口渇王ユウヤ
「牛乳はよく噛んで……」の部分は諸説ありますが話中では(正確かどうかは別として)その中の一説を採りました。
―― それがいつから存在したのか、誰も知らなかった。
先生! ユウヤくんが牛乳を一気飲みしてます!
ミワコがぴっと手をあげて担任のノリヅキに言いつけている。
「ユウヤくん、牛乳は、よく噛んで『食べる』のよ」
ノリヅキはいつの時代の知識で生きているのだろう? 噛んで、ではなくて『燗』つまり少し温めた方が体にいいという意味なのに。
「それに背も伸びないよ、そんな飲み方だと」
ノリヅキはユウヤの体格のことも、ことあるごとに取り上げる。
無意識なのか、悪気のある口調ではないところに、ニンニク臭にも似た悪意がにじみ出ているようだ。
ユウヤはじろりと下目で担任を見て立ちあがり、牛乳ケースに近づいた。
欠席者と牛乳嫌いの連中がすでに残した分が三パック、片隅に寄せられていた。
ユウヤはパックを一つ鷲掴みにして封を開け、ストローも刺さず口に当てて、これ見よがしに喉に流し込んだ。
「あっ、オレも狙ってたのに!」
叫んだのは図体ばかりがデカいタクロウだった。
そちらも一睨みして、ユウヤは次のパックを取り上げた。
乾く、とにかく乾く。
どれだけ何を飲んでも、のどがひりつく。
休み時間。ユウヤは教室を飛び出した。廊下の薄暗いところに並ぶ水道。そのひとつに飛び付き、先を乱暴に上向きにして、蛇口をひねる前にすでに口をつけんばかりに頭を寄せた。
ひねり過ぎて最初に溺れそうになる。がぼっとひと固まり水を吐き出し、それからは息継ぎもせずに一気にのどの奥に流し込んでいった。
突然、がん、と頭を押され歯が蛇口の縁に当たった。目から火花が散る。
「ユウヤー、昨日の牛乳のお返しだ~」
涙ににじんだ目を向けると、逆光の中、タクロウのニヤついた目ばかりがやけにはっきりと見えた。
口の中にやんわりと血の味が拡がる。ぺっ、と唾を吐いて、次ににじみ出してきた血はひそかに、呑み込んだ。
乾く。まだまだ乾く。
水泳の授業。陽射しは暴力と言ってもよく、光り輝く太陽はもちろんのこと、それが照らす全てのものをまともに見ることさえあたわない。
それでもほとんどの小学四年生にはプールほど魅惑的なものはない。生ぬるかろうが、かすかに白く濁っていようが、カルキくさかろうが、だれもが黄色い歓声をあげて水と戯れている。
ユウヤはプールの片隅、縁につかまって目を閉じたままじっと乾きに耐えている。
体がだんだんと下にずれ、あごが、口元が水面に沈んでいく。
「カネコ先生! ユウヤくんがプールの水を飲んでます!」
すぐ脇で異変に気付いたケンジが体育担当教師に向かって大声を上げた。
やだぁ、きたなーい!! 女子から悲鳴に近い声が上がり、男子がはやし立てる。
「だし汁飲んでら! だし汁飲んでるコイツ!」
「こら!! やめろユウヤ」
周りの男子が数名、怒っているのか面白がっているのか、力を合わせてユウヤをプールから追い出しにかかった。最初は抵抗していたユウヤの白い体は、真っ黒に日焼けした何本もの腕に押し上げられ、最後にはプールサイドに転がり出た。
「オマエほんとうに水、好きだなー」
ユウヤは固く目をつぶり、焼けたタイルの上で少しでも熱さから逃れようと身を縮めている。
お調子者の一人が、近くにあったバケツにホースを使い水を入れると、えっちらおっちら運んできて、
「これでも浴びてろ!」
打ち上げられた魚のようなユウヤの上に、思いざま水をぶっかけた。
冷たい水に、ユウヤは大声で叫び、びくりと身を震わせる。
勢いで水泳パンツがずれ、白じろとした腰骨がむき出しになる。
水が頬を伝わり、口元に垂れるとユウヤは舌をのばした。
水、冷たい水。少しでもなめとりたい。喉が渇く
「やだぁ!! キモチわるーーい!!」
女子がまた叫んだ。
一学期の終業式は朝からの雨だった。
ユウヤは校門の前でさしていた傘をつぼめ、仰向いて空を見た。
いつの間にか、舌で雨粒を受け止めている。
「ユウヤ! 先に行くぞ!!」
登校班リーダーが怒鳴り、列はそのまま学校に吸い込まれて行った。
ずっと入ってこないユウヤを、ノリヅキが捜しに来た。
「式が始まるよ、どうしたの? 早く」
ユウヤの痩せた背中を押しながらせわしない口調でノリヅキはしゃべり続ける。
「雨に濡れたらダメよ、絶対風邪ひくから、特にユウヤくんみたいにちっちゃい子は」
絶対。
絶対、風邪ひくから。
絶対、水が足りていないから。
ぜったい。
教室前の廊下にはすでにクラスメイトが二列に並んでいた。
湿った熱気と履きふるした上靴の匂いがこもり、同じように不快な声が口々に不平を洩らす。
「先生、他のクラスはもう体育館に行っちゃったよ」
「遅ぉーい」
「だーれのせいだ」
「ゆ~う~や~~」
廊下の暗がり、すべての色が褪せていた。
ユウヤはゆっくりとまばたきして、目をこする。
いらついた二列の集団、一人ひとりが半透明の、たぷたぷとした塊と化していた。
通路の奥が、歪みながら透けてみえる。
目の前に連なるのは……水のたっぷりとつまった、袋?
