推し活、あるいは共感性
『オレが欲しかったのは……オレの、オレによる、オレのための、感動だったはずだっ……!!』
福本伸行先生(カイジの作者)の漫画『最強伝説黒沢』の冒頭、ワールドカップに沸く仲間達の中で、自分の中にあるその事実に気付いてしまった主人公黒沢の独白。
本作は幕田が定期的に読んで泣いてる作品の一つだが、冒頭のこのセリフで、完全に心を奪われた。
そう、俺が欲しいのは、俺の感動なんだよ。
* * *
喜多方に向かう車内の、友人なんとかくんとの会話の中で、二人の面白い違いに気付いたのでここに書いておこうと思う。
なんとかくんは、世間に対する共感性が高い。
他人や世の中の出来事に強く共感し、好きな競走馬が重賞レースを勝てば天まで浮き上がり(彼は無類の競馬好き)、好きなミュージシャンに不幸な出来事が起これば深海まで沈み込む。
きっと誰しがも、そういう経験はあると思う。
スポーツ観戦が好きな人達は、贔屓の球団や選手が活躍することを、自分の事のように喜んでいる。
幕田には、その感覚がよくわからない。
そりゃミーハーな感じで日本代表の応援をしたり、甲子園に進出した地元の高校を応援したりもするけど、それはその瞬間だけだ。テレビを消すのと同時に、その感動は一瞬で霧散する。
だって、その感動はあくまで『当事者である彼ら』の感動だと思うからだ。
そこで、冒頭の一文である――
俺が欲しいのは、俺の感動だ。
俺の関わる範囲の外で起きる出来事は、おめでたいし、嬉しい事だろうけど、俺には全く関係がない。
これってきっと、少し前に書いた『他人に興味がない?』にも通じる事なんだと思う。
俺にとって、俺に影響を与えない、俺が影響をあたえられない部分は、完全な『無』なのだ。無に何かを感じようとしても「あ、なんもないっすねー」って感想しかわかない。土台無理な話である。
となると、なんとかくん、あるいは俺の妻が感じている世界は、きっとそれよりも広大なんじゃなかろうか。
俺は薄情な人間なのだろうか?
そんな話をしていたら、なんとかくんに『推し』を作ってみたらどうか? と言われた。
きっと『共感性』分野における最先端が、昨今のいわゆる『推し文化』なのだろう。
推しの一挙手一投足に一喜一憂する……そこまではいいし、健全だ。
でも推しの浮き沈みに左右され、自分を傷つけてしまったり、推しに共感するがあまり自他の境界が曖昧になり、犯罪行為に手を染める人達も少なからず存在する。おっかない世界だなぁと思う。
俺にとって『推し』という言葉は、こういう知識の羅列でしかない。推しを作るという行動の意味を、うまく消化できていない感覚がある。
ひらたくいうと、俺とは無関係と思ってしまう。
相手のそれを否定する気は全くないが、申し訳ないけど俺にはわからないのだ。
俺は俺の世界の外にあるもののことなんて、どうでもいいと思っている。会話もできない人達や、俺が何しようとどうする事もできない世の中の動きなんて、全然興味を持てない。
しかし、ここで強く言っておきたいのは、俺が興味を持てないのはあくまでも『俺が影響を与えられない距離にいる事象』についてだ。テレビの中の芸能人やスポーツ選手とか、そういうのに対してだ。
お互いが存在を認め、会話できる相手に対しては、そこそこ親身になっちゃうタイプではある……と思う。
さらに実のところ、推しって概念に共感できないってのは、俺が成長するに従って形作られてきた価値観だ。まだ価値観が曖昧だった頃は、好きな競走馬や(幕田も昔は競馬好きだった)や、愛しの漫画キャラなんかもいっぱいいた気がする。
価値観ってのは、どんどん変わっていくのだろう。
ちなみに、その辺の違いは書く作品にも色濃く現れている。
なんとかくんの作品が『外的な要因や他人との出会いによって主人公が何かを得る』展開が多いのに対して、幕田は『自分の中で葛藤を重ねて主人公が何かを得る』場合が多い、気がする。
こういう根本的な考え方の違いが、作品にも大きく影響を与えてるってのは、なんとも感慨深い。
何を言いたいのかわからなくなったけど、つまりその、こういう事です。
俺って、薄情なやつじゃないよね……(/ _ ; )ぴえん




