第五十七話:師範の背中と、紫水晶の焦燥【前編】
木刀が、晩秋の冷涼な空気を切り裂く。
「――はあっ!」
腹の底から絞り出した気合と共に、私は踏み込んだ。速く。もっと速く。数々の大会で「アークライトの神速の剣」と呼ばれたこの剣なら、届くはず。
だが、当たらない。
目の前に立つ黒髪の青年――私の師であり、密かな想い人でもあるライル様は、切っ先が鼻先を掠める寸前で、まるで陽炎のように揺らぎ、そこから消えていた。
「……くっ!」
私は、踏み込んだ右足で地面を抉り、強引に体勢を立て直して追撃する。横薙ぎ、突き、斬り上げ。呼吸をする暇もないほどの連撃を叩き込む。けれど、ライル様はその全てを、木刀で受け止めることすらせず、最小限の体捌きだけでいなし続けている。
(なぜ……!?)
額から汗が流れ落ち、目に入る。
(以前よりも、私の剣は速くなっているはず。毎日、血の滲むような鍛錬をしてきた。なのに、以前よりもこの人の背中が遠い)
私の脳裏に、先日父様から聞いた言葉が、棘のように突き刺さっていた。
『ライル殿は、王太子殿下の師範として、週に三度、水晶の離宮へ通っておられる』
『殿下は、非常に筋が良いそうだ。ライル殿も、楽しそうに話しておられた』
――楽しそうに。
その言葉が、私の心臓を雑巾のように絞り上げる。あの無表情で、剣のこと以外には興味を示さないライル様が、私以外の誰かとの稽古を「楽しんでいる」。
相手は、次期国王。しかも、人前に出ることがほとんどないにも関わらず、その稀な姿を見た者たちが皆、口を揃えて言う。「男性であるにも関わらず、人間離れした美しさ」「月のように美しい」「この世のものとは思えない」と。
(私は、最初の弟子なのに……!)
山を下りてきた貴方に、最初に出会い、最初に剣を交えたのは私だ。その「一番近く」という特等席が、私の知らない場所で、私の知らない誰かに奪われようとしている。
(なぜ……なぜ、こんなに……)
私の中で、ドロドロとした感情が渦を巻く。
男同士の剣の語らい。それは、剣術道場の娘である私にとって、当たり前の光景のはずだった。父が、道場の男弟子たちと稽古をつける。兄弟子たちが、酒を酌み交わしながら剣を語る。そうした光景を、私は子供の頃から見てきた。何とも思わなかった。それが当然だと思っていた。
なのに――なぜ、今、この胸は、こんなにも苦しいのか。
(王太子殿下とライル様が、剣を語り合っている)
そう想像するだけで、喉の奥が焼けるように熱くなる。それは、嫉妬。間違いなく、嫉妬だ。
だが、何に対する嫉妬なのか。剣の師匠を取られることへの嫉妬なのか。それとも――
(違う……そうじゃない……)
私は、歯を食いしばる。
私は、ライル様を、師匠としてだけ見ているわけではない。剣の師としてだけではなく――異性として、意識してしまっている。あの黒い瞳。無駄のない身のこなし。剣を振るう時の、研ぎ澄まされた美しさ。稽古の後、汗に濡れた喉元。そうしたものに、私の視線は引き寄せられてしまう。
(私は……なんて浅ましい……!)
これまで、私は多くの者から美貌を褒められてきた。「アークライトの美姫」と。貴族からの求婚の申し出を何度も受けた。私は、自分が女性として魅力的であることを、自覚していた。
だが、そうした視線は私にとって意味がなかった。私は、女性である前に剣士だ。剣の道を歩む者として、色恋などに惑わされることはない――そう、誇りを持って生きてきた。
それなのに――今、私は、ライル様に対して、一人の女として見られたいと願っている。
(なぜ……なぜ、私が……!)
