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きみはだれ



 獣の甲高い声が尾を引いて木々に反射して響き渡る。

 聞こえてきた方向へと注意を向けると陽光を受けて光るものがあった。


 あれは――銃口だ。


「敵兵だ!伏せろ!」


 叫んで前を歩いていた佐伯の背中を押して一緒に地面へと転がるとタタタタタッと軽快な音を立てて銃弾が撃ち込まれる。


 隊列の横側から襲われた。

 それぞれが身を低くして銃撃が終わるのを待つしかない。


 小声で繰り返される念仏が胸の下から聞こえ、こんな時だというのに口元に笑みが浮かんだ。

 佐伯は銃を構えることすら怖くて手が震えてしまうほど気が弱く、実際ひょろりとした細い体では小銃を撃った後の衝撃に耐えられそうにないくらいだった。


 相手の攻撃が止んだのを見計らって分隊長が撃ち返すようにと命令を下す。


 佐伯がビクリと大きく体を震わせたので「そのまま伏せていていい」と耳打ちして肩にかけていた小銃を引き寄せて身を起こした。


 自分とて慣れたとはいえない行為だが、来たばかりの佐伯に比べればましであるといえる。


 タンッ!


 一発撃ち遊底を操作して薬莢を排出、そして次の装填をする。


 だが満足に反撃できないまま米兵からの砲撃が始まり、再び黴臭い地面へと逆戻りせざるを得なくなった。


 兵の補充も糧秣りょうまつも満足に行き渡らなくなっているから無駄弾を撃つのも勿体ない。


 戦場がジャングルでさえなければ米兵の銃にもけっして劣らないのだ――というのは分隊長殿の言だ。


 ジャングルだからこそ身を潜められるという利点もありはするのだが、勝たねばならぬという戦争においては逃げることや戦闘をやり過ごすという考え方はそもそも持ってはいけないものなんだろう。