「はやく、荷物置いてきて、列について」
ノリヅキが強く背中を押した。
とたん、
ユウヤは前に飛び出し、先頭のミワコの肩口にかぶりついた。
「ぶしゅわぁぁっ」
水でぱんぱんのビニル袋が弾ける音がミワコの口から飛び出した。ユウヤはそのまま口を離さず、一気に中身を飲み干す。
生温かく、甘い水を、一瞬のうちに。
丸い口を開けたまま固まっていた隣のエイジに続けて噛みつく。喉首だった。
「ガボぼぼぼぼぼぼ」
いつまでも水混じりの泡の音を発しながら、エイジの袋は大きくしなった。でも袋は袋だ、水ならば、ユウヤは負けずにしがみついていられる。なるべく空気を入れないよう口をすぼめて中の水を吸い上げる。
ぱっ、と息継ぎをしてエイジを投げ捨てるとすぐ後ろのタクロウへ。
すでに背中を向けていたその袋、二の腕、ちょうどむき出しになった外側にかぶりつく。
これは素敵だ。ビニルのようではなく、まるでよく熟れた西瓜のように、その皮から実までが吸い込む力に従って口の中に崩れ落ちて呑み込まれてゆく。
「 」
音にならない叫びが狭い廊下を圧する。いまだかつて人類の誰もが翻訳し得ていなかっただろう、その叫びは本能的な危険信号として、彼ら水袋たちに伝播した。
水袋が蜘蛛の子を散らすように四方に逃げ散った。
ユウヤは片っ端から襲いかかる。今や、速さでも強さでもユウヤにかなう者はいない。なぜならば、ヤツらは水袋だから。ユウヤの命を永らえさせるためだけの、貴重な水たちなのだから。
水袋のあるものはわずかな水しか絞れず、あるものは甘く、あるものは饐えていて、あるものは豊潤な満足をユウヤに与えた。
もっと、もっと水を。
今や、ユウヤは水を切望しこの世界に君臨する、たったひとりの王だった。
ノリヅキだった水袋が後ろで金切り声をあげる。
「やめ、やめなさい!! 誰か止めて!!! ユウヤくん、止めなさい! すぐ!
警察呼んで誰か!!」
誰か、の後はただ「ああ、あああ」とわめいているだけの水袋の思考が、開いた口からだらだらと漏れている。黒い泥にしか見えない思考がユウヤの足もとに拡がる。
「ミワコさん、お母さんと二人ぐらし、将来はバレリーナになるのが夢だった。エイジくん、勉強は苦手だけど車のことが大好きで、タクロウくんはおっちょこちょいで腕白だけどサッカーが上手、ミヨリさんはピアノが得意で今度コンクールに出る、タカシくんはとてもとてもとてもとてもとても」
とても、がエンドレスに流れた時、ユウヤは黒い泥だまりを大きくまたぎ、ノリヅキ袋の前に立ちはだかった。
「都合のいい時だけ、個人情報に頼るな」
ユウヤは王の権限をもって、その袋に告げた。
「オマエのようなひとりよがりの偽善者どもが、水を濁らせるのだ」
崩れ落ちるように床に伸びたその水袋を蹴り飛ばし、ユウヤは走り出す。
体育館に向かって。
体育館の中には、水袋がたんまりとあるに違いない。
きちんと並べられて。
まるで上質の産地から選び抜かれ、ボトル詰めされた貴重な品のように。
足どりはだんだんと軽く、速くなってゆく。
ああ、喉が渇く。ユウヤはのどをかきむしり、更に足を速める。
すべての水を飲み干したい。
今すぐに。
体育館の入口にたどり着いた。むっとした熱気の中、並ぶ水袋たちからざわめきが起こりつつあり、校長の脇にいた教頭がちょうど気づいたように
「四年二組、呼んできます」
後ろに歩き出したところだった。
入口に立つユウヤに、彼は気づいて大股で近づいて来た。
「おや、四年だったっけ? もしかして二組さんかな」
ユウヤは黙ったまま立っている。ふと頭をかすめる疑問。
すべての水を飲み干した後は、何を飲めばいい?
自らの腕を見おろす。
わずかに、色が薄れかかり、何かがたゆたった。
床が透けてみえる。
なんだ、僕も水袋だったんだ。
王というものは、同じ種族だからこそ、王たりうるのだろう。
だったら
すべてを飲み干した後は、自分を飲み干せばいい。
「君、名前は?」
教頭の目がいぶかしげに細められ、声に警戒の色がにじみ出た。
「その血はどうした? 君は誰だ?」
ユウヤは顔を上げ、はっきりと口にした。
「名は……ユウヤ。オマエらの王だ」
そして教頭を思いざま突き飛ばし、中に駆けこんで行った。
ただいっしんに水を求めて。
了




