ドライアド
急な石段を登り終え山門を潜ると本堂の階段のところに立ち姿の凛としたほっそりとした女性がいるのに気づいて私の落ち込んだ気持ちは一気にふわりと浮き上がった。
腰まで届く長い黒髪は項でひとつに結んでいるだけなのに、まるで天使の輪のように艶やかに光を弾いている髪はそれだけでなんとも神々しく尊い感じがする。
眩しいほどに白いシャツの背中に透ける肌の色。
美しい脚を包む黒いスキニー。
動きやすさを重視しているのか、前屈みになってオフホワイトのスニーカーを履こうとしているお姉さんの綺麗な横顔を見ているだけで胸が高鳴った。
今日はお花屋さんのエプロンを着けていないけど。
お休みなのかな?
でも配達以外でお姉さんが千秋寺に来るなんて珍しいし、どんな用事があってきたのかも興味がある。
それに久しぶりに会えたんだからぜひご挨拶したい。
「あの!」
駆け足で近づいて、足音に気づいたお姉さんがふと視線をこちらへと向ける。
青い瞳が真っ直ぐに私を見てほんの少しだけ細められた。
「ああ、紬さん」
「ふぁ、ああいい!」
名前を呼ばれて覚えていてくれたんだとびっくりして、それから嬉しくてドキドキが止まらないんだけどどうしたらいいですか?
胸を抑えて乱れた心臓の音と呼吸を整えているとお姉さんは靴を履き終えたのか靴先をとんとんっと石畳の上でリズミカルに叩いてから少し離れた場所で止まっている私の前まで歩いて来てくれた。
「どうかしたのか?顔が赤い。怪我をしたと聞いたがまだ本調子ではないんじゃないのか?」
「ええ!?怪我はあれです!すぐに天音さまが治してくださったのでもうぴんぴんしてますとも!」
赤いのは心配したお姉さんが顔を覗き込んできたからです。
美形のアップを間近で見てただ興奮しているだけですから。
どうぞお気になさらず。
「あの、そしてどうか、あまり見ないでください」
「なぜだ?」
「なぜって、あの、その、恥ずかしいので」
胸から頬に手を移動させて後退さるとお姉さんは首を傾げながら「女同士なのにおかしなことを」と苦笑いする。
「そうですね。おかしいですよね……あはは」
笑って誤魔化しながら眼鏡の蔓を擦り、自分はどうしてこう挙動がおかしくなるんだろうかと反省した。
思えば初めてお姉さんと会った時もちゃんとした受け答えができていたかどうか怪しい感じがするんだけど。
まずは伝えなくちゃいけないことがある。
「私、お姉さんに謝らなくてはいけないことがありまして」
「謝らなくてはならないこと?」
長いまつ毛を揺らし、なにも心当たりがないと怪訝そうな顔をしているお姉さんに頭を下げた。
「教えていただいた電話番号。実は登録する前に取り上げられてしまいまして。連絡しようにもできなくて。本当に申し訳ありませんでした!」
あの時は仕事をお休みさせてもらっていた時だったから、高橋先輩からだけじゃなくて会社からも着信が入っていたり――出ることはできなかったけど――家からも電話がかかっていたりでお姉さんの番号消えちゃってたんだよね。
お前が知りたがったからせっかく教えたのになんなんだって気分悪くしてたらなぁと思うと謝りたくて。
もちろん。
お姉さんがそんな些細なことで怒るような人じゃないって十分分かっちゃいるんだけど。
「なんだ。そんなこと」
気にしなくてもいいと落ち着いた声が降ってきた。
「しかし携帯を取り上げるとはどんな権限があってそんなひどい仕打ちをするんだ。常々思っていたが、あの男のやり方は非常識で理不尽すぎる」
お姉さんは普段抑揚の少ない喋り方をするのに、常々の辺りから妙に力が籠っていて相当宗春さんへの不満が溜められているのが伝わってきて慌てて頭を上げる。
「いや!あの、それはですね!宗春さんなりに私を案じてくれた上での行動だったので、どうか怒らないでやってください!」
「あの男があなたを案じて?」
まさかそんなことがあるわけがないとお姉さんの二つの眼が不審げに底光りした。
ちょ。
宗春さん。
お姉さんになにをしたの!?
冷や汗をだらだらと垂らしながら私は必死で没収された理由を説明するとお姉さんは疑わしそうだったけど「そういうことなら」と一応は納得してくれた。
ホッ。
汗を拭って安心しているとお姉さんがなぜだかまたグッと近づいて来て悲鳴を上げそうになったので奥歯を噛みしめて堪えたんだけど。
なになになに!?
