第五十六話:北の暗雲【後編】
兵士たちが一礼して退室し、扉が閉ざされると、部屋には重苦しい沈黙が降りた。
兄上――アイゼンハイド辺境伯ヴォルフラムは、腕を組んだまま、じっと暖炉の火を見つめていた。
「……ヴォルテル。お前はどう見る?」
兄上が、静かに私に問いかけた。
私は、手元の地図から顔を上げた。
「……異常です。蛮族の習性としてありえません。それを可能にした『何か』が存在すると考えるのだが妥当でしょう」
そう考える根拠のひとつに、先日王都から届いた情報があった。
「やはり、王都のギデオン殿から届いた密書にあった、例の『深淵の盟約』とやらに関係しているのではないでしょうか」
私の言葉に、兄上は深く、重いため息をついた。
「……『深淵の盟約を名乗る魔法使いたちが、魔力の高い平民の者を攫い、ゴーレムの復活を企んでいる』……か。荒唐無稽な内容だが、事実ならば、最悪の事態だ」
兄上は、苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「ヴォルテル。お前も知っているだろう。500年前、この北から突如現れ、蛮族どもとゴーレムを率い、世界を恐怖に陥れたという『ムルド王』の伝説を」
「……はい。魔法王国の暴君にして、数多のゴーレムを使役したとされる魔王」
「そうだ。古い伝承によれば、奴が蛮族を操った時に、不気味な光と轟音が伴ったという」
兄上は、私を見据えて言った。
「もし、王都からの情報にある『深淵の盟約』なる組織が、その伝説を模倣しようとしているのだとしたら……」
「……『ムルド王』の悪夢を、再びこの世に蘇らせようとしている、と?」
「可能性はある。ギデオン殿が無責任なホラ吹きであればよかったが、彼の者に限ってそれはないだろう」
私は慎重に言葉を選んだ。
「伝説ではムルド王の側近であった魔法使いたちは北へ逃れたとされています。もしそれが事実であり、『深淵の盟約』が奴らの子孫や後継者であり、いま再び行動を開始したのであれば、ここで起きている異常な事態は、その前触れ……、あるいはすでに何かが始まっているのかもしれません。ただ、そう断定するには確証がまだ足りません」
「ふむ……」
ヴォルフラム閣下は、顎を撫でながら深く考え込んだ。その表情には、若干の戸惑いとともに、伝説の再来を危惧する武人の鋭さと、領民を守らねばならぬ領主としての重圧が入り混じっている。
私は、一歩前に進み出た。
「兄上、私に部下を率いて偵察をさせてはくれませんか? 魔法騎士である私なら魔術の痕跡を辿り、奴らの拠点を特定できるかもしれません」
これは、私の本心だった。ただ城で待つのではなく、自らの手で脅威の正体を暴きたい。そして何より、兄上の役に立ちたいという思いがあった。
だが、兄上の返答は予想通りだった。
「ならん」
短く、鋭い拒絶。
「……なぜですか、兄上。私の魔法知識は、この局面でこそ役立つはずです」
「お前はまだ若い。戦を知らぬ若造が、得体の知れない敵の懐に飛び込んでどうする。……それに」
兄上は、私から視線を逸らし、窓の外の雪景色を見つめた。
「万が一、お前が捕らえられでもしたら、アイゼンハイド家の名折れだ。お前は城に残り、内政と警備の強化に努めろ。……偵察には、古参の隠密部隊を向かわせる」
「……」
私は、反論の言葉を飲み込んだ。 名折れ、か。 兄上の言葉は正論だ。私に実戦経験が足りないのは事実だ。しかしそれは兄上が私をそうした任務から遠ざけるからではないか。胸の奥で燻る不満が頭をもたげる。 私は、自分が信頼されていないような、あるいは「守られるべき存在」という枠に押し込められているような息苦しさを感じていた。
(兄上は、いつまで私を子供扱いするおつもりですか……)
そんな言葉を吐き出したくなるのを、私はぐっと堪えた。
「……承知いたしました。城の守りは、抜かりなく」
「うむ。敵が城内への侵入や破壊を仕掛けてくる可能性もある。糧蔵の警備を怠るな」
私は感情を押し殺し、深く一礼した。 だが、退室する私の背中には、兄上の視線が、どこか痛ましく張り付いているような気がした。
回廊の窓から見える北の空は、鉛色の雲に覆われ、今にも押し潰されそうだった。 迫りくる脅威、500年の時を超えて不気味に蠢動し始めている悪夢。そして、兄上の私に対する態度。 いくつもの重苦しい予感と現実が、私の胸に冷たく沈殿していた。
(第五十六話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
徐々に2部で新たに登場するキャラクターたちが揃ってきました。そろそろ主人公の登場です(ちらっとですが)。
※別の回で誤字のご指摘をいただきました。ありがとうございます。
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次回は明日の11時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




