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 法廷は大混乱の騒ぎになっていた。エイレーネが破水し、意識を失ってしまったからだ。もしもお腹の子が男児だった場合、取り返しのつかない事になる。おろおろするだけの無能な裁判長を差し置き、傍聴人が柵を乗り越えてエイレーネに駆け寄り、慎重に体を揺すった。しかし一向に目覚める気配が無い。流石にまずいと誰かが呟いた直後、国王の親衛隊が法廷内に踏み込んで来た。フェルナンの命令で、この馬鹿げた裁判を止めにきたのである。


「直ちにエイレーネ妃殿下をお連れせよ!」


 親衛隊長が部下に指示を飛ばした。ぐったりして動かないエイレーネを、数人がかりで運び出そうとする。それに怒りを露わにしたのはニムラだ。


「裁きはまだ終わっておらぬのだ!!被疑者を法廷から出すなど、このあたくしが断じて許さぬ!!」

「国王陛下より、判決が下るまでリファト殿下の身柄を拘束する許可は出ておりますが、エイレーネ妃殿下につきましては、その限りではございません。すぐさま適切な処置を受けられるようにと仰せでした。これは王命でございます」


 依然としてニムラが声を張り上げていたが、親衛隊は耳を貸さなかった。


 法廷の外にはユカル達が気を揉みながら待っていた。リファト達が連行されてすぐ、ユカルは侍女の二人と一緒に追い掛けて来ていたのだ。ようやっと出てきたエイレーネに三人は駆け寄り、そして悲鳴混じりの声で主人の名を叫んだ。だが、蒼白になった額に玉のような汗を浮かべたエイレーネは、目を閉ざしたままだった。

 三人は古城に向かって馬車を急がせた。しかし、間が悪いことに雪が積もり始め、速度が出せない。ただでさえ片道六時間もかかるのに、こんな事ではいつ辿り着けるか。焦りばかりがどんどん募っていく。


「どうしよう…もう破水してるわ」

「と、とにかくエイレーネ様の目を覚まさないと!」

「目を開けてください!エイレーネ様!」

「妃殿下!お気を確かに!」

「エイレーネ様!エイレーネ様っ!起きてください!!」


 三人の必死の呼びかけが聞こえたのか、やがてエイレーネが薄っすら目を開ける。


「!!妃殿下っ!気が付かれましたか!?」

「私達が分かりますか!?」

「頑張ってください!もう少しの辛抱ですから!」


 エイレーネは微かに頷いた。陣痛は強くなる一方なのだろう。歯を食いしばって耐えている。苦悶の表情をじっと見ていたアリアは、ある事を閃いた。


「…お城に戻る時間が惜しいわ。行き先を孤児院に変更しましょう」

「えぇ!?あっ、でも孤児院なら二時間くらいで着くよね。ギヨーム先生も近くにいるし、良いかもしれない!」


 ジェーンは賛同するも、ユカルが待ったをかけた。お産の準備は古城に整えてあるのだ。孤児院では寝台くらいは借りられても、人手や備えが無いだろう。


「必要なものは分かってる。到着したらすぐに私とジェーンで準備するわ。それに孤児院の先生の中には、お産に立ち会った人もいるの」

「そういえば院長先生も、赤ちゃんを取り上げたことがあるって言ってた!」


 毎年ではないが、大きなお腹を抱え、孤児院の門を叩く女性が少なからずいる。そういう女性は出産後に力尽き、亡くなる場合もあるが、何にせよ孤児院の先生達は出産に立ち会えるだけの知識と経験があるという事だ。


「…わかった。親衛隊に伝えてくる。ついでにギヨーム殿も呼んできてもらうよう頼んでおく」

「ええ。お願い」


 アリアはエイレーネにも声をかけたものの、返ってくる反応は弱々しい。既にこれほど弱っていては体力が持たないかもしれない。そんな恐怖がアリアの頭を過る。


「あたしはっ!エイレーネ様の赤ちゃんを抱っこして、お世話もしたんだよって、いつかみんなに自慢してまわるんです!!お辛いところ申し訳ありませんけど、エイレーネ様には頑張っていただかないとっ!絶対に負けないでください!!」


