彼よりも貴女
ゴオオオオォオオオオォオオォォォォォ
音を引く低く大きな音にはっとして空を見上げた。
敵機か!?っと叫んだ瞬間にぎゅっと背後から抱きしめられて驚く。
太くて筋肉質な腕に「ふぉお!?」と慌てふためくと「おいおい!紬、暴れんな!」って名前を呼ばれて私が小宮山紬であることを思い出した。
そうだ。
私は幸広さんじゃない。
そしてここは戦場でもない――ん?ある意味戦いの場だから戦場で間違いないのかな?
冷たい飛沫が頬に眼鏡にと降り注ぎ、溝の臭いのような腐敗臭に一気に現実へと引き戻される。
「な!?水柱!?」
「それだけじゃない!池の底から龍姫が出てきやがった!」
「ええ!?龍姫さまが!?」
池の水を巻き上げて立ち昇る黒い水柱を見てびっくりしていたら、もっとよく見ろっていわれて震えが来た。
滑らかな鱗の輪郭を辿り滴り落ちる水滴。
柔らかなお腹の筋をうねらせて空へと伸び上がっていく胴体。
硬い毛のような背びれを風に靡かせてグングンと昇っていくからそのお顔は遠くにあって良く見えない。
――オオォォォオオオォオ!!
龍姫さまの咆哮には明確な怒りがあって、お腹の底がゾクリとするほどの恐怖に足が竦む。
大八さんの腕に掴まって青ざめていると舞台の方から悲鳴が上がる。
「多恵さん!」
舞台の欄干まで走り出て、龍姫さまをなんとか鎮めようと多恵さんは両手を掲げ必死で呼びかけていた。
楽器を奏でていた男性たちも舞台の先端までやってきて、龍姫さまを見上げて無念そうに「ああ……」と呟く。
「まずいな。あいつら失敗したと早合点して向かってくる気だ」
「え?」
あいつらって?
誰のこと?
それより早合点って大八さん。
私、失敗したんだよ。
幸広さんを説得できなかった。
「大八さん、あのですね」
説明しようと身を捩って大八さんを振り仰ぐけど、彼は舞台の下辺りを睨んでいる。
その視線を辿れば地を蹴って走ってくる狛井の大将と百花ちゃんの姿があった。
二人とも無表情で。
それがなによりも怖かった。
「安心しろ。おれが護る」
「いや、だから」
彼らの怒りや失望は当然で。
役割と責任を果たせなかった私にはなんらかの代償を払わなくてはならなくて。
「龍姫は完全に堕ちてない。だから諦めるな。必ず方法はある」
探せ。
動け。
諦めずに。
「まだ、終わってない?」
「そういうことだ」
二カッといつもの笑顔が私を励ましてくれる。
「自分で立てるか?」と聞かれたので膝に力を入れると震えは気にならなくなる。
それを確かめて頷くと大八さんの温かい腕がするっと外れて、そのまま飛びかかってきた大将の拳を払い落として体重を乗せた重い一撃を揮う。
邪魔にならないようにと少し下がって見守るけど、二対一ではいくら大八さんが強くてもそれほどもたないはずだ。
龍姫さまと聖域を守る神獣である父娘が大八さんに劣るような妖ではないだろうし。
いざという時はお札を使う必要があるのでポケットから抜き出すぐらいはしておいた。
でも問題はどうやって龍姫さまを止めるかなんだけど。
龍姫さまが荒ぶっているのは私が幸広さんを説得するのが遅くて業を煮やしたからなのか、それとも別の原因があるのかどうなのか。
分からなくても方法を探さなくちゃいけなくて。
考えて、見つけて、心を鎮めてもらわなくちゃいけない。
魂鎮めの舞でも龍姫さまのお怒りは治まらないほどになっているし、語り部の呼びかけには応えるはずなのに多恵さんの声も届いていない。
つまり。
もう一度龍姫さまと繋がりたくても、それもできないということで。
「こんなの、どうしたら」
私にできることなんて本当に小さくて。
唯一できるはずのことも満足にできないなんて悔しすぎる。
すぎるんだけど。
ちょっと待って。
龍姫さまどれだけ長いの?
「龍ってこんなに大きい妖なんですか!?」
いつまでも水飛沫は止まないし、水柱は立ちっぱなしで見上げる首が痛いくらいだ。
ほら、後頭部と項が着くくらいだよ?
