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第119話 少年、ぶん殴る



 身体の底から溢れ出した、魂からの絶叫。

 同時に、ヒロの両手からエメラルドの輝きがほとばしり、その光は一瞬で足元の水面を割った。

 噴きあがる水飛沫は熱まで帯び、激しい蒸気と共にあたりを満たす。


「えっ?

 ……え、えぇ?」


 何が起こったのか分からず、まるで幼子のような戸惑いの表情を見せるレーナ。



 ルウを取り戻す為に、レズンを吹き飛ばした時と同じ――

 いや。あの時を遥かに超えた力が、ヒロの中から湧きあがってくる。

 そして生まれた光はヒロの全身を包み、魔の拘束を一瞬で解き放った。


「!?」


 バチバチと音を立てて弾けながら、光の中で燃え尽きていく蔓。

 ヒロを汚そうとする者は、何であろうと決して許さない。

 光はそんな意思を持っているかのように、彼を拘束していた蔓を次々と焼き切っていく。

 しかもヒロの身体は、もう重力に任せて落下したりはしない。光自体がまるで実体を持つかのように彼を支え、決して彼を魔力の水に落とさぬようにしていた。

 つまりヒロは光の中で浮遊しているわけだが、レーナには俄かにそれが信じられない。



「そんな……

 嫌……嫌! この光は……あの時の……」



 先ほどまでの威迫が嘘のように、頭を押さえながら数歩後ずさるレーナ。

 ヒロはゆっくりと目を開き、そんな彼女を見据える。


 ――多分、この人も思い出したんだろう。

 母さんとの記憶を。


 自分の中から「勇者」としての力が溢れ出し、暴走寸前となっているのは分かっていた。

 しかし今のヒロはもう、それに動揺はしない。

 母から受け継いだ力――それはかつての「勇者」たちがその魂を犠牲にし、世界を救った力。

 それを使って、自分がやるべきことは。


 ヒロは一旦大きく深呼吸をし、両の拳に力をこめる。

 先ほどまで全身を駆け巡っていた痛みはすっかり消失し、砕かれた骨も裂かれた皮膚もちゃんと元通りに治癒している。

 ただ、ぼろぼろにされた執事服だけはそのまま。光によって巻き起こった突風により、裂けた裾や袖の切れ端が旗のように靡いている。


 ――ちょっと残念かも。

 こんな俺の姿、ルウが見ていたら大喜びだったろうに。


 それでもヒロは既に、心の中でそれを笑えるほどの余裕があった。

 そして、目の前にいるレーナをじっと、曇りなき眼で見つめる胆力も。

 しかしこれほどの「勇者」の力を目にしても、レーナはなおも執拗に食い下がろうとしていた。



「そうか……ユイカの時と同じね。あの時私の力と記憶を封じ込めた、忌まわしい光。

 でも、無駄よ。ここは魔妃の領域。

 あの時と同じには……っ!!」



 そう言い放った瞬間手をかざし、一気に魔力を増幅させるレーナ。

 彼女の眼前に、膨大な魔力が注ぎ込まれた光の紋様が壁の如く現れる。ただしその光はヒロのものとは正反対のどす黒い紫。黒煙のような澱みさえ帯びていた。

 それは間違いなく、魔妃の生み出した障壁。それはレーナが呼吸をするたびに拡大していく――勇者の光から魔妃を守るが如く。


「うふふ……私も頑張ったのよ、ユイカ。

 もう二度と、貴女を忘れない為に。そして、レズンちゃんの願いを叶える為に。

 だからもう一度私の記憶を封じようとしたって、無駄。私はあの時より強くなったんだもん!」


 確かにレーナの言葉は事実なのだろう。実際、これほど膨れ上がったヒロの光でさえも、魔妃の障壁は簡単には弾けない。

 空中で衝突し、ド派手に火花をあげる勇者の光と魔妃の壁。

 その向こうで、相変わらず歪んだ笑みをヒロに見せつけるレーナ。

 それを見て、ヒロはふと思った。



 ――やっぱりこの人は、俺じゃなくて母さんしか見えてない。

