第54話
会食後。この天空まで伸びるホテルには疲れた客の疲れを癒す、それらしい巨大な大浴場が内部にある。
今夜の宿泊費も滝沢家が持ってくれるということなので喜んでご厚意に甘えることにした。流れ出る温かいシャワーを頭から浴び、湯が黒髪全体へと行き渡り、体をくまなくスポンジと泡で綺麗に洗った後、湯にそっと浸かる。
「ふぅ…………」
肩から湯に浸かると全身の苦痛が一気に湯に溶けていくような心地よさ。家の風呂とは広さも質も桁違いだ。あちらではどれだけ高価な入浴剤を入れてもこれを再現することはたぶん無理だろう。この大浴場ならではの広さゆえの快適さもある。
翡翠は滝沢邸へ、石動は仕事があるということで一人で入浴することになった。もし零や歩美がいたらここでのお泊りも寂しくなく、楽しかったかもしれない。だが、湯に浸かって、顔見知りの誰にも干渉されないまま、一人になって考えたいことがあった。あの変態ピエロと戦う前からずっと首につけていたアレ。
初めてあのチカラを抑えるためのチョーカーはもらった時のことは覚えている。しかしその病院がどこなのか、何という名前の病院なのか、覚えているようで覚えていない。記憶からそこだけスッポリ抜け落ちている。それを花予に再度確認する必要がある。
チョーカーはそもそも2013年11月に起きた交通事故後の病院でつけることになった。
それはまだ物心もついていない当時3歳だった初月諒花を乗せた両親の運転する車が旅行先を目指して高速道路を走っている時、そこに車一台が追突した。付近を走っていた車を巻き込み玉突きに発展、高速道路上は燃え広がり、辺りとアスファルトの上はたちまち猛炎に満ち溢れた。
この時の燃える赤き業火は今も悪夢となって出てくることがある。本来、家族で水入らずの旅行中のはずの悲劇であった。
後方座席右側に座って諒花を見ていた初月花凛、車を運転していた夫の諒介は亡くなったが、まるで死に際に愛する娘を守ったかのようで、託されたかのようにして奇跡的に救助隊によって助けられたのだ。
そして運ばれた先の病院で検査を受けさせられ、チカラを抑制すべくチョーカーをつけるように診断を受けた。体の成長に適応できるよう、チョーカーは伸び縮みができるタイプだった。だが、チョーカーをつけ始めたこの時は物心が何となく徐々につき始めた頃で記憶もうっすらとしか覚えていない。会話などは当然覚えてもいない。映像が無音で頭の中に残っているようなもの。
初月一家の車に追突してきた元凶である車の運転手もなぜこのような事故を起こしたのか分からないまま、真実とともに業火の中へと消えていった────かと思われたが、それはあの変態ピエロ、レーツァンが仕組んだものだったことがつい先月19日の青山存亡をかけた滝沢邸での戦いの中で本人の口から明かされた。
きしくも今月で両親が死んだあの交通事故から11年になる。あの交通事故も、チョーカーと同じくレーツァンと零の背後にいる黒幕を紐解く手掛かりでもあるのは明らかだった。
その黒幕に近づくために起こした、両親と恋人の命を捧げたと、あのピエロは死に際に語っていたのだから。あのピエロもまた、黒幕に近づいて何か企んでいたのかもしれない。今はもう知る術はないが。
だいぶ湯に浸かって体が温まってきた。考え事をして随分長く入ったような気がした所でそっと立ち上がった。湯が体を滴り、ポタポタと胸や腕から水滴となって流れ落ちる。大浴場を出て体を拭いて白い寝間着に着替えると、ドライヤーで髪を乾かし、近くの自販機から買った風呂上がりのコーヒー牛乳を口にする。
口の中が冷たくて牛乳独特の味も相まってとてもスッキリする。当然、このお代も滝沢家が持ってくれるというのだから本当にありがたいことだ。今日は全部持ちますわ、と去り際の優しさと気品に満ちた口調の翡翠の言葉を思い出した。
そのコーヒー牛乳の味はこれから解決すべき問題のことを一時でも忘れさせてくれる。今夜はフカフカのベッドでこのまま気持ちよく眠りにつけそうだ。
エレベーターで9階にある、先ほど目が覚めた部屋に戻り、高価なベッドに敷いてある布団を被る。
柔らかな枕と布団も相まって意識は瞬く間にすやすやと眠りに落ちていった……
※ ※ ※
冷えこむ夜。夜明けにはまだ早い。しかし眠らない街、渋谷に一台の赤い高級車が走っていた。ハンドルを握りながら脇に置いてあるスマホに耳を傾ける。
『総員、配置完了しました! いつでもいけますぜ、コカさん!』
「コケーッ! ならテメェらは下から攻めろ! 邪魔する奴には催涙ガス撒いて全部ぶっ壊せ!」
ビーネットのお陰だ。負けたアイツがかき集めた情報を有益に使わせてもらった。お陰で準備は万端だ。ウチの門番でもあるあのハチとサソリ──ビーネットとスコルビオンを立て続けに破ったとなると久しぶりにこの脚がうずく。
「カヴラさんから褒美をもらうのはこの俺っち、ただ一人だコケ!」
――朝日を拝むことなく消してやる――! 初月諒花――!