 必死で生き、指折り日数を数えては故郷を思う日々。


 憎いわけでもなく、ただ命令されるがまま命を奪い合うことに疑問はあるが、繰り返される空襲や地上からの敵襲に徐々に心が動かなくなっていく。


 ああ。

 空は青くどこまでも美しいのに。


 ああ。

 木々は枝葉を伸ばし濃い影を作るのに。


 自然に囲まれ人は醜く殺し合う。


 天に太陽は力強く照り、前触れもなく豪雨を降らせては地面をぬかるませ、蒸した空気が体中に滝の汗をかかせた。


 蚊が鬱陶しいほどにたかり、中にはマラリアにかかって高熱に倒れる者もいた。

 それでも歩みを止めることはできず、薬を飲んで朦朧としている病人を連れて行軍は続く。


 そのうち昼夜を問わず木々の間や濃い影の中に虚ろな人を見るようになった。


 彼らは一様にヘルメットを被り荷物を背負った兵士の格好をしている。

 よくよく見ると日本兵だけでなく出会う数は少なかったけれど米兵の姿もあった。


 ぼうっと立っている者。

 蹲っている者。

 息絶えた時の状況でただそこにある者。

 そして生者に縋って来る者。


 救われぬ魂は還る場所すら分からずにジャングルに在り続けるのかと胸の奥が痛むような感じがしたが己もまた同じ道を辿るのだと思い至ると妙な諦念で気にならなくなった。


「山本さんと一緒にいれば不思議と致命傷から逃れられると聞きましたが」


 ある日の夜、焼いた甘藷を齧りながら佐伯から真実なんですか?と無邪気に聞かれ、どう答えようかと悩みながら蚊が止まった首の後ろをパチリと叩く。


「偶々そうなっただけだよ。運が良かったんだ」


 南方に派兵され最初に所属した分隊が作戦中に逃げ場もない開けた土地で空からの攻撃を受けた。

 近づいてくるエンジン音に空を見上げれば機影が四つほど迫っていて全員が息を飲んで己の死を意識した。

 それでも生きたいという本能からか、みなが一斉に来た道を戻りジャングルの中へと逃げ込もうと動く。


 バババババッと背後から打ち込まれ地面が剥がれ土埃が上がり、火薬の鼻につく匂いが辺りに充満して。


 煩いほどの音の波。


 死とはこうも荒々しく早急に追いかけてくるものなのかと恐れ戦きながら必死で身を隠せるジャングルを目指す。


 前を走っていた宮田という男がなにかに躓いたかのように前へと倒れた。

 そのまま逃げてしまえばいいのに滑りつつも足を止め、大丈夫ですかと声をかけたところで転んだのではなく左足の腿の裏を打たれたのだと気づく。


 茶褐色のズボンにジワジワと黒い染みが広がっていき、呻き声を上げる宮田の顔は血の気が失せて冷や汗をかいていた。


 左腕を自分の肩へと回し、右腕で宮田のベルトを掴んで腰を上げようとした時。

 鳥のように翼を広げた黒い影が地面を舐めるように移動してグイグイと近づいて来ていた。


 すぐそこまで。


 逃げても間に合わない。

 それどころか立っていれば絶好の的になる。


 逡巡して宮田を体の下に庇うようにして地に伏せた。


 地鳴りに似た衝撃が次々と体に伝わり、容赦なく雨のように銃弾が降り注いでいることを思い知らされる。


 終りなど訪れないのではないかと思われるたが、単に時が引き伸ばされて感じられていただけのことなのだろう。


 凄まじい攻撃のせいで耳は聞こえず、体の感覚さえどこか曖昧になっていたが宮田が痛みで苦しむ声で我に返る。


 全身に土を被り、埃っぽかったが奇跡的にも(・・・・・)自分には怪我ひとつ無かった。

 宮田も初めに負った足の怪我以外は無傷であり、肩を貸しながらジャングルへと向かえば地面は血だらけで仲間であった者たちが全員恐ろしい顔をして死んでいた。


 何事があったのかと思う間もなく米兵の声が聞こえ、慌ててジャングルから飛び出し二人して大隊が駐屯している場所へと方々の態で逃げ帰るのがやっとで。


 宮田はそこで病院送りにされ、自分は作戦の実行を命じられた別の分隊へと編成されなおされ出立したからそれきり彼とは会えずじまいだ。


 達者でいればいいが――と思った所でここが戦場であり、誰もが死と隣り合わせなのだと空しくなる。


 その後も砲弾が近くに落ちた際に無傷であったことや、激しい戦闘の後も多少の擦り傷や裂傷で済んだことなどから幸運の男と仲間たちにからかい半分で噂され、時には宮田の時のように命を救われたと感謝されたこともしばしばあった。


 だから生き抜く力が薄そうな佐伯にみなが山本の傍にいろと助言したのだろうが、他人の命の保障などできるわけもない。


 ここでは簡単に人は死んでゆくのだから。


「死にたくなければできるだけ自分の身は自分で守らなくてはいけないよ」


 言い聞かせるように諭せば佐伯は途端に不安そうに顔色を変えて「近くにいるのは迷惑でしょうか?」と大事な食料である甘藷をポロリと取り落す。

 それを拾いしっかりと持たせてやりながら違うと首を横へと振る。


「運などに頼っていては生き残れないだけだ。いつ見限られるか分からないのだから」


 故郷から遠く離れているというのにこれまで護っていただけただけでもありがたいのに。


 語り部だった父が徴兵される際に跡を継いだが、そもそも語り部としての役目を務めた時間はそう長くない。


 それなのに。

 図々しい願いをして。


 それ以上に。

 加護で護られている。


 これでは美味い汁を吸っているだけの悪人ではないのか。


 事実加護というのは万能ではない。


 父は見事な戦死を遂げたと知らせが来た。

 爆撃され遺髪も遺骨もないとただ紙切れ一枚が届けられて。


 実感などわくはずもない。


 それでも父は帰らず、死を受け入れるしかなかった。


 果たして加護はいつまでもつのか。

 分からないからこそ頼ってはいけないと思う。


 佐伯が甘藷を見ながらぽつりと「我々は生きて戻れるのでしょうか」と呟く。


 ずいぶんと逞しくなりはしたが、それでも幼く甘えた所のある佐伯に厳しい言葉をいうことは酷だろう。


 だが過度な期待をさせるのも悪い気がして口ごもる。


 連合艦隊が米国の圧倒的な火力と勢いに押され制空権を奪われたという情報はきっと正しい。

 敵国の飛行機は毎日空を飛びまわっているのに味方の機体は姿すら見せないのだ。


 そして完全に糧秣は止まった。

 食料も弾も薬もなにもかも今持っている分しかない。


 自分の荷物の中に碌なものがないことは分かりきっており、佐伯とて手にしている細く小さな甘藷が最後の食料であり、この先についての不安がこうした弱音を吐かせるのだと分かっている。


