10 手のかかる妹
午後の授業もつつがなく終わり、帰りの馬車に乗るため、馬車止めに向かった。待っていた御者に声をかける。
「お兄様は?」
「ジュリアン様ならもうお帰りになりました」
「いえ、サティアス兄様よ」
すると御者が意外そうな顔をする。なぜ、みなジュリアンだと思うのだろう。ビアンカは小首を傾げる。
「サティアス様は、もう少し遅くなるかと。生徒会のあと、図書館によっておられます」
「そう、では、私はお兄様と帰りたいから、図書館へ行っているわね」
御者は「かしこまりました」と言いつつ驚いた表情をした。
今日、レジーナに案内してもらった図書館に向かう。四階だての石造りの神殿のような立派な建造物で、下には宝物庫もあるという。今度、ゆっくり長兄に案内してもらおうなどと考えながら、しばらく蔵書を見てまわる。
物語が並んでいる書架でふと立ち止まる。以前はいったいどんな本を読んでいたのだろう。適当な本を手にとりページを繰る。
「ビアンカ、何をしているんだ?」
後ろから声をかけられて飛び上がるほど驚いた。サティアスだ。
「お兄様! お待ちしておりました」
こんな図書館で偶然出会えるなんて嬉しい。
「何かあったのか?」
兄が軽く眉間にしわをよせ気難し気な顔をする。そうするとぐっと近寄りがたさが増す。
「お兄様を待っているのです。一緒に帰りましょう」
ビアンカは気にせずにこにこと笑いかけた。きっと兄はこういう顔なのだ。
「え、それでここにいたのか?」
「はい」
「なんでまた……。僕といて楽しいのか?」
兄が心底不思議そうに聞いてくる。
「さあ、どうでしょう? 少なくともお兄様と一緒にいるのが一番安心します。それに家に一人でいるのもなんだか辛くて」
「じゃあ、あと少しだけ待ってて」
そう言うとサティアスは書架の向こうに消えた。
その後、長兄と一緒に帰り、いったん部屋に戻って着替え、食堂に降りていくと、ジュリアンと母のイレーネが先に食事していた。
「サティアス兄様は?」
長兄がいない。支度に時間がかかっているのだろうか?
「サティアスは、夕食は自室でとることが多いの。降りてこないところをみると今日もそうなんじゃないかしら」
イレーネが別段関心なさそうに言う。
それで、食事中顔を合わすことがなかったのかと合点がいった。
この家は父が今日は皆で食事をしようと言わなければ、家族が食卓に揃うことがない。貴族の家庭というものはどこでもこうなのだろうかとビアンカは不思議に思う。
♢
「サティアス、ちょっとここいいかい」
サティアスがカフェテラスで遅めの昼食をとっていると、アスワン侯爵家令息ライルがやってきた。
「あまり、良くないが、何か話があるのか?」
サティアスが無表情でつっけんどんな返事をする。ライルはそれには構わない。
「いや、君の妹がまた学園に通い始めたんだろう? ちょっと挨拶したいんだが、紹介してくれないか?」
ライルはにやにやと笑みを浮かべている。
「来なくていい。妹に近寄るな」
すげなく言う。
「おいおい、取り付く島もないな」
ライルがおどけたように大袈裟に肩をすくめる。彼は面食いで女好きだ。
「僕の妹は可愛げなくて、太っているから、気に入らないと言っていなかったか?」
無駄な時間なので、サティアスは食事の手を止めない。
「いやだな、誤解だよ。気に入らないとは言っていない。今は痩せて美人だし、顔がよければ、OKだよ。それにまだ、次の婚約者決まっていないんだろう?」
以前のビアンカはとても太っていた。子供の頃はほっそりしていてそれなりに綺麗な顔立ちをしていたが、学園に入る前あたりから暴食が始まり、次第に愛らしい顔は肉に埋まっていった。
しかし、バルコニーから海に落ちて行方不明となってから三ケ月、学園に帰って来た今は痩せて見違えるように美しくなっている。
そのうえ、今のビアンカには婚約者がいない。そのせいか彼女を紹介しろと言ってくる者が多い。サティアスは勉強や生徒会で忙しいなか、そういう者達を捌かねばならない。
以前は、ビアンカとは同じ学園にいてもほとんど交流がない状態だった。父は、「兄妹でなれ合うな。お互いに競い合え」などと言っていた。
しかし、今は手のひらを返したように、「次の婚約者が見つかるまで、ビアンカに男を寄せ付けないように、近づいてくる奴は追っ払え」と言う。
婚約者がいなくなりフリーになった彼女にやたらと声をかけたがる男子生徒が後をたたない。
記憶がなくなってしまったビアンカは少しどころかだいぶ抜けている。父の言ではないが、海にいろいろと流してしまったようだ。
ふわふわとしていて、警戒心がまるでない。フォローしきれるだろうか? あそこまで間抜けな妹だと、ときおり自信が揺らぐ。
「まったく、どいつもこいつも手のひらを返したようだな」
サティアスが冷めた口調で言う。
「おいおい、前は妹とは口も利かなかったじゃないか? 君こそ手の平返しだろ?」
「父の命令だ。いま妹の元には降るように縁談がきている。悪い虫を寄せ付けないように言われた」
ライルは大袈裟に肩をすくめて立ち去っていった。この手の輩には本当に辟易としていた。
現金なもので、ビアンカが美しくなって戻ってきた途端学園の男達が声をかけたがる。
ビアンカは行方不明だった間に婚約を解消された。彼女が見つかった当初は、もう碌な縁談は来ないだろうと噂されていた。
しかし、ビアンカに後ろ暗いところはなく修道院で保護され、美しくなって帰って来た。
すると、でぶでブスだと馬鹿にしていた連中まで、彼女を狙い始める。もちろんビアンカが美しくなったということもあるが、大半は公爵家とお近づきになりたいのだ。
仕方がないので、ある程度ビアンカに張り付くしかない。カフェテラスでも陰から彼女を見守っている。こんな真似はしたくはないのだが、抑止効果はあるようだ。
放課後はビアンカに早く帰って欲しいが、「家にいるのが、心細い」などと言って自分を待っている。なるべく図書館にいるように言っているが、大丈夫だろうか?
交流のなかったしっかり者のビアンカが、一転して、手のかかる妹になってしまった。




