第五十六話:北の暗雲【前篇】
【北の辺境:アイゼンハイド辺境伯領】
【黄落の月 第4週:静寂】
アウレリア王国の最北端。 雪と氷に閉ざされたグリフォン山脈の麓に広がる、アイゼンハイド辺境伯領。ここは、年中冷たい風が吹き荒れる、過酷な大地だ。 その最前線にある「白狼の砦」で、配属されて二年目の俺は、吹雪く視界の向こう、北氷原の方角をじっと凝視していた。
その視線の先には、無数のゴブリン、オーク、トロールといった蛮族たちがいるはずだった。
現在のアウレリア王家が建国されるまで、アストレア大陸は、人間と蛮族たちとの終わりのない抗争が続いていた。この大陸を初めて統一したのは人間ではなかった。約500年前、北方から現れた魔法帝国ムドル王は、それまでバラバラで互いに相争っていた蛮族を統一するとともに、自らの魔法で作った強力なゴーレムたちを率い、人間勢を圧倒し、アストレア大陸を統一した。しかし最後は彼が作り出したゴーレムの暴走により、主人であるムルド王自身とその帝国は滅ぼされた。それからおよそ100年近く、ゴーレムたちは自壊するまでこの大陸を彷徨い歩き、あらゆるものを破壊し尽くし、アストレア大陸は文字通り焦土と化した。
その後、辛うじて生き延びた人間たちと蛮族たちが、再び中原の支配権を争い、150年に及ぶ戦いの末、なんとか蛮族を北へと押し戻すと、伝説的な魔法使いアクレーヌがグリフォン山脈の麓に築いた「長城」により、蛮族の南下を封じ込めることができた。そこで始まったのは蛮族という共通の敵を失った人間同士の過酷な争いだった。泥沼の戦いは約100年続き、小勢力が離合集散を繰り返す中で誕生したのが現在のアウレリア王家の祖・ルキウス・アウレリアだった。彼は苦闘の末に中原を制し、世界が一定の安定を手に入れたのがいまから70年前だった。
それでもムルド王とゴーレムのことはすでに神話の昔となっていた。しかし、それでも中原のアウレシア、東のタイドリア、西のテラノアの少国郡、そして南の海洋国スーフラ連邦に至るまで、忌まわしい歴史として、神話や古老の語る物語、歌などにされ、国により多少の違いはあるが現在に至るまで語り継がれている。それ程までにゴーレムに圧倒的に蹂躙された記憶は、深くアストレア大陸に住む人間にとって深い敗北の刻印を刻んでいたのだ。
(爺さんがよく話してくれたな。「悪いことをするとゴーレムに食われる」ってさ)
俺は雪も収まり、眼前に広がる静かな雪原とその先に聳えるグリフォン山脈を見ながらそんなことを思い出していた。アウレリア王国が中原を制し、大魔法使い・アクレーヌが北方の蛮族の南下を防ぐ防御壁を築いて以来、年に数回まとまった攻撃はあったが、それほど苦戦することなく撃退していた。特に現在のアイゼンハイド辺境伯領が領して以来、その堅牢さは揺るぎがなく、俺にとっては蛮族はともかく、ゴーレムの話は現実感のない昔物語であった。それよりも身重の妻と、順調であれば春には生まれてくる初めての子供、そして同居する口やかましい年老いた母親との日々が俺の生活の全てだった。
俺が見慣れた望遠の魔道具越しに見える雪原に違和感を覚えたのは、狭い家のなかで、母と妻が角をつつき合わせている姿を思い浮かべ、その日何度目かの白く長い溜息をついた時だった。
「……おい、ハンス。交代の時間だぞ」
焚き火で暖を取っていたクルト先輩が、あくび混じりに声をかけてきた。
「ああ、すみません、先輩。……あの、何か変だと思いませんか?」
「変? 何がだ?」
「静かすぎませんか?」
俺は望遠の魔道具を覗き込みながら言った。
「いつもなら、この時期は食料を求めてオークやトロールが散発的に山を降りてくるはずですよね? でも、ここ数日、一匹も見ません。……まるで、山全体が息を潜めているような」
先輩はちらっと雪原に目をやると面白くなさそうに鼻を鳴らした。クルトはこの砦にもう10年も務めている古参の兵士で、俺にとっては面倒見のいい先輩であった。家庭人としても先輩であり、仕事以外でも相談に乗ってくれる一方で、仕事については慣れもあるのだろう、俺の目から見ても適当なところも少なくなかった。
「何度も痛い目にあって奴らも学んだんだろう。お前は気にしすぎなんだよ。何も起きないなら、それに越したことはないさ。もらえる給料に代わりはないんだぞ?」
先輩は笑って、俺の背中を軽く叩いたが、胸のざわつきは消えなかった。
【霜月の月 第1週:不可解な合流】
異変は、静寂だけではなかった。それから一週間後の巡回中、俺は山脈の麓の林の中で、雪の上に残された、深く大きなトロールの足跡を見つけた。
「先輩! 足跡です! トロールが一匹、北へ向かってます!」
「ちっ、面倒だな。……まあ、一匹なら放っておいてもいいが、一応追うか」
俺たちは警戒しながら、その足跡を追った。しばらく追跡すると、別の林道と交差する開けた場所に出た。 そこで、先輩は足を止めた。
「……なんだ、こりゃあ」
右手の林から、別の足跡の群れ――オークの蹄の跡が続いていたのだ。 本来なら、鉢合わせれば縄張りを争った跡が残るはずだ。 だが、そこにはその形跡が一切なかった。 二つの異なる種族の足跡は、まるで互いの存在を無視しているかのように、あるいはもっと別の何かに気を取られているかのように、ただ淡々と合流し、並んで山脈の奥へと続いていた。
