わたしはだあれ?
お許しの言葉をいただいたので「ありがとうございます!」と頭を下げ、さっそく目を閉じて意識を集中させる。
幸広さんを追って遠い地へと旅立った白はまだ帰ってくる気配が無い。
まだ見つけられないのか、それとも連れてくることを了承してもらえないのか。
どっちだろう?
子どもの頃から語り部候補の一人として育った幸広さんになら白の言葉が理解できるのかもしれないけど、もしかしたら私と同じで聞こえないことだってあり得るし。
だとしたら合流した方が良いはず。
絆を結んだ相手なら比較的簡単に繋がれると思うので、精神を濁らせないようにしながら白の顔を頭に描きながら名を呼んだ。
左右の眉の間にピリッとした刺激を感じ、するりと銀色の糸が確かに結ばれる。
糸はやがて太くなり、道となって目の前に広がった。
輝く道の遥か先に白の姿が見えて手を伸ばす。
白も私に気づいている。
青い瞳が強く瞬いて導いてくれた。
海を越え、幾つもの島の上を通過して降り立った先は鬱蒼と草木が生い茂るジャングルの中だった。
ひらりと身を翻して駆け寄ってきた白の頭を撫で『幸広さんを見つけられた?』って聞くと申し訳なさそうに鼻先を下へ向けて上目遣いをする。
――否
端的に帰ってきた声にびっくりしてまじまじと白を見つめると、顔を動かして止まってしまった手のひらに頭を擦りつけてきた。
――残念ながらここでのみ声が届くようだ
『じゃあ戻ったらもう白とはお喋りできない?』
――是
そうか。
残念。
そういえば芙美さんや信和さんとも現実では会話できなかったけど、二人の中へ入れてもらった時にはちゃんとお喋りできてたから。
同じ原理なのかも。
『幸広さんの匂いが分からないの?』
――否、相手が不規則に移動しているため予測がつかぬ
なるほど。
匂いは感知できるけど、どこに現れるのか分からないから追うのが難しいってことか。
『追えないなら呼んだらいいんじゃない?』
――可能ならば
白の瞳ができるか?って聞いてくる。
期待も疑いもない。
純粋な問いかけだったから私は素直にやってみるって答えられた。
深呼吸をしてから顔を巡らせ、重なる幹の向こうに目を凝らす。
頭上のかなり高い位置にまで伸びた樹木は多分三十メートルを越している。
その枝葉が屋根みたいになっていて太陽が出ているのに少し薄暗い。
幸広さんは近くにいるのか。
それとも遠くにいるのか。
もしかしたらそこの藪から突然出てくる可能性もある。
私はまつみさんの家で見た遺影の幸広さんを思い出す。
飾らない笑顔の素朴な青年の顔。
幸広さん。
そしてヘルメットを被り銃と荷物を担いで行軍する後ろ姿はひょろりと痩せていて。
日に焼けた肌に白い歯の少しあどけない仕草でこっちを窺った彼は離れていく隊列を追いかけて行ってしまった。
幸広さん。
戦争は終わったんですよ。
だから帰りましょう。
龍姫さまが待ってます。
愛しい語り部が戻ってくるのを。
ゆきひろさ――最後の一音を発する前にザッザッと複数の足音が聞こえてきた。
『来た!どこ!?』
忙しなく視線を動かして見える範囲を一生懸命に探す。
白がぴゅっと走り出し、藪を飛び超えて幹の間を縫うように進んでいく。
その目指す先に一列に並んだ八つの人影があった。
私も後を追って急ぐけど、白の速度についていけるわけがない。
それでも肉体がないから躓いて転ぶこともないし、木にぶつかることを心配しないでもいいから楽だ。
目指す先をじっと見つめてただそこへと向かうことを念じていればいいんだから。
『白、お願い!引き留めて!』
――心得た
後ろ足で蹴り上げた後グンッと体を伸ばして駆け、白は最後尾の男性の前に見事に着地した。
突然現れた白銀の狼に虚をつかれて後退しながらも、遅れている自分に気づかずに一定の速度で歩いて行く仲間の背中を追おうと諦めていないのか隙を窺っているのが分かる。
急がないと行ってしまいそうで手を伸ばした。
『お願い、待って!』
指先に固い綿の生地が触れたのをぎゅっと握りしめる。
強く引き、もう片方の手も使ってしがみつく。
――きみは
驚いた声が「日本人か?」と続けて。
――どうして女性が、そうだ、女性がこんな所にいては危ない
最初は不思議がっていたけど途中で我に返ったのか。
私を背中に庇うようにして周りを注意深く見まわし始める。
――見つかれば慰みものにされてしまう
どこか隠れる場所を。
どこか安全な場所へ。
仲間に置いて行かれていることを忘れて私の心配をしてくれる。
ああ。
なんて優しいんだろう。
間違いない。
まつみさんから聞いた通りの人だ。
『幸広さん、ですよね?』
呼びかけると背中が、肩が、強張ったのが分かる。
そのまま固まったように動かなくなったので、もしかして人違いだろうかと不安になり出した頃。
ヘルメットの後頭部が横を向き、そして小さなツバが作る濃い影の下から二つの黒い瞳が私を見た。
得体の知れない相手に対しての恐怖と動揺で奥二重の目を大きく見開いている。
低くても形の良い鼻。
薄くてきゅっと締まった唇。
幼さの残る輪郭に沿うヘルメットの顎紐。
ああ。
痩せて頬骨が薄らと出て、肌が荒れているけど。
写真の面影がある。
『幸広さん』
安心して息を吐いて頬を緩め見上げると、幸広さんは眉間に皺を寄せて私から離れようとした。
掴んでいた服が指を擦り抜けて行きそうになって慌てて握りなおす。
――きみはだれ?