これまで拒絶してきたもの。剣士としての誇りを汚すと思ってきたもの。それを、いま、私は自ら求めている。この混乱が、私を苛む。
剣術家として、師匠を慕うのは当然だ。だが、師匠を異性として意識するなど――それは、道を踏み外すことだ。ライル様は、私を一人の剣士として見てくれている。それなのに、私は――
そして、何より苛立たしいのは、ライル様が、私のそうした想いに、まったく反応しないことだ。
私が、どれほど髪を整えても。どれほど稽古着を綺麗に着こなしても。どれほど、女性らしい仕草を――無意識に――してしまっても。ライル様の目に映るのは、ただ「弟子」としての私だけだ。
(なぜ……なぜ、私を見てくれないの……!)
だが、そう思った瞬間、自分への怒りが湧き上がる。
(私は、何を期待しているの……!?)
私は、剣士だ。アークライト家の娘として、誇り高く剣を振るってきた。師匠に、色恋を期待するなど――そんな甘えた考えは、剣に対する冒涜だ。
それなのに、私は――そんな期待を、してしまっている。
(分からない……自分が、分からない……!)
嫉妬、焦り、独占欲、羞恥、怒り、自己嫌悪――これまで味わったことのない、複雑で、ドロドロとした感情が、私の中で渦を巻いている。それらが絡み合い、私の心を締め付け、剣を鈍らせている。
そして、私はそんな自分に、戸惑っていた。
これまで、女性として見られることを拒絶してきた私が――今、女性として見られたいと願っている。この矛盾が、私を引き裂いている。
私は、捨て身の大上段で踏み込んだ。雑念に塗れた剣だと、頭では分かっていても、止められなかった。
「……雑ですね」
静かな声と共に、視界が反転した。
ライル様は、私が振り下ろした木刀の側面に、ご自身の木刀を軽く添えただけだった。たったそれだけで、私の全力の斬撃は軌道を逸らされ、私は自らの勢いで体勢を崩した。そこへ、あらかじめ置いてあったライル様の足に引っかかる。
「あっ……!」
受け身を取ることもできず、私は無様に地面に転がった。
冷たい土の感触と、見上げた空の高さが、今の私と彼との絶望的な距離を突きつけてくるようだった。
「……そこまでです」
ライル様は、息一つ乱さずに木刀を下ろした。彼は、倒れたままの私を見下ろし、いつもと変わらぬ穏やかな声で言った。
「セレスさん。今日のあなたは、私を見ていませんね」
「み、見ています! 私は全力で……!」
私は弾かれたように起き上がり、反論しようとした。だが、ライル様の底知れない黒い瞳に見据えられ、言葉が喉に詰まる。
「いいえ。あなたは、私を通して『別の誰か』を見ています。そして、私ではなく、あなたの中にある『焦り』と戦っている」
ライル様は、静かに首を横に振った。
「それでは、剣の声は聞こえません。……以前のあなたの方が、純粋に剣を楽しんでいましたよ」
その言葉は、優しさから出たものだったろう。だが、今の私にとっては、最も残酷な拒絶の言葉に聞こえた。
(……楽しんでなど、いられません)
私は、唇を噛み締めて俯いた。握りしめた木刀が、ミシミシと悲鳴を上げる。
貴方が遠くへ行ってしまう。王宮という手の届かない場所へ。「王太子」という輝かしい存在の元へ。私が決して踏み込めない、男同士の剣の世界へ。
そんな想像をするだけで、胸が張り裂けそうなのに、どうして純粋でいられるというのですか。
そして――私は、自分が何に苦しんでいるのかさえ、分からなくなっていた。
「……今日は、ここまでにしましょう。また明日」
ライル様はそう言い残すと、一礼して屋敷の方へと歩き去っていった。
私は、その背中を呼び止めることもできず、ただ一人、冷たい風が吹き荒れる修練場に取り残された。
お読みいただき、ありがとうございました。
迷えるセレスです。後編に続きます。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