いきなり両肩に手を置かれて顔を上から見下ろされているこのシチュエーションはなんなんですか!
「あああの、あの、おねぇさぁん!?」
一体なにをしたいのか教えていただけると助かります。
主に私の激しく暴れ回る心臓とか、固まってしまって動けない私の体とか、私の顔が熱くて脂汗が出てくるってとことか。
「すまない。こうしておかないと逃げられそうな気がして」
「に、逃げませんからっ」
どうか離れてください。
なんかすごく清潔そうな良い香りがしてクラクラするんですよう。
「私の精神衛生上よろしくありませんので」
「分かった」
そういって離れてくれたんだけど、お姉さんの不思議な瞳はずっと私を見つめたまま。
始終落ち着かないけど目を逸らすことはどうにも躊躇われて、にらめっこでもしているのかってくらいにお互い動かない。
ええと。
これなんなんだろ?
私、試されてる?
「お姉さん?なにかいいたいことでもおありですか?」
「ああ、ある」
それなら早くいって楽にしてください。
さあ!さあ!
ぐっと両拳を握って目で訴えるとお姉さんは目を伏せてほんの少し目元を赤らめる。
「紬さんにお礼をいわねばならない」
「へあ?お礼……ですか?」
私さんざんご迷惑というか醜態を晒しているだけな気がするんだけど、お姉さんにお礼をいってもらえるような良いことなんてしたかな?
うう~ん。
全くなにもしてないんだけど。
「多恵をここへ連れてきてくれたのはあなただと聞いた」
「え?多恵さん?」
ああ、そうか。
お姉さんは多恵さんの代わりに語り部を引き受けたんだった。
もしかしたら今日は多恵さんに会いに来たのかもしれない。
「座らないか?」
お姉さんは階段に腰かけて私に隣に座って欲しいって誘ってくれたのでその場所に腰をおろす。
「多恵の子どもの父親はドライアドだ」
「ドライアド?」
「知らないか?木の精霊のことをそう呼ぶ」
「そうなんですね。勉強になります」
千秋寺の書庫の本には精霊や妖精についても書かれていたけど、私がまず優先的に調べて学んでいるのは妖についてだから不勉強なのは本当に申し訳ない。
お姉さんは逆に妖精や精霊のことには詳しいけど、妖については自信が無いからお互いさまだって小さく微笑んでくれた。
「相手がドライアドであることが多恵にとって、子どもにとっても難しい状況になっている」
多恵さんの愛する相手はどうやら自らの魂が宿る木の根が張っている範囲の場所でしか人の姿を取ることができないそうで、働くこともままならずに生活の基盤を維持することすら苦しいらしい。
そもそも戸籍がないらしく、婚姻届を出せないまま生れた子どもは当然私生児扱いになる。
どんな方法で多恵さんが出産までの生活費と出産費用を捻出したのか分からないけど、並々ならない苦労をしたのは間違いない。
「母乳で育てていた時はまだ良かったらしい。多恵は変わらず語り部として龍神池の主の籠を受けていたから」
多恵さんの母乳を飲むことで子どもも恩恵を受けていたということらしくて。
「働くために保育園へと預ける段階で母乳からミルクへ切り替えた所で子どもの成長が止まった」
「え?」
普通赤ちゃんって一日一日成長が見えるほど変わっていくものなのに。
それが止まるなんてすごい恐怖でしかなかっただろう。
「慌てて母乳に戻したが、それでは保育園に預けられず父親に面倒を任せて短時間のバイトやパートを複数掛け持ちして働いたらしい」
「そんな無茶ですよ」
「そうだ」
無理が祟って。
「多恵は倒れた。母乳も出なくなり、子どもも衰弱していき、これ以上はどうしようもなくなって家に戻ろうと決意した矢先に」
お父さんが亡くなってしまった。
なんて最悪なタイミングだろう。
頑張るだけ頑張ってボロボロになった多恵さんがやっと家族に頼ろうって思えたのに。
それだけじゃない。
「私が天音さまに助けを求めたせいで、龍姫さままで」
ああ。
これは恨まれても仕方がないよ。
よくそんな相手である私について千秋寺に来るっていう決意をしてくれたと思う。
きっと赤ちゃんのためだろうけど。
「多恵さんはすごいお母さんですね」
「そうだな」
お姉さんは溜息をついて物憂げに視線を上げる。