自分の知る人の中にきみはいないと告げられて焦る。
『私はあなたを迎えに来たんです。戦争はずっと前に終わりました』
――終わった?
そんなわけがないと目を尖らせて首を振る幸広さんに信じてもらうのはきっと難しい。
疑いの眼差しにさらされても、逃げることはできないことを自分に言い聞かせる。
『はい。幸広さんは出征前に龍姫さまに願ったことを覚えてますか?』
――なぜ、それを
知っているのは願った本人とそれを聞き遂げた龍姫さまのみ。
どうやって秘密を知ったのかと怯え、憤る色が顔に浮かんだ。
『幸広さんが戦争へと行ってから七十四年が経ったんです。その間ずっと龍姫さまは幸広さんの願いを叶え続けました。でも時を止める続けることは龍神である龍姫さまにも負担が大きくて』
流れた年月の長さを実感できない幸広さんはそれでも七十四年間も時を止め続けていることの不自然さと危うさに気づいて短く息を飲んだ。
『幸広さんは天音さまをご存知ですか?』
――いいや
まさか龍姫さまの対になる存在である天音さまを知らないなんてと慌てたけど、もしかしたら名前を知らないのかもしれないと思って言い換えてみる。
『ええっと、商店街の妖のみなさんは山の姫とか妹姫って呼んでいるみたいなんですけど』
恐る恐る反応を窺うと「ああ」と頷いてくれた。
――千秋寺の奥の院にいらっしゃるお方のことか
『良かった。そうです。その方のことです』
実はと続けて私は自分が千秋寺にお世話になっていること。
そして命が危うくなって天音さまに助けを求めたことを伝えた。
幸広さんにしたらどうしてそんなことを聞かされているのかと不愉快に思ったかもしれない。
でも本題はここからだ。
『実は、時間を留めておくことで随分と力を吸い取られ続けて無理がかかっていたらしく、天音さまが支えることでなんとか均衡を保っていた状況で私が遠い場所へと呼んでしまって』
意識だけの存在なのに喉の奥がカラカラに乾いているような違和感があって、唾液を求めるように口を閉じるけどやっぱり出てこない。
苦しいのはきっと自分の落ち度が招いたできごとを口にするのが怖いからで。
時間が惜しいのにこの期に及んで逃げたいなんて深層心理で思っている自分に呆れる。
『一気に妖力を奪われてしまい、今とても危うい状況になっています』
そんな中でも龍姫さまは幸広さんと七十四年ぶりに会えるのを待っているから。
『護られていた商店街の綻びは日に日に大きくなっていて、千秋寺にも繋がっている龍神池の湧き水も昨日枯れてしまったし、龍神池の水も異臭がするほど淀んで。でも、龍姫さまは弱っていても幸広さんとの約束を守って時を止め続けているんです』
愛するこの町が戦火で焼け野原にならないように守って欲しい。
帰って来るまでこの町が今と変わらない姿で在りますように――って、その約束を。
『死ぬと分かっていて語り部を送り出すしかならなかったことを悔やんで、力が及ばなかったと責めて、痛みと悲しみを抱えながら、その命を救えないのならせめて望みを叶えてやりたいって』
そんな無茶な願いですら全力で受け止めた龍姫さま。
『お願いごとをした人にしかそれを取り消すことはできないそうです』
奥歯を噛みしめたのか幸広さんの顎が強張って、それを隠すように視線を下げられた。
故郷の変わらぬ姿とみんなの安全を願ったために守護神である龍姫さまを苦しめることになったことを知らされて心がざわついているんだろう。
『龍姫さまが弱った原因は私にあります』
幸広さんの袖を掴んだ手を無自覚のまま引っ張っていて、彼の目が私の指先をじっと見つめた。
引き結ばれた唇は語ることを畏れるように固く動かない。