 しゃくり上げながらそう叫んだのは、ジェーンであった。大粒の涙を流す侍女を薄目で眺めていたエイレーネは、ごく小さな笑みをこぼすのだった。


 雪の中を早馬が駆けた為、孤児院では粗方の準備が整えられていた。自分の足で立てなくなったエイレーネはユカルが抱えて運んだ。ギヨームも到着していたが、彼は部屋に入れない。お産の手伝いは女人にしか許されていないからである。しかし妃の容態が急変した場合は特例が認められ、救命処置にあたる事が可能なので彼は呼ばれたのだ。当たり前だがユカルの入室も禁じられる。エイレーネを寝台に横たわらせたら、もう彼にできる事は無い。ここからは女の闘いだ。ユカルは同僚に後を任せて退室した。


「…ギヨーム殿の見立てはいかがですか」


 ここに居ないリファトに代わって、ユカルとギヨームは全てを見届けなければいけない。廊下で待機しながら、ユカルは声を抑えて尋ねた。


「詳しく診た訳ではありませんから、断定はできませんが、陣痛が弱いように思いました」

「弱い…あれで、ですか?」


 馬車の中でエイレーネの苦しみ様を見ていたユカルは、俄には信じられないようだった。


「あれでもです。母体の疲労度合いによっては、ちゃんとした陣痛が来ない事があります」

「…すると、どうなるのです?」

「いつまで経っても赤子が出てこれず…どちらかが限界を迎えてしまいます」


 ギヨームは僅かに言い淀んだ。それが意味する事をユカルも察して、二の句が告げられなくなった。この場にリファトがいたら、どうなっていたのだろう。ふと、そんな考えが浮かんだ。取り乱し、扉を蹴破ってでもエイレーネの傍にいようとするのか。はたまた、ユカル達の前では王族然とした姿勢を保つのか。

 もう何でも良いからここに居てほしいと、ユカルは誰ともなく願った。たとえ扉に隔てられていようともリファトが近くにいてくれたなら、エイレーネだって安心するだろうから。

 けれども、現実はそう優しくなかった。




 リファトは冷たい石牢で、エイレーネが産気付いた報せを聞いていた。裁定は未だ下っていない。ニムラがいたずらに引き伸ばしているせいだ。虫唾が走るくらい下らぬ裁きしかできないのなら、こんな場所などいっそ燃やしてしまえと本気で思った。

 どれだけリファトがエイレーネを大切にしても、子を守ろうと手を講じても、敵はあらゆる努力を上から踏み付けにする。この身はどうなっても構わないからエイレーネだけはと祈れども祈れども、ちっとも聞き届けられない。


「レーネ…どうか……どうか…っ」


 貴女がお腹の子を守ると言うのならば、私は貴女の無事を切に願う。


「貴女を喪うことだけは…っ!」




 破水してから既に半日以上が経過した。

 部屋の外にいるユカルには、生まれる兆しが有るのか否かも判らない。エイレーネの激痛に喘ぐ悲鳴が耳を打つだけだった。それもだんだん弱まっている気がする。

 知らないうちに夜が去り、朝が訪れていた。

 大丈夫なのだろうか、という問いは最早していない。大丈夫であるよう必死に祈り続けている。一睡もしていないのはみな同じだが、陣痛と闘うエイレーネと、彼女の傍で支える者達の疲労は計り知れない。


「…ユカル!ギヨーム!」

「っ!リファト殿下っ!!」

「お戻りでしたか!」


 数人分の慌ただしい足音が聞こえ、何事かと頭を持ち上げれば、リファトが廊下の向こうから声を張り上げていた。経緯は不明だが、彼の拘留が解かれたようだ。事態が好転した訳でもあるまいにユカルは一瞬、安堵の気持ちを覚えた。


「エイレーネはっ!?状況を説明しろ!」


 開口一番、リファトは愛する人の容態を尋ねた。彼らしからぬ乱暴な言葉尻は、そこまで心が掻き乱されている証拠だった。


「…っ、まだ、お生まれになりません。ずっと、苦しげなお声が聞こえてくるだけで…」


 勢い余って侍従の両肩を掴んだリファトだったが、その手に力がこもる。ユカルが話した通り、耳を澄ますまでもなくエイレーネの声が聞こえてきた。一際大きくて、痛ましい絶叫だった。


