父の決意(高校生編)
祖父母の表示は、花井家の両親のことです。
桂木父と表現するのは、花井家と間違わないようにしています。
応接間では、母はただ泣くだけ。
しばらく、誰も何も言わなかった。
母の姉夫婦には迷惑なことだろう。
テーブルの上に桂木父は、紙を1枚置いた。
彼の住所、名前、印が押されている。
所謂離婚届という婚姻を破棄させる代物だ。
1枚の紙で、法律上他人に変わる。
母は、その紙を見て泣き叫んだ。
「私は書かない。印も押さない」
桂木父も怯まない。
「それでも、書いてもらわないと困る。俺も限界だ。君に対し、愛情はない。婚姻を続ける意味がない。
それとも弁護士を立てて、争った方がいいのか?」
弁護士と聞いて、祖父は青い顔をさせた。
「樹生君。私達と争うと」
「義父さん、この機会を持って決別させてください。16年我慢しました。
これ以上婚姻を続ける意味を感じません。
義父さんには、この下の証人にサインをお願いします」
桂木父が頭を下げると、祖父は肩を落とした。
義理の息子の固い決意。
自分の娘がしでかした事の大きさを十分に理解した。
(いつも私達にも気にかけ、本当に良い義理の息子だった。それをバカ娘は。
逃した魚は大きすぎる)
「嫌。お父さん、辞めて。私は離婚なんてしたくない」
愛結は抗ったが、祖父は樹生の決意に頷き、隣りで自分の妻からボールペンを受け取ると
名前を書いた。さらに祖父は自分の印を押す。父は抗うのは得策でないと判断したのだ。
その行動に、愛結はさらに泣き叫んだ。
その紙は、隣の祖母に手渡され、祖母も住所、名前と祖母の印を押した。
祖母は、母の味方をしたかったのだが、この1週間夫ともうひとりの娘とその夫とも話し合い
この決断に至った。決して、娘を無下にしたわけでなく、もう婚姻は無理だと感じたのだ。
自分の両親が、離婚を了承したことを目の前で知り、愛結は半狂乱。
「愛結。後はお前の名前を書くだけだ」
ご丁寧にも祖母は、母の印も押し、母が自分の筆跡で名前を書くのみになった用紙を
母の前に置いた。
母は破り捨てようとしたが、祖父がそれを阻止し。
「もうお前と樹生君は終わったんだ。これ以上ごねても、お前は元には戻れない。それは身に染みているはずだ。この1週間、話し合いをしただろう?このまま家に戻っても、お前に信用されない。
自分のしたことだ。潔く出来ないのか?みっともない」
祖父は、母を侮蔑するかのように言葉を吐いた。
「愛結、ここで養生しましょう」
その場の全員の視線に圧倒され、彼女はボールペンを渡されて、泣きながら名前を書いた。
名前を書き終えると、床に敷かれた絨毯に蹲って大泣きしたが、誰も近寄ることはなかった。
「私、お母さんに言いたいことがある」
くるみは、蒼真の腕に縋りながらはっきりと告げた。
「私・・。お父さんの子供だったら嬉しかった。どうして、どうして浮気して・・、お父さんの友人を私の・・うっ・・うっ・・・うわああ・・」
蒼真の腕にしがみついたまま泣き出し、蒼真はそのまま胸を貸して抱きしめてやる。
愛結もくるみの言葉に耳を傾けながら、涙を零している。
そこへ桂木父は、離婚後の話を始めた。
「川西と電話で話をしました。俺は、くるみをそのまま娘として戸籍に残し、
このまま蒼真と3人で生活していきます。愛結さんからは、慰謝料も養育費も必要はありません」
「親権も養育権も君に?」
「はい」
「孫に、蒼真やくるみには、会えないのか?」
祖父母の話に、2人は顔をあげた。
「俺は、この家に来るのはいいけど。母さんには会いたくない。どうしても気持ちが追いつかない」
「私も。お母さんに会いたくない」
祖父母へ孫の2人が自分の意見をぶつけると、泣いていた愛結は怒り出した。
「何を言ってるの?あなた達は、私の子供よ。どうして」
母が、自分の子供達を見つめる。
「どうしてって。俺、不倫とか浮気するような人を自分の母親って思うの、気分悪い。
浮気のことを知らなかった頃の母さんが理想だった。知ってからは、幻滅だよ。
幸せな環境を壊したのは、母さんじゃないか」
蒼真は、くるみを抱きしめたまま、苦しげに吐いた。
この感情は、香の気持ちでもあった。
香も愛結の姿を立派で、とても理想の母親で、先輩を支えてくれる唯一だと思っていた。
それが、16年も前から裏切っていた事実に、ただただ悔しいのだ。
「私も。ドラマかと思った。私の家で、本当にこんなドラマのようなことが起きるなんて。
亡くなった人を想うくらいダメなの?生きていて、取り返されるってことはないじゃない。
どうして、忘れさせるくらいお母さんは頑張らなかったの?