距離があるから正確な大きさは分からないけど、胴だって私の腕がぎりぎり回るぐらいはありそうだ。
やっぱり神さまとして崇められるくらいの妖はすごいんだな。
「感心してる場合か!クソッ、お前ら!同時に攻撃しやがって、手加減すんの苦手なんだっつうの!」
なんとかしろっていわれても、私ひとりの頭ではなにも浮かばないというか。
「ええっと」
視線を彷徨わせながらこういう時こそ先生である宗春さんの出番なのに一向にこちらへと来る気配が無いのがなんとももどかしい。
本当は龍神池に結界を作った後で四人ともこっちへ合流する手はずになっていたんだけど。
龍姫さまと繋がった後で幸広さんを迎えに行った私の体感時間は信用できない。
意識が体から離れている時は時間の流れはどちらかというとゆっくりと流れているみたいなんだよね。
だから実際どれほど経っているのか分からない。
それでも誰かひとりくらいはここへ来ても良い頃だと思うんだけど。
「う、わっ!?」
ドォオオンって大きな音がした後でグラグラグラって地面が揺れた。
立っているのが難しくてふらつくと大八さんの腕がにゅって伸びてきて支えてくれる。
戦いながら私のことまで気にかけてくれてすごい。
でもそれより一体なにが?ってキョロキョロしているともう一回ドンッって音が響くと同時に池の向こうからシュバッと細い光りが空へ向かって上がっていった。
「あれは」
少し前に見た光景が繰り返されるようにピュンッと二の矢が放たれ、シュンッと三の矢、ヒュンッと四の矢が追っていく。
空全体がパッと明るくなり、龍姫さまの姿がくっきりと夜空に浮き上がってその目が血のように赤くなっているのがはっきりと見えた。
裂けて突き出た口の下からギラギラと光る牙を剥いて空気をふるわせて咆哮を上げると、首というか頭部をしならせて見えない壁に打ち付けると青や白、橙と赤の光が弾けてシャラシャラという澄んだ音が落ちてくる。
「結界が」
弱っているはずの龍姫さまに千秋寺の人たちが全力で作り上げた結界を打ち破れるのかな?
後先を考えずに妖力を使えば可能なのかもしれないけど。
それでは龍姫さまが戻る場所がなくなってしまう。
そもそも龍姫さまはここを出てどこへいくつもりなの?
なにをするつもりなの?
龍姫さまをそこまで駆り立てるものがなんなのか分からないけど。
出しちゃいけない。
行かせちゃいけない。
私は手の中のお札を見る。
宗明さんのお札。
天狗さまの動きを完全に封じることはできなかったけどそれでも効果はあった。
それなら龍姫さまにはどうだろう?
千秋寺は妖専門のお寺でもあるけど、本来は龍姫さまに対する抑止力のために作られた。
ということは。
どの妖よりも龍姫さまには効くんじゃないかな?
だったら行くしかない。
龍姫さまはまだ完全に池から出ていないから近づくことさえできればなんとかなる。
確か以前呼ばれてここへ来た時は舟があった。
それを使えば。
きっとどこかに係留してあるはず。
「どこ?どこに」
あるの。
池の縁まで行きキョロキョロと辺りを見回していると舞台の正面の対岸にそれっぽい影があった。
うん。
やるしかない。
「おいっ!ちょっと待て、勝手に動くな!」
突然走り出した私に驚いて大八さんが止めようとするけど、大将と百花ちゃんの相手で手いっぱいで直ぐには追いかけて来られない。
一人で行動するのは危険だっていうのは分かるけど、大体私を守りながら二人の妖と戦うっていうのは無理な話で。
それに矢は結構近くから射られてたから、すぐそこまでみんなが来てくれているはず。
「紬っ!」
「ごめんなさい!」
時間がないんだから許して欲しい。
声を振り切って池に添ってぐんぐんと暗い方へと進んだ。
大八さんが作ってくれた炎のひとつが先導するように前を照らし、もうひとつが周りの闇を払って視界を少しでもよくしてくれている。
彼の優しさに感謝しながらも罪悪感に胸がしくしく痛むけどお説教は後でちゃんと聞くから。
本当にごめんなさい。
大八さんの火の玉を連れて走っていると直線だった池の縁がゆっくりとカーブになり始め、右手の向こうの方に篝火に照らされた舞台が見えるようになった。
確かこの辺りに舟があったように見えたんだけどな――ってあれ?
ちょっと待って。
池の中央へとゆっくりと動いていく光がひとつあって、それが龍姫さまの舟の舳先にぶら下がっていた角灯の形に似ているんだけど。
「ウソでしょ!?なんで」
誰が。
どうして。
どんどんと岸から離れていく舟の上には二つの人影があって、白っぽい服を着ているのが見えた。
小柄だから多分女の人。
なんとなく多恵さんとお姉さんじゃないかなって思いながら足を止めて、ぼうっと見つめるしかできない。
「遅かったんだ」
仕方がない。
二人の決断が私より速くて行動することに迷いが無かったってことだ。
残念だけど別の方法を考えなくちゃいけない。
「でも、どうしよう」
他にいい方法なんて浮かびそうもないんだけど。
途方に暮れていると舟が係留されていた辺りから草を踏む音が聞こえて、はっと顔を上げる。
水辺に黒いシルエットが舞台の方からの僅かな光源だけで滲み出るようにして立っている。
顔の位置だけが白く浮き上がっているので髪も服も黒い。
それだけでそこにいるのが誰か分かってしまう。
ほっとして「雨村さん」と呼びかけると、小さく頷いたのか見えている白い部分がほんの少しだけ狭まって見える。
「おや。小宮山さんもお二人と同じように舟で姉姫に近づくことを考えたのですね」
ですが申し訳ありません。
「彼女たちが先に出てしまいました」
「みたいですね」
雨村さんが謝る必要はないんだけど、がっかりしていたからそれだけでなんとなく気持ちが軽くなった。
「どうかお気を悪くなさらないでください。語り部たちは姉姫の怒りを鎮められなかったことに責任を感じていて直接触れることで言葉を伝えられるのではないかと」
「直接って」
そこまで近づいて大丈夫なんだろうか?