「そろそろかもしれませんぞ!」


 ギヨームがハッとしたように言う。心臓が壊れたように脈打つ。男達は固唾を飲んで、その瞬間を待った。


 やがて、待ち侘びた福音が訪れる。


 エイレーネの叫びと侍女達の掛け声に、重なるようにして聞こえた、微かな咳き込む音。続いて、控えめな産声が上がる。

 とうとう生まれたのだ。リファトとエイレーネの血を分けた子が。新たな家族が───感極まるリファトは興奮するままに声を出すのだった。


「ギヨーム!すぐに二人を診てくれ!」

「いやしかしまだ、」

「いい!私が許す!」


 本来ならまだ入室してはいけないのだが、リファトはギヨームを急かしながら部屋に飛び込んだ。途端に血の匂いが鼻に付く。しかしそんな事には頓着せず、リファトは一目散にエイレーネの元へ駆け寄り、跪いて彼女と目線を合わせた。


「レーネ!レーネ…ッ」

「………で、んか…」


 極度の疲労から失神寸前だったエイレーネだが、耳に馴染んだ声音に反応する。ゆっくり瞼を持ち上げると、泣き濡れたリファトの顔がまず飛び込んできた。彼の涙は幾度か目にした事があるが、子供のようにぼろぼろ泣く姿は見たことがなかった。


「っ、すみません。貴女をひとりで苦しませて……私は貴女の手を握ることすらできず…っ、本当に、情けない人間です私は…っ」


 そんな風に自分を責めないでほしい。リファトが人質として牢に残ってくれなければ、エイレーネは此処へ来ることができなかった。こちらこそ長い時間、冷たい石畳の牢にリファトを置いてきぼりにして申し訳ない。謝罪は要らないから、よくやったと笑いかけてほしい。

 そう伝えられたら良かったのだけど、エイレーネにはそれだけの力も残っていなかった。だから一言だけ。


「…ご無事で、良かった……」


 またリファトの顔を見ることが叶って嬉しい。エイレーネの胸に広がる気持ちを、声を掠れさせながら言葉少なに伝えた。

 そうしたら彼は笑うどころかくしゃりと顔を歪め、涙の勢いが増したのだった。


「…こんな時まで、私の心配なんかしなくていいっ!」


 エイレーネは雨に打たれたように汗をかき、目の下に濃い隈をこさえ、強く握り過ぎた掌には血が滲んでいた。命懸けの壮絶な闘いを終えたばかりだというのに、彼女が告げる事ときたら!


「……私の事はいいんです。裁判も証拠不十分で訴えは退けられました。何も心配せずに、今はただ休んでください」


 リファトが懇願しても、エイレーネは頷こうとしない。何か言おうとしているのだが、唇が僅かに動くだけで音になっていなかった。しかしリファトは、彼女が眠る前に我が子をひと目見たがっていると気付いた。


「…ギヨーム」

「はい。標準よりやや小さいですが、健康上の問題はありませんよ」


 ギヨームは産湯に浸かる赤子を見ながら泣いていた。見渡せばリファトの涙が伝播したように皆、嗚咽を漏らしている。アリアとジェーンなど、抱き合っておいおい泣いている。


「…さあどうぞ、お抱きくださいまし」


 控えめに泣く赤子が、院長先生からリファトの手へ渡る。産衣は古城にある為、赤子は肌触りの良い敷布に包まれていた。

 小さな小さな命だった。そのいっとう愛しい温もりを、リファトはエイレーネの胸の中へ届ける。腕も上がらない彼女を、リファトが支えた。


「おめでとうございます。可愛らしい若君でいらっしゃいますよ」


 小さな小さな体から、溢れるような生命力を感じる。我が子をこの腕に抱いた時の気持ちを、エイレーネは生涯忘れない。愛おしくて堪らなかった。リファトに向ける愛とはまた違う情を、母性愛というものを知った朝だった。