 俺を手にしたことで、ようやく母さんを手に入れたと思ってる。

 レズンを自分のものと思い込んでいるのと同じように、俺と母さんの区別がついていない。

 つまりこの人にとって、子供はどこまでも親の所有物でしかないんだ。



 自分でも驚くほど冷静に、相手を分析するヒロ。

 そして自然と、唇から漏れ出た呟きは。


「……俺、そんなこと、しないよ」


 暴走寸前の光の中、レーナを見据える少年の瞳。

 その視線はユイカの紫の瞳とは違うエメラルドの輝きを湛え、どこまでも静かに相手を貫いていた。


「俺は母さんみたいに、記憶を封じるなんてことはしない。そもそも、そんな技量も知識もない。

 でも、レーナさん。俺の願いはさっきも言ったとおり、ひとつだけだ。

 ――レズンを、解放してほしい」


 その言葉で、今度こそレーナの表情が凍り付く。

 何を言っているのか分からないと言いたげに――さっきも自身でそうレーナは言っていたが、それは事実なのだろう。

 しかし「自分がレズンを束縛している」という自覚がレーナに芽生えない限り、レズンの地獄も、ひいては他人へ波及する地獄も終わらない。


 それでもなお、レーナはその言葉が理解できないのか。もしくは、理解を拒んでいるのか。

 大きな眼をぎりっと吊り上げ、尖った犬歯を剝きだした。少なくとも、先刻のようにヒロの言葉を弄び笑い飛ばしている余裕はなさそうだ。

 障壁を展開しながら、ややうわずった声で叫ぶレーナ。


「あ、アラーニャちゃん!

 あの子をもう一度つかまえて! もう二度と、生意気な口がきけないように!」


 悲鳴のような絶叫と同時に、再び水面からざんぶとその姿を現したのは――

 ヒロの身を噛みちぎった、巨大黒蜘蛛。8つの真っ赤な眼球は相変わらず鈍く光り、中空にたたずむヒロを見上げていた。

 レーナが手を下へ振ると同時に、もう一度彼を噛み砕くべく、水上を突進してくる黒蜘蛛。

 しかし今のヒロには、そんな蜘蛛の姿さえ少し小さく、哀れにさえ見える。

 その真っ赤な眼球を見つめると、未だにレズンの泣き顔が見えた。8つの赤い空間に囚われ、ずっと泣きじゃくっているレズンが。



 ――レズン、ごめん。

 今は、こんなことしか出来ないけど。



 ヒロはゆっくりと、黒蜘蛛に向かって右手を伸ばす。

 すると、ずっと空間中を吹き荒れていた魂術の光が一気にその右手に集中し――

 次の瞬間、全てを吹き飛ばすかの如く、爆ぜた。



「……え?」



 拍子抜けしたかのような、レーナの声。

 その時にはもう、水面を隔てたかなり向こうの壁に、ぐしゃりと音をたてて蜘蛛が叩きつけられていた。

 物理的衝撃はそれほど大きくはなく、蜘蛛の身体自体が潰れて弾けるというレベルではなかった。しかしそれだけで蜘蛛は完全に気絶して力を失い、飛沫をあげて水へと落ちていく。

 治癒の力を秘めた水はそんな黒蜘蛛の傷さえ瞬く間に治していったが、何故か蜘蛛は再び起きることなく、泉の底へと沈んでいった。


「どれほどダメージを受けてもこの泉に落ちれば、すぐに回復してしまう。

 だから、眠ってもらいました。……正直、うまくいくか分からなかったけど」


 そう呟きながら、もう一度レーナに視線を移すヒロ。


「今の俺は、母さんから受け継いだ力と、俺自身がルウと一緒に鍛えた力。両方があります。

 だけど、それをうまくコントロールする自信はない。

 だから……どうなるかは、俺にも分かりませんよ」


 今や炎の如く燃え上がっている魂術の光の中で、瞬きすらせずじっとレーナを睨み続けるヒロ。

 その翠の瞳にさえも、同じ色の光が炎のように燃え盛っている。ヒロ自身の感情をそのまま反映するが如く。


 それでもレーナは、決して引き下がることはない。

 目の前の全てを理解出来ない、認められない。まるで、身体だけ大人になった子供のように。


「な……何よ。私を、大人を脅すつもり!?