いや。
もちろん私もお札で動きを封じようって考えたんだから二人の行動を無謀だっていうことはできないんだけど。
雨村さんには私の疑問や心配が分かっているかのように唇の端を持ち上げて微かに笑う。
「恐らく小宮山さんが行くよりも安全です。彼女たちには加護があり、姉姫は語り部に危害を加えることはできないので」
なるほど。
龍姫さまを鎮める方法は二人に任せて私はもう一度幸広さんと話をしに行った方がいいんだろう。
「よしっ!」
気合を入れ直して大きく息を吸うとまた頭上でびっくりするような音がして足元が揺れた。
今回は何度も何度も繰り返されて立っていられずに地面に倒れ込んでしまう。
雨村さんがしゃがんで背中を支えてくれたのでなんとか上半身を起こすことができたけど、空から聞こえてくる怒りと痛みを訴えてくる龍姫さまの咆哮は耳も胸も苦しくさせる。
結界の欠片がキラキラと空から降ってくる光景は幻想的だけど、身をくねらせ顎を裂いて牙を見せつける龍姫さまの形相との対比があまりにも大きすぎて冷静に受け止めることができない。
だってすごく怖い。
一体いつ龍姫さまが自我を失ってしまうか分からないから。
ただ怒っているだけなのか、それとも妖魔化して理性がなくなっている状態なのか私には判断がつかない。
だからこそ急がなくちゃいけないんだ。
「ダメダメ、深呼吸」
跳ね上がって速くなる心臓の音を、呼吸を整えることで落ち着かせる。
目を閉じて。
集中して。
さあ、糸を出して――。
「!?」
突然ピカッと閉じた瞼が白くなるほどの閃光に驚いて目を開けると雨村さんから「見ない方がいいですよ」と手で視界を塞がれた。
なに?
なんなの?
訳が分からないまま肌にピリピリとした振動が伝わり全身の産毛が総毛立つ。
ピシャッ!ピシャッ!と鋭い音があちこちで聞こえ、その度に大地が鋭利なもので刺されているかのように上下する。
「あ、ああめ、むらさ」
一体なにが起きているのか説明して欲しいと訴えると、龍姫さまが結界に苛立って手当たり次第に雷を落としまくっているらしい。
ひいぃえええ!?
おじいちゃんが子どもの頃に先生と友だちを助けた時の落雷を思い出して震えあがっていると雨村さんが宥めるように背中を叩いてくれる。
「力の消耗が吉と出るか凶と出るか分かりませんがいつまでも続くとは――おっとあちらは宗春さんのいる方では」
雨村さんの言葉の途中で落雷後の衝撃だけじゃなく、メリメリメリッとなにかが裂けるような音が聞こえたなと思ったらなんかさらっと恐ろしいことをいう。
顔を上げたんだけどひんやりとした手のひらが乗っているからどんな表情をしているのかも、どんな状況なのかも分からなくて不安になる。
「え!?宗春さんに落ちたんですか!?」
「宗春さんに落ちたかどうかは分かりませんが火が出たようです」
「火が」
出たようですってなんでそんなになんでもないことのようにいえるの!?
目の上の手を退けて雨村さんの腕から這い出ると確かに北の方の森が赤々と燃えていた。
風に乗って炎と煙と焼ける匂いが運ばれて鼻の奥をツンッと刺激する。
「そんな」
「大丈夫ですよ。宗春さんのことですから上手くやります」
「そりゃそうかもしれませんが、宗春さんは人間なんですよ?妖と戦えるだけの技術や力があったとしても炎に巻かれたら」
逃げ出せるわけがない。
いや。
確かに宗春さんが火に囲まれ逃げられずに死ぬっていう想像は全くできないけど。
「怪我くらいはします!」
「そうでしょうね」
「そうでしょうねって」
なんで。
「そんな冷たいこというんですか?雨村さんと千秋寺にはそれなりに協力関係があったはずでしょ?それに雨村さんは水に関係のある妖なんでしょ?それなら火を消してください。宗春さんを助けてくださいよ」
私が振り返って訴えると雨村さんは無表情のままパチリと瞬きをした。
なに?
私なにか変なこといった?
動揺が苛立ちを萎れさせ、戸惑いが生まれる。
「えっと、できない?」
「なにがですか?もし火を消すことができるかできないかでしたらできるとお答えします。宗春さんを助けることについてでしたら彼よりも貴女の安全を優先するようにといわれておりますので」
んんん?
つまり。
「私の傍を離れられないので、火を消しには行けないということでしょうか?」
「そうですね。そういうことになります」
「じゃあ一緒に行けば」
問題解決だって思ったのに。