 我が子を祝福するように注ぐ朝陽が目に染みる。散々泣き腫らしたのに、再び涙が込み上げてきた。


「……はじめまして。わたし達のところに来てくれて、ありがとう…ライファン」


 お腹の子が男の子だったらライファンと名付けよう。そう、リファトと話し合って決めていた名前を、エイレーネは大切に呼ぶのであった。




 それからエイレーネは気を失うように眠った。孤児院の子供達が起き出し、騒がしくなってきてもピクリともしなかった。あまりの熟睡ぶりにリファトは狼狽えていたが、彼女は健やかな寝息を立てている。あとはギヨームが診るので、リファトも休んだらどうかと勧められたものの、彼はエイレーネの傍から動こうとしなかった。彼女と一緒に、生まれたばかりのライファンも眠っているので、離れ難いのかもしれない。ギヨームはやれやれと肩を竦めるだけに留め、今くらいは小言を言うのをやめておくのであった。


「リファト殿下。ギヨーム先生。入っても宜しいでしょうか」


 その声の主は院長先生だった。リファトは彼女を招き入れ、感謝と労いの言葉をかける。


「畏れ多いお言葉にございます。何よりもおめでたい日に立ち会えた事、身に余る光栄と思っております。それから…フェルナン陛下の使いと申される方がお見えですが、いかが致しましょう」

「兄上の……わかった。私が対応する。どこか部屋を借りても良いだろうか」

「勿論でございます」


 王宮からの使いはフェルナンの側近であった。その男は国王から、生まれた子が真に男児であったか確認してくるよう命じられて来たと言った。そして情報が確かである事が認められ次第、第四王子夫妻の親衛隊が正式に結成されるそうだ。


「…承知した。だが、ここの子供達が怯えるような、物々しい警備はしてほしくない」

「かしこまりました。そのように伝達致します」


 王の側近は粛々と確認作業をおこなった。ギヨームも立ち合い、ライファンの名も承認が下りる。その間もエイレーネは眠ったままだった。


 眠る前は朝陽だった太陽が、彼女が目を覚ます頃には夕陽に変わっていた。体内時計がおかしくなりそうだ。


「気分はどうですか」


 覚醒すると同時に優しい声が降ってくる。エイレーネは少しだけ首を動かした。


「…大丈夫です。リファト殿下」


 お互い、声も無く微笑み合う。


「少なくとも五日はこちらに留まるようにとの指示です」

「わかりました」


 リファトは、彼女が聞きたいであろう事を一つずつ教えた。


「ユカル達も今は休んでいます。明日からは通常通り、仕えてくれるでしょう」

「疲れが癒えるまで休んでほしいのですが…」

「三人とも張り切っていましたからね。言っても無駄だと思いますよ」

「ふふっ、そうですか」

「…母上達の事も聞きたいですか?」

「はい。お願いします」

「証拠不十分と言いましたが、黒魔術を生業にしている女の顧客名簿から母上の名前が見つかったので、現在は拘留中です。すぐに釈放されると思いますが…しばらくは動けないでしょう。アンジェロ兄上にも今のところ、目立った動きはありません」


 リファトは我が子に視線を落とす。今は静かでも、ニムラが手段を選ばす命を奪いに来る可能性が潰えた訳ではない。考えればいくらでも最悪の未来が浮かんできた。


「…わたしはライファンに選ばれた母として、恥じぬ生き方をします」


 手厚く保護していても、命を掛けて守ると誓っても、この世に絶対は無いのだ。故にエイレーネは自らの生き方を言葉にした。どうにもならない事を嘆くのではなく、母として妻として、できる最大限を誓う。

 彼女の透き通る綺麗な瞳に、リファトは神々しささえ感じた。彼女の方が五歳も年下なのに、親としてはリファトのずっと先を進んでいる気がする。


「…レーネはもう、立派な母親ですよ。私も父親として、情けないところばかり見せていられませんね」


 ちっちゃな手の平が、変色した指をきゅうと握った。えもいわれぬ庇護欲がリファトの胸に広がる。護らなければと、腹の底から無限の力が湧いてくる。自分の身体ではないみたいだ。それもそうだろう、既に己の身は妻と子の為のものになったのだ。




 世話になった孤児院を出て古城へと戻る日。エイレーネは子供達に囲まれていた。今日まで彼女との面会は制限されており、子供達は生まれたばかりの赤ちゃんに興味津々だったのだが、会わせてもらえなかった。それが漸く解禁され、わらわらと集まってきたのである。


