第17話 旅立ち
冷たい風がささやくように流れ、足元に転がっている古びたボールが小さく揺れる。長い話を聞いていた未久の手元からは、衛次からもらったパンはもうすでになくなっていた。今まで口を挟まず静かに聞いていた未久は、そのまま月が映る瞳を衛次に向けた。
「その時の出産はもう大変だった。甥のてるの出産を手伝ったことはあったが、それも何十年も昔の話だ。その時の記憶なんてほとんど残ってやいやしない。それでも一生懸命、言葉の通り命を懸ける思いで、その場を乗り切った」
衛次は困ったような顔で小さく笑った。しかし、その瞳はとても愛おしいものを見つめるようなものだった。それはまるで、どんなにイタズラをされても許してしまう母親のような、温かい瞳だった。
それを見た瞬間、未久は胸の奥にある何かを鷲掴みされたような気がした。嫌ではないが、とても苦しくてその手を離したくない感覚であった。知らず知らずのうちに膝の上に置かれた手に力が入り、裾を握りしめていた。そんな彼女に衛次は続けた。
「産まれた子は元気な女の子だった。その時俺たちは隠れの身だったから、その子の産声には参ったよ。それでも、憧子さんはとても嬉しそうに笑いながら言った。『ありがとう、未久』」
その言葉に未久は目を見開いた。自分の母親が本当に存在した。当たり前だけど、本当にいたのだと、その時初めて実感したのだ。
衛次は当時を思い出しながら、伏目がちに言った。
「『産まれてきてくれて、ありがとう』と、何度も何度も言っていた。抱き寄せる彼女の手をお前は握って――」
「なん、で……」
今まで閉ざしていた未久の口から小さな息が漏れた。衛次はゆっくりと視線を上げ、未久を見た。彼女は必死に何かを堪えながらも、今にも細い糸が切れそうだった。それでも彼女は言葉を続けた。
「どうして、私が『産まれてきてよかった』ようなこと言ったんですか? 私がいたから命を狙われたのに、私がいたからお姉ちゃんとも別れることになったのに、なんで……どうしてそんなこと言ったんですか!」
いつの間にか叫んでいた声が岩に小さく反響した。それを遠くで聞きながら顔を伏せ、固く握る未久の手を衛次はそっと包み込んだ。
「そんなの、お前が彼女の子であるから、ただそれだけだ」
衛次の手の温もりに、何かを思い出したように未久は目を見開いた。顔を上げると、そこには優しく微笑む彼がいた。堪え切れなくなった未久の目から一筋の涙が零れ落ち、その雫を月夜が照らした。衛次はもう片方の手でその涙を拭いながら言った。
「お前は望まれながら産まれてきた子なんだ。だからそんな悲観的にならなくていい。お前に託された想いは『生きてほしい』ってことだ」
目から零れ出る涙は止まることなく、衛次の袖を濡らしていくばかりであった。そんな未久を見つめていると、鼻をすする音の向こうで小さな声が聞こえた。
「私、本当はずっと……ずっと怖かったんです」
その言葉に衛次は涙を拭う指を止めた。未久は小さく瞬きをしながら、弱々しく言った。
「怖かったんです。私がデウスだから、お母さんは私を捨てたんじゃないかって。私はみんなを不幸にしかしないから、本当はいない方がよかったんじゃないかって。衛次さんもいつか、私を捨てるんじゃないかって」
涙が衛次の指を伝って零れ落ちた。それは二人の間の地面に落ち、丸いシミを作った。衛次は止めた指で再びそっと涙を拭い、未久を抱き寄せた。
「今まで悪かった。お前をそんなにも不安にさせていたんだな。いつか話そうとは思っていたんだが、タイミングを躊躇っていたんだ。それでお前が覚醒してしまうんじゃないかって、俺は恐れていたんだ」
未久は彼の顔が見えなかったが、彼が申し訳なさそうにうなだれているのを背中で感じた。未久の涙はいつの間にか止まっていた。衛次が心配性なのはやはり彼らしい、と微笑むと、衛次は未久から体を離し、真っ直ぐと見て笑った。
「でも、もう大丈夫だな。お前の迎えが来たみたいだ」
「え?」
その疑問と共に、大きな黒い影が頭上に降ってきた。その影を辿ると、岩の上にハーストイーグルのルクスとカエルムがいた。カエルムは軽い身のこなしで岩から降り、未久のもとにやって来た。そして未久に手を差し出し、金色の瞳を細めながら言った。
「さあ、行きましょう。私を自由にしてくれるんでしょう?」
未久が突然のことに戸惑っていると、カエルムは腰に手を当てて眉をしかめた。
「忘れただなんて言わせないわよ。散々私の世界をかき乱しておいて。あなた、『一緒に旅してくれ』って言ってたじゃない」
その言葉に、未久は今まで泣いていたことも忘れて飛びついた。
「本当に一緒に来てくれるんですか!」
「ええ。だからさっさとついてきなさい」
未久は全身で喜び、カエルムは口元を押さえて笑った。カエルムが再び岩を登り始めると、未久もそれに倣って岩に手をかけた。しかし衛次が微動だにしないことに気づき、未久は振り返った。