 アラーニャちゃんにこんな乱暴して、本当に悪い子!!」


 さらに魔力を強め、障壁を拡大しようとするレーナ。

 それでもヒロは、右拳に一層力をこめた。


「そんなつもりはない。

 ただ、レズンを解放してほしい。そして、俺の家族や友達に、二度と干渉しないでほしい。

 みんな、貴女の人形でも何でもない!!」


 叫ぶと同時に、ヒロは空中を蹴るかのように一気に飛び出した。

 その姿はまるで、エメラルドの輝きを帯びた閃光の如く。

 身体の全てが燃え上がっているのに、もう不思議と痛みは感じない。強制治癒の水のせいではなく、魂術の――

 母から受け継いだ勇者の力が、自分を守っている。

 そんな自覚が、今のヒロには確かにあった。


 だが、それでも、レーナは。


「貴方が何を言っているのか、さっぱり分からない!

 私はレズンちゃんを大事に大事に育ててきたの。それは今後も絶対変わらない!

 誰がどうなろうとも、私は私とレズンちゃんが一番だもの。

 誰を踏みつけにしてもいいから、自分の好きなように生きる。だって私の人生は私のものだもの!!」


 あぁ――

 これを聞いて、ヒロは心のどこかで大きな失望を感じた。


 自分の好きなように生きる。一見、それは確かに心地いい言葉かも知れない。

「誰を踏みつけにしてもいい」という文言さえなければ。


 あのカスティロスとの結婚生活の中で自分とレズンを守る為には、確かにそういう生き方もレーナにとっては必然だったのかも知れない。

 愛などまるでなく、家を継ぐ為、血を継ぐ為だけの結婚を強いられたレーナと、その中で生まれたレズン。

 そもそも魔妃の末裔として生み出された時点で、彼女は周囲から蔑まれ、疎まれ、しかも厳しい修行を強いられる人生を強いられていたのかも知れない。

 それ故に、「他人を踏みつけにしてでも自分の好きに生きる」という価値観が醸成されるのは、仕方がなかったのかも知れない。


 だけど――そうやって踏みつけにされた「他者」は、どうなる?


 レーナによって傷つけられ、犠牲となった母さんは。

 母さんを失ったじいちゃんや、父さんの痛みは。

 レーナとレズンの暴走により、ルウもサクヤも、スクレットもソフィも散々酷い目に遭った。会長だってああ見えて、どれほどこの事態を怒っているか。


 ――そして俺自身だって、どれほど痛めつけられたか分からない。

 信じようと思うたびに、散々に裏切られて。

 レズンの本当の気持ちを知って、どうしようもないくらいに傷ついた。

 ルウがいなかったら、正気を保てていたかどうかも分からない。



「そうよ、私は幸せになるの! レズンちゃんも、絶対に幸せにするの!

 だから貴方も、ユイカも、ぜぇんぶ手に入れる。

 貴方は子供なんだから、私の邪魔をしないで!!」



 顔は笑っているものの、そう叫ぶレーナの瞳には最早狂気しか宿っていない。

 ヒロの光に抵抗するべく、展開した障壁の力を最大限まで振り絞るレーナ。勇者と魔妃の力が空間で真っ向から激突し、その衝撃波は電撃のようにヒロの身までを痛めつける。


「ぐ……!!」


 バチバチと激しく音をたてて、まるで花火の如く皮膚の上を遡ってくる衝撃。腕に残っていた袖の切れ端も高熱で燃えさかり、吹き飛んでいく。

 それでもなお、ヒロは耐えた。そして。



「いい加減にしろ、よ……!

 だったら、俺にだって、幸せになる権利ぐらいある!!」



 そう叫んだ瞬間。

 エメラルドの閃光と共に、魔の障壁に大きな亀裂が生まれた。

 ヒロが力と想いの限り、障壁に叩きつけた右拳。それを中心に、障壁はバキバキと音を立ててひび割れていく。

 かと思うと、次の瞬間には粉々に砕け散っていく障壁。必死でレーナが築き上げた幸せの城が、無残に崩壊するかのように。



 その向こうにあるのは、完全に無防備となって立ち尽くす女の姿。

 何が起こったのか理解できない、理解したくない。そんな表情のレーナ。

 化粧をふんだんに施しながらも、それでも老いを隠せず。

 なのにどこか年齢不相応な幼さがにじみ出ている、歪んだ女の顔。



 そんな彼女めがけて、ヒロは思い切り拳を叩きつけていた。

 怒り、悲しみ、怨み、そして痛み。その全てを。




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