第166話
目から一滴がこぼれた後、改めて確認する。
「零……本当に零なんだよな?」
翡翠の車を待っている間、後ろに突然現れていたのはどこからどう見ても零だ。こうして再会するのはワイルドコブラとの戦いが始まる前、ちょうど今からあの一週間前以来となる。正体を暴いたら部屋を飛び出して去って行ったあの────、
すると向こうもまるでこちらとの再会を喜ぶように笑みを浮かべていて、ウンウンと頷く。
言葉に出さなくてもその表情から、感情がよく分かる。
すると零はこっちにくるように右手でジェスチャーして、どこかに向かっていった。ここである違和感が急に生じる。
――零は左利き……まぁ、そんなこともあるか。
彼女の背中についていく。駅とその周辺に広がるビル街から徐々に離れていく。
「なぁ、零。今までどこに行ってたんだよ?」
前に出て回り込んで声をかけるが、彼女は答えることなく、ただ前にひたすら歩みを進めるのみで反応しない。
「お前がいなくなってから大変だったけど、捜したんだぞ」
なぜだろう。会話が弾まない。
やがてビル街から遠く離れた閑静な住宅街に入っていき、道は狭いがマンションや家が建ち並び、さっきまでの都会は騒がしい分、夜明けに伴う明るさを含んでいたが、ここはどこか静かで寂しく感じる。
マンションやアパート、一軒家などが並ぶ普通の南青山の住宅街は音も一切感じない空間。
やがてたどり着いたのは住宅街にある一軒の小さな家。赤い屋根に白い壁。他の周囲の家と比較すると一階建てかつ紅白であるものの目立つ家。
「どうしたんだよ? こんなとこまで連れてきて?」
ドアの前に立つ零はこちらを一瞥し、ドアを開け、来るように促してくる。
「待てよ、零!」
ドアの奥に消えた彼女を追いかけ、ドアをくぐる。
中には何もない雑草が含んだ更地の周りは壁に囲まれ、天井には白い空が広がっていた。家とは思えない風景。
とっさに後ろを振り向くとさっきまで見えた赤い屋根の家の正体は、まさかだった。
空き地に建てた巨大な家の形をした板を置いて、まさに家という体を成しただけのもの。
そんな巨大なハリボテハウス内の奥に零は背中を向けてじっと立っていた。
「いったい……なんなんだ?」
やはり罠なんじゃないのか? そう思い始めた時。
彼女はそっとこちらを振り向いた。会えて嬉しいということを表す笑みを浮かべて。
「わざわざここまでご苦労だったね、諒花」
「…………え?」
その零の発した声に思考が停止した。目が丸くなった。
突然、喋り出した彼女。しかしそれは普段よく知る声、今朝も電話の向こうから聞こえたものとは全く違う。
そもそも女ではない。これは男の声だ。見た目とギャップがありすぎる。極めつけに本来の零ならばまずすることはない、鋭くずる賢いイタズラな笑みを浮かべている。
杞憂と思っていたのが急転直下、先ほどの電話での翡翠の言葉の意味がここでようやく分かった。
自分はバカだ。直前まで抱いていた幸福感が一気に崩れ落ちた。
「……お前、零じゃないだろ!!」
「おれが黒條零だぞ、諒花」
「んなわけねえだろ!! バカにするな!!」
見かけは完全に零の姿。これだけでは本人と見間違えて当たり前なぐらいだ。そのお馴染みの姿でその不気味な声による喋り方をすることが非常に気味悪く、不愉快になってきた。
「誰なんだよお前は!! 正体を表せ!!」
「……? 受け入れればいいものを」
そのきょとんとした表情は見た目だけなら本人と全く同じだ。見た目だけなら。
「受け入れるかよ!! 中身が全然ちげえから!!」
「それは残念だ……脳筋で頭の弱そうなお前なら騙せると思ったのに」
「バカにすんな!! その声でバレバレだわ!!」
「そこまで言われちゃ、仕方がないな……」
するとニセ零は俯き、意外にも白旗を上げるように落胆、諦めた様子で言った。
「アタシが聞いた電話の声はなんなんだよ。声までは再現できないみたいじゃねえか」
「あれはAIに本人の声を読み込ませて似た声質で喋らせた細工だ。お前に電話をかける工作が別で行われたのさ」
――ということは、コイツは零の居場所を知っている……? 電話は零本人の番号からかかってきていた。
「ただ所詮はAI。本人の声は真似られても絶対どこかにボロがあるがな……」
「だがお前は何も疑いもせずに来てくれた。こんなショボい家のハリボテまで作らせ、釣りだした甲斐があったというものだ。あとは――」
するとニセ零は両手で胸を抑えて苦しそうに蹲る。
「うっ……うわああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
その叫び声は悲鳴というよりも咆哮。
背中から六本の生々しい縞模様の触手が四方八方に飛び出し、零の胴体と綺麗な顔が奥に溶けるように消えていき、その姿は代わりに現れた不気味な新しいものへと変わっていく。
灰色の肌に口元からギザギザの歯を生やし、異形でとても人とは思えない目元が黒い黄色い目。
人間の目というよりも水中に暮らす生き物によくありそうなフチが黒く生々しく協調された形をしており、瞳は輝かない黄色がかっている。まぶたの上には鬼のツノのように伸びる二本の触角がある。
薄い髪が生えている頭上から目元近くまで四本伸びるタトゥーに、首から胸元にも同じように続く縞々模様の体。
零の着ていた白い冬物コートも縞々でモノクロなアロハシャツに紫のズボンへと変わっていく。
「うわっ、気色悪い!!」
本人じゃないとはいえ、怪物化していく様がとても胸が苦しくなる。やめて欲しい。その変身模様を見せつけるのを。
というかそれまでの見た目だけはどこからどう見ても零。本人が変身しているようにも見えて。零の姿があの化け物の中に取り込まれていくようで。
その姿は元々が零だった面影は一切ない。変貌した姿はとてもグロテスク。六本のウネウネと伸びる触手はまさに蛸のバケモノ。
「シュウシュウ……」
「どうだ……友達が変わり果てたこの姿……どうせ死ぬんだから特別に殺す前に晒してやる。シュウシュウ……!」
触手をウネウネ動かしながら出るその口癖は、今まで戦ってきた奴らの口癖がマシに見えるほど気味が悪いものだった。
「おれは化蛸のダーガン。ワイルドコブラ5人目の幹部さ……! シュウシュウ……!」