「何してるんですか? 置いてっちゃいますよ?」
すると衛次は頷き、微笑んだ。
「ああ、お前はそのまま彼女と行くんだ」
突然のことに未久は息を呑んだ。訳がわからず岩から手を離し、衛次に近寄ろうとした。
「どうし――」
「来るな!」
衛次の声が響き、未久の足を止めた。たたずむ未久に厳しい視線が向けられた。
「振り返るな。前へ進め。俺の役目はここまでだ」
冷たい衛次の態度に未久は足がすくみ、言葉を発することさえできなかった。顔を歪ませる彼女に、衛次は目を細めて続けた。
「俺は憧子さんに頼まれたんだ。お前が完全にデウスになるまで、お前が自分自身を守れるようになるまで守ってやってほしい。もしそうなったら、お前だけの道へと行けるように導いてほしい、と」
その時、未久は突然思い出した。それは前に衛次から教えてもらったことだ。
(そうだ。小望月は幾望――望月に幾い月だ)
ある地域について聞いている時に教えてもらったことだが、未久はこの言葉がやけに気になっていた。意味まで教えてもらったが、「キボウ」という音がどうしても「希望」を頭にチラつかせてしまう。そうしていつの間にか未久の中では、幾望は希望の日となっていた。
この話も何年か前の話なので、未久の頭からは抜けていた。これを思い出し、未久は月を仰ぎ見た。月は黄色く眩しく光り、周りの小さな光を隠している。それはいつもより微かに大きく、迫ってくるようであった。
未久が「希望の日……」と呟くと、衛次は小首を傾げた。しかし彼女はそれに構わず言った。
「私、行ってきます。衛次さんの、お母さんの希望を叶えるために」
晴れ晴れとした未久の顔に衛次は目を細めた。未久は衛次に背を向け、岩を登ると、そこにはルクスの背に乗ったカエルムの姿があった。カエルムはルクスの羽毛から顔を覗かせながら訊ねた。
「もういいの?」
「うん……」
その時、下から未久を呼ぶ声が聞こえた。慌てて下を覗き込むと、衛次はもう一度未久の名前を呼んだ。
「『未久』、『久い未来であるように』――それがお前の名前の由来だ。だから、生きろ。誰よりも長く、明るい未来を作れ」
すると、砂漠の村でもらったアンクのお守りが手元で光ったような気がした。未久は元気よく返事をして、再びカエルムたちのもとへ駆け寄った。
「行きましょう」
その言葉と共にルクスの大きな翼が広げられた。大きな風がみるみるうちに地上のものを小さくさせていった。衛次が見えなくなるまで手を振り続けていると、その横でカエルムが小さく呟いた。
「いい名前だね」
その言葉に未久は照れながら、小さく頷いた。
未久たちの姿が見えなくなって、衛次は岩の下でたたずんでいた。するとハヤブサが肩に飛び移ってきて、衛次は彼に苦笑した。
「結局、大切なところは言えなかったよ。今のあの子には帰れる場所がいくつも必要な気がするからな」
その言葉にハヤブサは忙しそうに羽繕いを始めた。
時を遡ること十年前――憧子が未久を出産した後のことだった。出産直後でふらふらだった憧子は、それでも「行かなくちゃ」と、うわ言のように言いながら立ち上がった。それを衛次たちが制止するが、言うことをきかない。
「私がここに居続けたら、この子も見つかっちゃうでしょう! この子の産声で奴らは必ずここに向かってきてる。だから衛次さんも未久と一緒に逃げて!」
それでも俺が動けずにいると、大雅が立ち上がって言った。
「わかった。衛次、君はその子と逃げろ。俺は……彼女を守るために行く」
衛次が眉をしかめると、大雅はいたずら顔で言った。
「俺はもう十分逃げた。だから逃げることにも飽きたんだよ。まだ闘えるかわからねぇけど、行くよ」
笑う大雅に衛次は手を差し伸べて言った。
「死ぬなよ」
「君こそ」
彼らは二手に分かれて逃げた。衛次は胸に温もりを抱きながら、森を駆け抜けた。森はどこまでも長く続き、それが余計に胸の焦りを膨らませていった。その時、弾けるように遠くで銃声が聞こえた。反射的にそれに足を止め、振り向いた。すると、また銃声が二つ聞こえた。そんなこと考えたくもなかった。しかしきっとそうなのだろう。
「馬鹿野郎……!」
喉から出かかっている感情を噛み殺し、衛次は地面を蹴った。こうして二人の旅は始まったのだった。
衛次は昔を思い返し、左腕を見た。昔に比べると太くなり、また擦り傷がたくさんあった。それを一人でクスリと笑い、ハヤブサに振り返った。
「さあ、俺の旅は終わりだ。久しぶりに故郷へ帰ろう、エタ」
衛次は岩を背にし、歩き出した。まだ夜は明けていない。しかし、明るい月の光がどこまでも道を照らしていた。
衛次編はこれにて終わりとなります。
次話「飛礫」は2018/8/25(土)に更新します。