「ちっちゃいー!」

「わあ!エイレーネ様とおんなじおめめだ!」

「かわいいねぇ」


 ライファンの目は昨日開いたばかりだ。その瞳が、母親のエイレーネと似た色合いだったので、リファトも大喜びしていた。薄っすら生えている産毛もよく見てみると、橙色をしている。外見は母親似に育つかもしれない。


「あのう…ちょっとだけ、抱っこしてもいいですか…?」

「構いませんよ。アリア、ジェーン。手を貸してあげてください」


 年長の女の子達はライファンを抱っこさせてもらい、可愛いを連呼する。まだ何も分からないであろうライファンは、代わる代わる抱っこされてきょとりとしていた。


「ライファンは大勢お兄様とお姉様がいて幸せですね」


 エイレーネがそう告げたことで、誰が一番の兄または姉かというささやかな争いが勃発してしまったが、皆んな最後には声を出して笑っていた。


 さて、孤児院の門前には近くに住む民達が見物に押し寄せていた。エイレーネ達が出てくると民衆がわっと湧き、小さな王子様を一目見ようと前のめりになる。その中に見知った顔を見つけたエイレーネは、嬉しくなって挨拶しようと口を開きかけた。ところが先に親衛隊の騎士が怒号した。


「下がれ!この方々をどなたと心得る!」

「軽々しく近寄る事は許さぬ!」


 数名の騎士が剣を構えた為、民衆は悲鳴を上げて後ずさる。なにもそこまで脅す必要はないだろうと、エイレーネは悲しくなった。リファトも彼女と同じ思いだったのだろう。彼は進み出て、騎士達を窘める。


「よせ。民に向かって安易に剣を抜くものではない」

「…はっ。お許しを」


 国王フェルナンが直々に差し向けた親衛隊は、第四王子夫妻と二人の息子を守護する為、特別に編成された精鋭部隊である。気を張り詰めるのも分からなくはない。


「わざわざ来てくださったのに、驚かせて申し訳ありません」


 エイレーネが謝ると、民達はほっとしたようだ。交流のあった農夫達が気を取り直して「おめでとうございます!」と祝福を贈れば、周囲に笑顔が広がり始める。

 リファトとエイレーネは親衛隊の気持ちも汲み、一定の距離を保ったまま、民達の声に応じた。二人は、ありがとうと何度も感謝を述べるのだった。


 古城へ戻ってからが本当の大騒ぎであった。皆、報せだけ聞こえてくるばかりで、ライファンに会えていなかったのだ。抱っこさせてくださいと願う声の熱量が、子供達の比ではない。料理人のマルコなんて感激のあまり、ライファンを抱いたまま男泣きしていた。強面で巨軀であるポプリオの腕に収まっても、ライファンは泣き出さなかったので、大物になるぞと揶揄われたりもした。


 赤子の世話は四苦八苦するものだが、下に四人の弟妹を持つエイレーネと、孤児院育ちの侍女二人は色々と心得ていた。といっても自分が母となり、乳飲み子の面倒を全てみるのは初めての事。乳をやるのも手惑い、夜泣きに飛び起き、あたふたする場面も多々あった。

 男性陣はてんで駄目だった。ベルデ国で幼い子供達と触れ合ってきたものの、新生児を相手にするのは勝手が違うのだ。エイレーネ達を手伝おうにも、逆に足手纏いにしかならず、撃沈する日々が続いた。ユカルは仕方ないにしろ父親であるリファトは、このままではいけないと一念発起し、少しずつ出来る事を増やしていった。

 しかしこれは珍しいことである。王族あるいは貴族の男性は普通、子育てに参加しない。それは母親や乳母の仕事とみなされているからだ。男は金を稼ぎ、家を守るのが務めというのがこの国の常識で、家庭内のことは妻に任せきりだった。中には子煩悩な父親もいるが、それでも自らおしめを替える男はそういないだろう。

 だが特殊な環境で育ったリファトは、普通を知らない。故に彼は、エイレーネの負担が軽くなると思えば何でもおこなった。そもそも子を産むこと自体、非常に大変な仕事なのに、母親は産まれてきた子に乳まで与えなければいけないのだ。女人はどれだけ身を削れば良いのか。充分すぎるくらいの働きだとリファトは思う。何より我が子が可愛い。エイレーネの弟妹達も可愛らしかったが、我が子は別格だった。何でもしてやりたいし、何でもできる気がするから親心とは不思議だ。