お父さんの条件を受け入れられないなら、どうして結婚したの?
一緒に、懐かしんであげられるくらい、懐を深くすることは、そんなに難しいことだったの?」
くるみが言いたいことを終えて、また蒼真の腕に縋りついている。
そんな彼女を見つめつつ、蒼真自身、1週間前の七海の言葉と川西の言葉を思い出していた。
(確か。一昨年までは、年1回会っていて、昨年から月1回に会う回数が増えたと言っていた。
だから、七海さんも昨年、自分の夫の行動に気付いた。昨年、母さんが月1回を頼むくらいの
何か原因になるようなこと・・・)
昨年から、情緒不安定の日数が増えたということだから。その当時は・・。
昨年、皆で結婚記念日にレストラン行ったくらい?
レストラン?
あれ?そのレストランは、確か香の昔の勤務先。
そのレストランにしたのは、父。
父は、あの時確か。数か月前に、たまたま電車の待合所で、そのレストランのシェフに会って
そのシェフが引退して弟子が継ぐから、年内で退職するからその前に1度どうかと打診を受けたと。
話があったのは、香が働いていた頃、月1回ディナーにくるイケメンで
香の高校時代の先輩ということで、紹介されていた。
顔を覚えていたんだ。
当時のシェフは、先輩を覚えていた。引退なら、家族で最期に食事をしようと考え
丁度結婚記念日で、予約したんだ。
(母さんは、知っていたんだ。皐月 香の職場だって。16年経っても、まだ父さんが忘れていないことで切れたのかもしれない。大体、亡くなった女性を思い続ける男と結婚する条件は、酷だ。
最初から、母さんには無理だったんだ。
若かったから、どうしても父さんを手に入れたかったと見た方がいいのかな)
はあ・・と、蒼真がため息を吐くと、くるみは不安そうに兄を見ていた。
「俺もくるみと同じだから」
蒼真の言葉に、くるみはうんと頷いて、ホッとしているようだ。
とりあえず、大泣きして手がつけられなくなった母を、祖父母が抑えている間に
祖父母から帰るよう言われ、逃げるように外へ出た。
玄関先まで見送ってくれた母の姉夫婦は、桂木父や蒼真とくるみを労ってくれて
「今日は、有難う。樹生君には、嫌な思いを16年もごめんなさい。
最初から、貴方と結婚したいだけの子だったから、条件を聞いて無理じゃないかと
思ってた。結局、その通りで。ごめんなさい。
愛結は、反省が必要だと考えてる。いつか許せることが出来たら、蒼真君もくるみちゃんも
会ってあげて欲しい。身内びいきでごめんね」
と、言われた。
桂木父は、言われたことには何も言い返さず、頭を下げた。
「今まで、有難うございました。お元気で」
どんな思いで告げたのだろうか。
頭を下げる父に、母の姉夫婦も頭を下げた。




