵を回収する唯一の好機」
私は、黒いローブを翻し、部下たちに向き直った。
「我々は、ムルド王の失敗を繰り返さない。感情や信仰だけでは戦争はできんよ。……全ては、計算された『理』の上に成り立つ」
その言葉を発した瞬間、部屋の隅にいた数名の術者が、不満げに身じろぎしたのが気配で分かった。 ムルド王を神と崇め、その再来を夢見る原理主義者たち。彼らにとって、私の「信仰を否定し、理を優先する」態度は、冒涜にも等しいのだろう。 だが、私は彼らを一瞥もしなかった。 古い信仰にしがみつき、思考を停止させた者など、私の計画においては、単なる魔力の供給源――「生きた電池」に過ぎない。彼らの不満など、大局の前には塵にも等しい。
「……ご命令を、ガロン様」
私の名は、ガロン。 かつて王立魔法研究院を追われ、禁忌の深淵を覗き込んだ魔導師。 そして今、腐敗したアウレリアの歴史を終わらせ、この世界の理を書き換えるための、指揮棒を振るう者だ。
お読みいただき、ありがとうございました。
ここまで姿を隠していた『深淵の盟約』の首魁が姿を見せました。声のイメージは小林清志さんで銀英伝(旧版)のルビンスキーです。例えが古めですみません(笑)。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




