どら焼き
「今から商店街の山本青果店に行ってそこのまつみさんって女性に会って来てくれる?」
朝食の後に宗春さんが突然居間に現れてそんなことをいうのでびっくりしつつも、このタイミングで会って来いというんだから無関係の相手ではないし必要なことなんだということは分かるので頷いた。
ただ問題は。
「私ひとりでですか?」
初めましてなのにいきなり会いに行くだけの度胸はさすがにないんだけど。
宗春さんは片方の眉だけ上げて冷たい微笑みを浮かべる。
「僕たちは忙しいんだけど。まあ、紬が準備もせずに気の触れかけた池の主と対峙する方が良いっていうのならそれでもいいけどね」
毎度のことだけどどうしてそんなに嫌な言い方ができるんだろう。
そしてこうなると私が口にできる言葉は限られてくる。
「分かりました。ひとりで行ってきます」
「うん。そうしてくれる?あちらには訪問する旨と内容はちゃんと説明しておいたから紬は行くだけでいいから」
「じゃあ」ってそのまま行ってしまいそうな宗春さんの服の裾を慌てて掴んで引き留めると、まだなにかあるのかって表情で見下ろされたんだけど。
もちろんまだなにかありますから!
だって。
説明が少なすぎる!
「私はそのまつみさんって方とお会いしてなにをすればいいんですか?」
まさか会ってお話を聞くだけで良いわけじゃないだろう。
説明する時間も惜しいってくらい忙しいのなら準備のお手伝いは少しは私にもできるはずだから、わざわざ人手を外へと出す意味はないわけで。
もしかしたら邪魔だから余所に行ってて欲しいってことかもしれないけど。
もしそうならちょっとへこむなぁ。
きっと違うって信じたかったので知らず内に服を引っ張ってしまったようで首が締まって顔を顰められた。
ごめん。
宗春さん。
「とりあえず原因となった語り部について聞いてみたら?」
「ええっと、すごくざっくりとしてませんか?もっとこう具体的に教えてもらった方がお互いに時間の節約になると思うんですけど」
眉間の皺が深くなり切れ長の綺麗な瞳が少しずつ剣呑な光を強くしていく。
うう。
怖い。
「いい加減苦しいから放してくれるかな」
「あ、すみません」
ニットの首元に指を入れて苦情を申し立てられたので慌てて手を放したけど、すっかり伸びてしまったので申し訳なくて首を竦める。
宗春さんは胸の部分を正しながらまた引っ張られては困ると少し離れてから溜息をひとつ。
「力をなんとか使えるようになっただけで使いこなせるようになったとはいえない紬に技術的な話をした所でどうにもならないだろうけど、今の自分に為人を知らない人間を呼ぶことができるって思ってるんだとしたら相当の自信家か現実が見えない楽天家としかいえない」
どちらにしろ傲慢で愚かだけど。
「紬にはちょっと呆れるくらい強い感応力と共感力があるから、語り部が住んでいた家に行って縁のある人と話せばなんとなく繋がりの切っ掛けを掴んでくるかもしれないし。あわよくば縁を結べるかもだしね」
「感応力と共感力、ですか」
自分ではいまいちよく分からないけど、技術的云々よりもなんとなく感覚で今までやって来れた感じはあるしなぁ。
「とりあえず行くだけ行って、なにもなければないで対策を立てる必要があるから急いで済ませてきてくれると助かるよ」
次は引き留める隙もないほど素早く立ち去られてしまい、私は眼鏡を押し上げながら白を促して玄関へと向かった。
しかし件の語り部のお家が菊乃さんの八百屋さんだとは。
これもなにかの縁なんだろうなぁ。
店先に顔を出すと菊乃さんに玄関へと回って欲しいといわれたので、一旦小道を戻って店舗の壁と塀の間にある小さな門を開けて中へと入る。
小さな前庭に柿の木が一本植えてあり、秋にはきっと艶やかな柿色の実がたくさん生るんだろう。
その木の傍に小さな祠があってお酒やサカキが供えらえているのをみると愛されているんだなと思えて鼻の奥がつんとする。