海の青をしている瞳が雲の多くなってきた薄灰色の空を映していて。
その横顔を見ながら私は痛む胸を抱えてなにもできないでいた。
ゆったりと流れる空気を吸って、お姉さんがこっちを向いた。
「すごいのはあなただ」
青い瞳が私を見ていなかったらその言葉はすっと耳を通り抜けて消えてしまっていた。
温度も抑揚もない。
お姉さんの声にはただ凪いだような静かな思いだけが乗っていたから。
「えっと、それをいうならお姉さんだって語り部を引き受けてすごいですよ」
いくら働いているお店がある土地だからって、重大な役目を代わりになんてそうそうできない。
お姉さんが色んなものが見えたり、聞こえたりする力があったからとはいえ。
私だったら――。
「同じ立場だったらきっとあなたも引き受けるだろうに。変なことを」
「え?そんな。私は引き受けませんよ」
ぶんぶんっと首を振るとお姉さんはふわりと微笑んだ。
「いいや。必ず受ける。今回の件もあなたが責任を取る必要などなかったのに自分からやるといったんだろう?」
「だって私が悪いんです。だから責任を取るのは当然で」
「あなたは嵌められたんだと聞いたが」
「それも私が利用しても良いっていったからで」
だから自業自得なんだよ。
お姉さんみたいに善意だけで大変な役割を受け入れることなんて私にはできない。
「あなたは妖と共に在ることを望んでいると聞いた。ならば語り部の役を断る理由などないはずだ」
ええっと。
それはそうなんですが。
「私は私の意思で彼らと親睦を深めつつ折り合いや距離感とかを探りたいので、誰かのためとかそんな大それたこと考えていないというか、そんな大役を『やらないか』と聞かれたら裸足で一目散に逃げ出したくなっちゃうんですよ」
妖と人との間を取り持つなんてお仕事はできればやりたくない。
そんな責任重大なことはごめんなさいって全力で辞退させてもらう。
「だからお姉さんはすごいんです」
「意外と頑固だな」
「はい。頑固です」
お姉さんは諦めたように肩を竦めて今度は足元を見て「家付き妖精はどうしたんだ?」って聞いてきた。
妖精さんたちは千秋寺には入れないので階段の下で待っている――っていいたかったけど、あの愛しい毛むくじゃらの小人さんたちはおじいちゃんの家に置いて来てしまったからこっちにはいない。
「元々おじいちゃんの家に憑いていた子たちだったらしくて。先週バタバタしてこっちに戻ってきちゃったので私が迎えに行くまでは向こうにいます」
「そうか。寂しいだろう?」
「はい。とっても」
お姉さんの言葉に力強く頷くと白が鼻を鳴らして私の膝に顔を乗せて上目遣いをする。
甘えたような表情にクラクラとしながら思わず頭を撫でると隣から興味深そうな顔でお姉さんが覗きこんできた。
「これがあなたと絆を結んだ妖か」
「はい。白っていいます」
「そうか。白。紬さんをしっかり守るんだぞ」
「ガウッ!」
「ああ。そうだな。期待している」
私とは違いお姉さんには白がなにをいっているのか分かるみたいでちょっとモヤモヤする。
やっぱり声が聞こえた方が便利だし、楽しそうだからそういう修行があるかどうか聞いてみよう。
うん。
そんな邪な思いを抱いている私にお姉さんは神妙な顔でスッとお辞儀をした。
「微力だが多恵と二人で語り部として神を鎮める舞を務めさせてもらうことになった」
「え?お姉さんと多恵さんが?」
なんで?と声に出さなくても顔に出てしまっていたらしい。
お姉さんは「語り部だから当然だ」と答えて立ち上がる。
「物心つく前から光と闇の中に、そして花や木々、大地、水、風や火の中の様々な所に息づき輝くものや彷徨うものたちが見えていたが」
それはただ見えていただけで多少の交流はできていても自分にはできることがほとんどなかったのだとお姉さんは呟く。
「ずっと悔しい思いをしていた。この力が、この瞳がなにかの助けになると信じたくて望んだ。自分にもなにかを持たせて欲しいと」
そうして代理としてだけど語り部としての役目を持たせてもらったから。
龍姫さまや商店街のために働きたいって目の前にある景色を優しく抱きしめるように細く長い腕を広げて。
「共に守ろう」
お姉さんの言葉に私は力強く頷いてから「はい」って返した。