 不思議と言えば、母と子の絆が最たるものだろう。どうしてかエイレーネは、ライファンの伝えたい事が分かるのだ。どれだけ頑張って耳を澄ませてもリファトには同じ泣き声にしか聞こえないのに、エイレーネはお腹が空いたのか、寒いのか、おしめが濡れているのか、泣き声を正しく聞き分けていた。


「どうしてレーネには分かるのですか?」


 思わず気になって追及するが、彼女にも明確な根拠は無いらしかった。


「どうしてでしょうね。そう聞こえるんです」


 思い返せばリファトがあやすより、エイレーネが抱き上げる方が泣き止むのも早いし、心なしかライファンも、彼女の腕の中にいる時が一番安心しきった顔をしている気がした。母親とは神秘的な生き物だとつくづく驚嘆させられる。


 第一子のライファンは、どうやらあまり手のかからない赤子らしい。しかしながら比較対象のいないリファトには、とてもそうは思えなかった。夜泣きをするたびエイレーネは起こされ、ライファンが満足するまで乳をやる。時々、上手く飲めずに乳を吐き出すので、エイレーネは夜間着から肌着まで全部替える羽目になる。食事をしていても、疲れて微睡んでいても、泣き声が聞こえれば彼女は飛んで行く。当たり前の事だが、衣食住の全てに大人の助けが要るので、殆ど休む時間が無いのだ。これで手がかからないと言うのなら、手がかかる赤子とは一体全体どうなってしまうのか。リファトは戦慄した。

 とは言え、我が子の為の苦労ならば苦労のうちに入らない。現在、リファトを煩わせているのは、他の要因である。

 懐妊が判明したあたりから、周囲の目の色が変わったのは分かっていたが、王子が誕生したとあっては貴族達も黙っちゃいない。毎日のようにどこぞの貴族から祝いの品が届くわ、挨拶に出向いてくるわ、リファトはその対応に追われている。媚び諂うのが露骨すぎて閉口するしかない。

 それでいて強固に根付いた"呪われた王子"という印象は変わっておらず、やって来る貴族連中は揃いも揃ってリファトではなくエイレーネに会おうとする。子育てで手一杯の彼女に余計な荷を負わせる事はリファトが決して良しとせず、彼ひとりで対応に当たった。禍々しい素顔を晒し、ついでにひと睨みすれば、連中は挨拶もそこそこに退散していった。予想できた事だが、友好の握手をしようとする者は一人としていなかった。そんな有様では、たとえエイレーネに会えたとしても、事務的に一言交わして終わっただろう。リファトを蔑ろにする者に、彼女が気を許す事は無いからだ。


 本心では呼びたくないくせに、食事会やら音楽会やらの招待状がリファトの元へ届く。読むのも億劫だが、返事をしない訳にはいかず、彼は無の表情で不参加の旨をしたためる。エイレーネが大変な時に、誰が音楽鑑賞なんぞするのか。


「…殿下、わたしに手伝える事はありませんか?」


 黙々と書簡の山と向き合う彼に、エイレーネが気遣わし気な声を掛ける。


「レーネは少しでも体を休めてください。疲れているでしょう?」

「先程までライファンと一緒にお昼寝をしていたので元気ですよ。殿下こそ、少し休憩なさったらいかがですか?」

「今、書いているのはマティアス兄上への手紙なんですよ。息抜きはこれで充分です」


 未だ一方的に送りつけるだけの報告書みたいな手紙だが、ここまで来たら途切れさせずに続けるつもりでいた。マティアスから怒りの返事が来たら終わりになってしまうので、無反応なのは逆に有り難いとリファトは捉えることにした。彼にしてはとても前向きな考え方だった。今回の手紙は、息子ライファンの内容で埋め尽くされている。辺境に引きこもっていても王子誕生の噂くらいは届いているだろうが、そういった事にまるで関心が無いマティアスなら、知らないでいる可能性もあった。


