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ルーヴィッヒのことを考えたら、やる気が一気に沸いてきた。
「そうと決まれば逃げよう!」
「え!?」
リッテの宣言に、大げさなくらいの反応をラナメリットが返す。
「この土、私の侍従が魔力練り込んでるから、追いかけてこられるの」
スカートのポケットから土を少し出すと、ラナメリットが感心するようにまじまじと見る。
そして窓の方を見た。
二階の部屋なら、どうにかすればいけるかもしれない。
(この事件、やたらご都合設定だから、どれかの媒体の事件だと思うのよね)
そうなると、そこまで深刻にはならないのではないかと、ちょっと淡い期待がある。
しかしすでにリッテの知らないことが次々と出てきているので、楽観視は出来ない。
「あの人あんまり頭まわらなそうだったし」
「確かに」
リッテの言葉にラナメリットも大きく頷いた。
酷い事には比較的ならない確率が高い。
(でもここ現実だから、やっぱり慎重にいくべきかな)
神妙な顔で決意を固めると、リッテは窓際を見た。
カーテンはある。
あれを使ったら、二階くらいの高さならいけないだろうか。
ラナメリットも同じ考えらしく、カーテンを見ていた。
お互い顔を見合わせあって頷くと、窓辺へと駆け寄った。
しかし、今かよと言わんばかりに部屋のドアが開く。
空気を読め。
ゲッと振り返ると、二十歳ほどの青年を連れた伯爵が入ってくる。
青年は少しガッチリとした体格で、伯爵とはあまり似ていない。
似てるのはやたら豪華な服だけだ。
いくら貴族だからって、普段着でそんな恰好しないだろというレベルでお金をかけているのがわかる。
「おまたせしたね聖女様。息子のドリーだ。じゃあ始めようか」
は?とリッテは一瞬頭が真っ白になった。
主語をくれ。
ラナメリットも意味がわからないという顔をしている。
まったくそのとおりだ。
「父上、俺はこっちの胸のある方がいいのですが。そちらの子は肉付きが悪い」
ドリーと名乗った男はねっとりとした視線をリッテに向けた。
特に同年代よりボリュームのある胸に。
ひえっと思わず腕で隠してしまう。
逆にラナメリットは華奢すぎてお気にめさないらしい。
リッテも気に入られたくなかった。
「ちょっと待って!?まさか、まさかだけど」
普通は婚約して結婚だ。
ラナメリットは成人までまだ遠い。
けれど伯爵は結婚と言っていた。
ここで婚約の口約束をしようが、ラナメリットの言質を取ったと言って婚約を結ぼうとしても、現実的に無理だ。
リッテの頭のなかにある予想に気づいたのか、伯爵は無害そうな笑みを浮かべた。
「婚約しても王家の横やりが入るかもしれないからね。体を奪ってしまえばどこにも嫁げないだろ?」
「いきなり不穏な展開!」
思わず叫んだ。
衝撃的すぎたので許してほしい。
ラナメリットは今にも倒れそうだ。
無理もない。
「こんな伯爵家が、なんで今まで何の問題も起こさずにいられたの!?」
知る限り、伯爵家レベルの醜聞などここ数年聞いたことがない。
それに伯爵はおやと片眉を上げた。
言っていることは最低なのに、無害そうな表情が逆に怖い。
「わかるかい。うちは偶然が重なって爵位が私にまわってきたんだ」
「偶然?」
「兄が急死してね。息子は芸術家になりたいと出奔だ。義姉は兄を亡くしたうえに息子の出奔で倒れて実家に帰ったんだよ」
「だからか!」
よりによって権力を持ってはいけない人間に爵位が転がり込んでいる。
最悪の展開だ。
「財産は沢山あったんだけどね。ほら、当主って色々と入用なんだ。聖女なんて金の卵を産む鶏は、絶対に逃がせないということさ」
伯爵の服はとても華美だ。
息子もあきらかにお金がかかっている。
短絡的で下種なところも腹立たしいけれど、真知子の知っている高位貴族を全うしようとしたリッテの努力を思い出すと、こんなの同じ貴族とも思いたくないと腸が煮えくり返った。
「はあ、その気にならないなあ」
ドリーが気だるげな足取りで近づいてきたのでラナメリットの前に庇うように出たけれど、すぐに腕を掴まれて床へと放り投げられた。
「きゃあ」
リッテが床から立ち上がると、ラナメリットが床に引き倒されそうになっていた。
「ちょ!だめ!やめなさい!」
絶対に守らなければとドリーとやらの服を掴んで力いっぱい引っ張るけれど、びくともしない。
(なにか、なにか)
ラナメリットを助けられるのは自分しかいない。
けれど打開策が見つからず、泣きそうな気分になった。
涙がこぼれる前に頭によぎったのは、琥珀の瞳だ。
飴玉みたいだと言ったらリッテの方が甘そうだとからかわれた。
「ま、まほう!」
ルーヴィッヒを思いだしたら、自然と結びつくのは魔法だ。
しかもリッテが得意なのは火。
武器になる。
魔力を意識して右手に炎が一瞬出る。
まだ火を放つとかそういうことは出来ないので、直接ぶち当てることしかできないけれど、服が燃えるくらいいいだろう。
なんなら顔をそのまま殴ってもいい。
多少、火傷をするかもしれないが、知ったことではない。
火を出して腕を振りかぶったとき、後ろへ体を引っ張られた。
驚いた瞬間、右手の炎は消えてしまった。
しまったと思った刹那、バンと熱い衝撃が右頬に走る。
殴られたのだとわかったけれど、くらくらと目がまわって立っていられずへたりこんだ。
「邪魔をするな」
殴ったのは伯爵だったらしい。
そんな細身なのによくこんな力出たなと思いながらも、唇の端や口の中が痛くて顔をしかめた。
「お前もどこの家か知らないが、男爵家と一緒ならどうせ下位貴族だろう。大人しくしてろ」
まだくらくらと回らない頭でも伯爵の言葉は理解できた。
下位貴族だと思ってこんな暴挙に出たのなら、リッテが侯爵家だと言えばおじけづくかもしれない。
眩暈が治まってきたおかげで思考がクリアになる。
血の味だらけの口をリッテが開こうとしたときだ。
「いやあああ!」
ラナメリットが床に引きずり倒されたのが見えた。
そして次の瞬間、ラナメリットを中心に太い植物の蔓が爆発的に現れた。
「ラナメリット!」
ガタガタ震えるラナメリットを守るように蔓はドリーを吹っ飛ばした。
壁に激突したドリーがそのまま床へと沈んでいく。
どう見てもラナメリットの魔法が暴走している。
「大丈夫よ、落ち着いて。これじゃ怪我人が出ちゃう」
リッテがなんとか宥めようとするけれどラナメリットに近づけず、蔓は止まらないままどんどん増えている。
すでに窓も突き破っていた。
「やめろ!屋敷を壊す気か」
伯爵が怒鳴りながらラナメリットに近づこうとするけれど、悪手だ。
さっきとは違う意味でどうしようと思っていると。
「見つけた!」
目の前に琥珀色の瞳が現われた。
「なんで……」
何もない空間から現れたのは、ルーヴィッヒだった。