「……なんで、争いもせずに、同じ方向へ……?」
「分からん。……だが、こいつは妙だ。普段の奴らの行動じゃない、なにが起きているんだ……?」
日頃は呑気な先輩の顔から笑みが消えていた。
「おい、ハンス。戻るぞ。これはただの徘徊じゃねえ。……何かがおかしい」
【霜月の月 第2週:予兆と確信】
さらに五日が過ぎた夜。砦の見張り台に立っていた俺たち二人は、違和感に顔を上げた。 風の音が、変わった気がしたのだ。そして俺は気がついた。
「……先輩。や、山に光が見えます」
闇に沈むグリフォン山脈の稜線が、ぼんやりと明るく見えた。 雲に覆われた頂のあたりで、どす黒い紫色の光が、心臓の鼓動のように、ゆっくりと明滅していた。 そして、その光に呼応するように、風に乗って微かな「音」が聞こえてきた。 それは、無数の魔物たちの唸り声や、武器を打ち鳴らすような金属音が混じり合った、不気味なざわめきだった。
「……間違いない」
覗き込んでいる魔道具を握る先輩の手に力を込もる。凍りつく寒さのにも関わらず、その額には脂汗が滲んでいた。
「奴ら、集まってやがる。違う種族が、一つの軍勢になって……! こんなの見たことがない……」
「た、隊長に知らせますか?」上ずった自分の声が、他人の声のように聞こえた。
「ああ。だが、それだけじゃない……」
そう言うと先輩は俺に向き直った。
「ハンス、お前の勘は正しかった。この異変はただの群れの移動じゃない。もっと大きなことの前兆かもしれない。……すぐに、アイゼンハイド城のヴォルフラム閣下に、直接報告を上げる必要がある」
ガン! ガン! ガン!
誰かが俺達と同じように異変に気がついたのだろう、警戒を知らせる鐘を打つ激しい音が、静寂を破る。 砦中が蜂の巣をつついたような騒ぎになる中、俺たちは、この世の終わりを見たような顔で、互いを見つめ合った。
***
不眠不休で馬を飛ばした俺たちは、泥と雪にまみれながら、アイゼンハイド城に辿り着いた。迎えた城の守備隊長は、「辺境伯がお待ちだ。直接お伝えしろ」と俺たちを城内へと導いた。普段の俺なら緊張に足がすくんでいたはずだが、ことの重大さがそれを忘れさせていた。
「……報告します! 北の山脈で、異変です!」
重厚な執務机の向こうで、この地の支配者であるヴォルフラム辺境伯が、俺たちの彼らの言葉に耳を傾けていた。 歴戦の武人であるヴォルフラム閣下の顔には、報告を聞くにつれて、険しい色が浮かんでいく。
「……トロールとオークの混成部隊、紫色の光、そして万の咆哮か」
ヴォルフラム閣下は、太い指で机を叩いた。
「長年、この北の地を守ってきたが、あやつらが組織立って動くなど聞いたことがない。……何者かが、裏で糸を引いているのは間違いないな」
部屋には、俺たちと守備隊長、閣下の他に、もう一人、若い青年が控えていた。 透き通るような銀髪に、理知的な蒼い瞳。その貴公子然とした容姿は、武骨な閣下とは似ても似つかない。 彼こそが、ヴォルテル様。閣下の弟君だ。 ヴォルテル様は、広げられた地図を見つめながら、静かに口を開いた。
「兄上。……恐れながら」
「なんだ、ヴォルテル」
「兵士たちの報告にある『紫色の光』……。古い文献によれば、それは強力な『支配』の魔術が発動する際に見られる現象と酷似しています。……もし、何者かが魔術によって蛮族の精神を支配し、統率しているのだとすれば」
ヴォルテル様は、俺たちの方をちらりと見て言葉を続けた。
「彼らが聞いた音にも説明がつきます。……自然の摂理をねじ曲げられた蛮族たちの、悲鳴なのかもしれません」
「魔術師か……」
ヴォルフラム閣下は、忌々しげに顔をしかめた。
「だとしたら厄介だな。我ら騎士の剣だけでは、対処しきれんかもしれん」
そう言うと閣下は立ち上がった。
「全軍に第二級警戒態勢を命じる。砦の監視を倍増させろ。ただし、こちらから手は出すな。奴らの出方を見極める」
間髪を入れず俺たちを連れてきた警備隊長が応じる。
「承知いたしました」
「それと、王都の陛下へも報告だ。『北に不穏な動きあり。原因不明なるも、極めて異常な事態なり』とな」
ただの一兵卒に過ぎない俺にも、閣下とヴォルテル様のやり取りを聞きながら、事態が自分の想像を遥かに超える深刻なものであることは分かった。あの不気味な光の下で、何かが起きている。それがなんだかは分からないが、冷たい風が運んでくる不穏な気配だけは、日増しに濃くなっていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
今回は一気に舞台を変えて北の辺境です。徐々に煮詰まってきています。二人組のイメージはアニメ「銀英(旧版)」の「わが征くは星の大海」と第1シーズンにだけ登場する名もなき下級兵士のコンビです。アニメにしか登場しないキャラでしたが妙に印象に残っています。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