『だから私は私の責任を果たしに来ました。このまま龍姫さまが道を外して妖魔化するのを黙って見ていることはできないし、天音さまがお姉さんと戦うことになるのをどうしても止めたいから』
お願いしますって心の中で手を合わせる。
必死に。
どうか伝われって。
『幸広さんにもできれば語り部としての責任を果たして欲しいんです』
はっと顔を上げた幸広さんは泣きそうに眉を下げていて、震えを抑えられずに唇がわなわなと揺らいでいた。
『龍姫さまはずっとあなたの帰りを待っていてくれてます。一緒に来てくれますよね?』
――ああ
息を吐きだすように漏れた声はたくさんの感情が溢れていた。
私は彼の腕を取って「じゃあ行きましょう」と笑いかけ、そのまま白が導くままに行こうとしたんだけど。
寸前で私の手を振り払い、二歩三歩と後退した。
え?え?
ちょっと待って!?
『幸広さん、どうして!?』
彼は「ごめん」と謝り、泣きながら一緒には行けないと首を振る。
まさかここで拒絶されるとは思っていなかったから言葉が足らなかっただろうか?とか、一方的過ぎて誠意が見えなかっただろうか?とかなにを失敗したのかってグルグルと頭の中で回ったけど。
当然分からなくて。
私も涙ぐみながら必死で幸広さんを見つめるとクシャリと顔を歪めてもう一度ごめんって謝った。
――共に戦い、生き抜いてきた仲間を置いて自分だけ行くなどできない
『でも、今から追いかけてもどこにいるかなんて分からないのに』
妖である白でも難しいことを幸広さんができるとは思えなかった。
――大丈夫いつかは追いつく
『でもそれじゃ龍姫さまは』
どうなるの?
どうすればいいの?
――他の語り部に願いを重ねて相殺してもらうことはできないかな?
『え?』
――不可能ではないはずだよ
確かにできないことはないかもしれないけど。
でもそれでは龍姫さまは幸広さんに会えないままになる。
『だめです』
――なぜ?
涙で濡れた頬を持ち上げて微笑んでいる幸広さんは聞き分けのない子どもを相手にしているかのように優しく問いかけてくる。
なぜって。
ここは感情論じゃいけない気がして私は必死でダメな理由を考える。
うんうん唸ってこれじゃない、あれでもないって頭の中を掻き回してふっと心に引っかかったのは真希子さんから教えてもらった言葉だった。
『お願いごとをしたらちゃんと願解きをしないと神さまはずっと叶えようとするし、願いが叶うまで自分の足を剣で突き刺したままで耐える仏さまもいるんだそうです。龍姫さまも天音さまもとっても優しいから最後まで力になろうって頑張る方たちなので』
そんなこと幸広さんの方が知っているはずだ。
『きっと相反する願いごとは更に苦しめることにしかならないと思います』
――そうか
『分かっていただけましたか?龍姫さまが待っているのはあなたなんです』
幸広さんじゃないと意味がないんだから。
『一緒に来てください』
空いた距離を体を投げ出すようにして詰めれば、彼はひらりとそれを躱して背を向け走り出す。
『白!』
呼びかけに素早く応えた白は空中でくるりと反転すると急降下して幸広さんの眼前に迫った。
前はダメだと横へと逃げた幸広さんを私が体当たりで止めようとして。
『え?あ、れ?』
前へと出した手はするりと空を掻き、頭から幸広さんの背中へと突っ込んで――それもすり抜けた――私を見下ろす彼の驚いた顔を横目で見ながら地面へと倒れ込んだ。
痛みはない。
痛みはないけど体の内側が熱くて堪らなくなる。
湿った土の感触や匂いが生々しくて息苦しい。
厚く太陽を遮る木々の影が濃く落ちて視界を陰らせているのも妙にリアルで。
これは違う。
これは私じゃない。
これは。
この感覚は――。
ぐるりと裏返る。
光と闇と。
人物が。
くるりくるりと入れ替わって。
ああ
わたしは
だあれ?