「兄上に甥ができたと伝えておこうかと」

「どんなお顔で手紙をお読みになるのか、楽しみですね」

「子供がお好きなようには思えませんが…確かにちょっと見てみたい気もします」


 まあ、そもそも手紙が開封されているかどうかも定かでないので、楽観的な希望でしかない。マティアスが甥を抱き上げている光景がまるで思い浮かばず、リファトは失笑してしまった。




 同日、カルム王国東部、第三王子邸にて。


 掴まれた髪は乱れ、殴られた頬を赤紫色に腫らした女性は、泣きながら許しを乞うている。美しかったであろうに、女性の美貌は見る影もなくなっていた。


「お許しくださいませっ…お許しくださいませ…!」

「黙れ。許すものか。王子を死なせたのだ。楽に死ねると思うでない。拷問の末に処刑してくれる!」


 ニムラの怒声に震え上がる女性は第三王子妃、つまりアンジェロの妻なのだが、彼は妻がいたぶられる様子を退屈そうに眺めているだけだった。


「わたくしのせいではございません!信じてくださいませ!」

「お前の不注意が招いた事。お前の所為だ」

「違います!本当に違うのですっ!…アンジェロ様だってご存知でしょう?どうかわたくしをお助けください…っ」


 つまらない、とアンジェロは思った。

 こちらが愛想良くすれば、女は有頂天になって擦り寄ってきた。しかし捨てられると理解した途端に泣いて縋り始める。この妃のように。どの女も示し合わせたみたいに同じ姿を晒すのだ。ニムラの剣幕に震え慄き、足に縋り付いてくる様は実にみっともない。


 しかし、彼女だけは違った。

 堂々と、臆せず法廷に立っていた。腹の子を人質にとられていたようなものなのに、助けを求めて泣く事もなく、独りでニムラと応酬する彼女には、見た事のない煌めきがあった。

 リファトもそうだ。彼女を知らない頃の弟は、俯いて暴言を一方的に受けていたのに、今の弟は母を挑発することまでやった。醜悪な弟はあんな風じゃなかった。ますます癪に障るようになった。エイレーネと関わってからの彼奴は……。


「……憎たらしい」

「えっ……」

「お前もそう思うか」

「そんなっ、そんなっ!!アンジェロ様!あんまりでございます!!」


 物思いに耽っていたアンジェロは、女の喚き声によって我に返る。この妃に向けて放った台詞ではなかったが、訂正するのも面倒だった。あながち間違いでもないし、彼は足に纏わりつく妃を蹴った。

 とっくにこの女には飽きていたが、何故か次を探す気にならない。


「…母上。子は死にましたが、男児を産んだのは事実です。今回だけはその功績を鑑みて、ご容赦なさっては」

「……ふん。ではこうしよう。もう一度、男児を産め。それが出来なければ、今度こそ命は無いぞ」

「は…はい…っ…ご親切に…感謝いたします…っ」


 首の皮一枚繋がったとしても、ひとたび燃え上がったニムラの怒りは消えないだろう。この妃の命運は既に決しているのだ。それでもアンジェロの心は壊れた歯車のようにさっぱり動かない。


─── この子は、リファト殿下とわたしを親に選んでくれたのですから。これ以上に光栄で、誇らしい事はありません。


 弁護人でさえニムラの息が掛かっており、文字通りの孤立無援の場であってもエイレーネは微笑んでみせた。それはもう、敵ながら讃えたくなるほど綺麗に。癪な話だがアンジェロはいっとき、視線が吸い寄せられてしまったのだ。すごく奇妙な心地だった。もっと彼女を見ていたいなどと、どこかで思っていた気さえする。

 いま一度、会いに行ってみるか。第四王子夫妻とは接触を禁じられているが、破ったところで命は取られない。謹慎が下る程度であろう。

 アンジェロはにやりと口の端を歪めるのだった。

【補足】

行き先を孤児院に変更したため、エイレーネ達は知る由もなかったのですが、裁判所から古城へ戻る道はニムラの手下によって封鎖されていました。エイレーネを立ち往生させるためです。

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― 新着の感想 ―
[一言] エイレーネの凜とした強かな姿勢に前話から心を打たれまくりです…涙が… ほっとするまで心臓が潰れそうでしたが、夫婦2人が自分の子を抱く姿しか想像できなくて(抱けない想像はしたくない)、絶対に…
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