いけない。
のんびりしている時間はないんだった。
玄関の前に立ち呼び鈴を鳴らそうとしていると向こう側に人影が見えそっと開けられる。
そこには小柄で色の白いおばあちゃんがいてにこりと笑いながら「千秋寺からお見えになったお嬢さんかね?」っと聞かれたので「そうです」と頷くとどうぞって中へと招かれた。
色が変わって端っこがささくれ立っている畳はそれでも綺麗に磨かれていて、飴色になっている敷居の溝も埃ひとつ無い。
客間は仏間と一続きになっていて年代物の座卓にセットされた座布団を「どうぞ」と勧められる前に黒く光るお仏壇の方へと顔を向けて「お参りさせてもらっても良いですか?」ってお願いした。
今年八十一歳になるまつみさんはびっくりしたように目を丸くして「へえ」と返事というよりも相槌のような声を漏らす。
「お話を伺うんですからご挨拶させてもらいたいんです」
「あれまあ。そんならどうぞ。若い娘さんに手を合わせてもらえるなんて幸せなご先祖さまたちだわ」
白い頬を持ち上げて笑いまつみさんが先に立って仏壇の前へと移動すると畳に膝を着きマッチを擦るとどこか懐かしい燐の香りが仏間に漂う。
大きな天井まで届くお仏壇の中は三段になっていて、最上段にご本尊を挟んで脇侍の掛け軸が左右に飾られている。
真ん中の段にお位牌と過去帳が祀られお仏飯やお水が供えられて、下の段に綺麗な小菊とお線香立て、お鈴と蝋燭が並んでいた。
まつみさんが蝋燭に火を灯している間に鴨居に並ぶ白黒の写真を見上げる。
白も私の足元にちょこんと腰を下ろして首を傾げつつ同じように写真を眺めていた。
遺影は四つ並んでいて白黒の写真なのはふたつだけ。
そのうちの若い方の男の人の顔はまつみさんとよく似ていて私はこの人だって確信してゆっくりと深呼吸した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
準備を終えたまつみさんがよっこらしょと立ち上がり膝を撫でながら場所を開けてくれたので変わってそこへと腰を下ろした。
赤々と燃える蝋燭からお線香へ火を移そうとすると風もないのにゆらりと揺れる。
細いお線香の先端から逃げるように火は踊り、それを追い掛けて炎の中へと差し込む。
穏やかで上品な香りが細い煙と共に香ったのを確かめてから香炉に立ててお鈴を鳴らして手を合わせ。
そっと目を閉じた。
まずはご挨拶から始めるべきかな。
ええと。
はじめまして。
私は小宮山紬と申します。
今日伺ったのは幸広さんの人柄や思い出、それから戦争に行く前や行った後のお話を聞かせていただきたいと思ってお邪魔させてもらいました。
あと。
できれば幸広さんと繋がれるといいなぁとか思っているんですが。
図々しくてすみません。
でも幸広さんのご先祖さまにも協力してもらいたくて。
このままだとこの商店街は龍神池の主である龍姫さまの守護を失ってしまいます。
私は住民でもないし、部外者かもしれません。
それでもこの商店街が好きですし、これからもここへ通って美味しいものを買ったり、食べたりしたいし、温かい人たちと仲良くしたいんです。
ああ、でも純粋な思いだけではなくてですね。
実は龍姫さまが弱ってしまった原因を作ってしまったのは私でもありまして。
そんなやつに協力はしたくないって思われてしまうのは当然なので強くお願いはできないんですが。
信用なんてできないと思います。
それでもどうか。
私に責任を取らせていただけるチャンスをください。
私にできることをどうか。
奪わないでください。
どうか、どうか――。
「そんなに熱心に拝んでもらえてありがたいけど、その辺にしてこっちいらっしゃいよ。お茶淹れてきたから」
あははっと明るい笑い声が響いて私は慌てて目を開けて振り返る。
そこにはハイビスカス柄のバンダナを巻いた人懐っこい笑顔の菊乃さんがいて、座卓の上に湯呑とお菓子が山ほど盛り付けられた木のお皿を置いていた。