「死ななければ戻れるかもしれない。だから生き抜くためにも慎重になるんだ。いいね?」

「はい」


 神妙な顔で佐伯は頷いたが、心中では気をつけていても死ぬときは死ぬのだと不満に思っていたことだろう。


 この異常な日々の中では生よりも死の方が常に傍に在る。

 ギリギリの精神状態で慎重になれと助言されてもなんのありがたみもない。


 分かっている。


 分かっているのだ。


 佐伯も自分も。




 ジャングルの中の亡霊たちの数は日増しに増えていく。


 その虚ろな姿を見ていずれは自分も同じようになるのかと思うとそれはそれでいいような気がした。


 亡霊たちだけじゃなくそこかしこに兵士の服を着た骸がゴロゴロと転がっている。

 黄色い体液が地面に溜まり、異臭が辺りに充満しているが、さほど気にならないのは慣れてしまったからなのかもしれない。


 空腹に苦しみ、喉の渇きに耐えかねて水場で飲んだ汚れた水のせいで腹を下しても待ってはくれないから自然と垂れ流しになるし、風呂など入れない状況下で汗だくになりながらの行軍はそれだけですえた臭いを発するものだ。


 ここにいれば腸を零しながら逃げる兵士や手足の千切れた人間など日常茶飯事で、負傷した傷が膿んだ匂いにハエがたかり、卵が孵ってシュワシュワと音を立てながら蠢く様子やらを何度も見ていれば匂いなど気にしていては生きてはいけない。


 これが現実なのだと実際にこの場にいるのにとても信じられないくらいだ。


 既に死に、地獄へと落とされているのかもしれないと思うほどに正視することが難しいほどの日々。


 早く終わって欲しい。


 それが戦争なのか、自分の命なのか分からぬまま願う。


 究極なまでの飢餓感と朦朧とする意識の中。

 罅割れた唇で母を呼んだ。


 小さな妹や弟たち。

 加護深き故郷の姿。


 どうか幸せに。

 どうか豊かに。


 どうか。

 どうか。

 変わらないでいて欲しい。


 湿った土の感触を頬で感じながら視線だけを上向ける。

 太陽を遮る木々の影が濃く落ちて視界を陰らせるから青く高い空を見ることは叶わなかった。


 ああ。

 流れていく。


 ああ。

 過ぎてゆく。


 ああ。

 ああ。


 歩みは止まらない。


 抜け出した魂は還れずに。

 誰かの背中について行軍は続く。


 どこまで?

 いつまで?


 ザッザッザッザッ。


 同じ速度で。


 繰り返す歩み。

 変わらぬ歩み。

 止まらぬ歩み――だったはずなのに。


 呼ばれた気がして振り返る。


 あれは妹の声ではなかったか?


 そんなはずがないのに。

 期待で足が止まった。


 荒れた大地の上に立つ人影。

 それは女性の姿。


 ――まつみ?いや


 一番末の妹が成長した姿かと思ったが、彼女の前髪は柔らかくうねり眼鏡の縁にふんわりと影を作っている。


 別れる前の妹は真っ直ぐなおかっぱ頭だったから違う。


 小さな顔にその眼鏡は少し大きすぎる気がしたが、女学生のようにおさげにした彼女には良く似合っていた。

 彼女は可愛らしい洋装の服を着こなしているが顔立ちも髪や目の色も間違いなく日本人だ。


 ふっくらとした頬を少し持ち上げて笑ったようだった。


 知らない女性なのに何故そんな顔をするのか。

 分からなくて。


 興味が湧いた。


 足音が遠ざかっているのは分かっていたけれど問わずにはおられなかった。

 知りたくなったのだ。


 彼女のことが。


 ああ。

 きみはどこからきて、どこへゆくのか。


 ああ。

 教えて欲しい。


 ――きみはだあれ?




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