「すみません」
「いいんだよ。いつもお使い頼むばっかりでゆっくり話なんかしたことないから、こうやって訪ねて来てくれて嬉しいのよ」
「このお嬢さんはあんたじゃなくてわたしに会いに来てくれたんだよ」
「はいはい。そうでしたね」
口をへの字に曲げているまつみさんのつっこみを笑って流して菊乃さんは義母にバレないようにこっそりと私にだけ舌の先を覗かせる。
声の調子が明るいのと、菊乃さんの動作に愛嬌があるので全然陰湿な感じがしない。
嫁姑の仲は悪くないんだなって分かるくらい遠慮がなくて私はなんだか羨ましくなる。
「あの、よかったら紬って呼んでください。お嬢さんじゃなくて」
「そう?じゃあお言葉に甘えて紬ちゃんって呼ばせてもらおうかな。ね?お義母さん」
「そうだね。なんだか新しい孫がひとり増えたようで嬉しいね」
「ほんと!」
まつみさんと菊乃さんが手を叩いて喜んでくれたので私はなんだかこそばゆい。
お仏壇から離れて客間へと移動すると「ほらほら食べて。これ美味しいのよ」って菊乃さんがお皿の中からどら焼きを差し出してくれる。
透明な包み紙に樺島堂という文字が印刷されているのを見て以前買って食べた栗饅頭と塩豆大福を思い出す。
「ここの和菓子美味しいですよね」
「あら?樺島堂行ったことあるの?」
「はい。お勧めしてもらって栗饅頭と塩豆大福を食べました」
「なんだい!あそこで一番美味しいのはどら焼きだよ!厚さや絶妙の焼き加減の皮に甘すぎない粒あんが挟まっている至高の一品なんだから!ほらほら食べてみない!」
菊乃さんだけじゃなくてまつみさんからも力説され、私は促されるまま包みを剥いでぱくりとどら焼きに齧り付いた。
しっとりとした生地の皮としっかりと粒と豆の味を残したあんが口の中で手を繋いで楽しそうにマイムマイムを踊っている。
ああ。
なんて美味しいんだろう。
もぐもぐと噛みしめながら食べているとあっという間に一個食べ終えてしまった。
え?
なにこれ。
すごい。
っていうか感動している場合じゃない。
私がここに来たのは美味しいお菓子をご馳走になるためじゃないんだから。
現在進行中で準備をしてくれている宗明さんや宗春さんたちをがっかりさせないためにもちゃんとお話を聞いて幸広さんと少しでもお近づきになれるように頑張らなくちゃいけないんだから。
だめだめ!
しっかりしなくちゃ!
「どうしたの?急に顔叩いたりして」
「腫れちゃうからやめなさいよ」
「いいえ!」
気合を入れるために頬を叩いていたら心配されちゃったけど私はキリリっと表情を引き締める。
「どら焼きはすっごく美味しかったんですが、私には大事な使命があるので誘惑されているわけにはいかないのです!」
本当はもう一個食べたかったけど、それは帰りに樺島堂へ行って買って帰ればいいんだから今は我慢だ。
「ぷくくっ。初めて会った時から思ってたけど紬ちゃん面白い子だね」
「誘惑されるわけにはいかないっていいながら目はどら焼き見てるんだもの」
「もう!お二人ともそこは知らないふりしておいてください!」
未練たらたらなのを指摘されて赤くなったり青くなったりしているとまつみさんが「菊乃さん悪いけどお店の方頼むわ」っていってくれたのでお嫁さんは名残惜しそうな顔をしながらもゆっくりしていってねと下がっていった。
襖がスッと閉められて、菊乃さんの足音が遠ざかっていく。
聞こえなくなってからもしばらくまつみさんは湯呑の中をじっと見つめたまま黙っていたので、私もお線香の香りを嗅ぎながら窓の外に広がる薄青い空を眺めていた。
ふと香りが動いて強く香る。
目の前に座っているまつみさんが顔を巡らせて背後の窓を向いて「この一週間夜だけじゃなく朝も昼もずっと騒々しかったから」と息を吐いた。
「あなたが来たということはわたしの兄の愚かな、でも、純粋な望みの罪を清算する時がきたんだと……そういうことなんだね?」
こちらを見ずに問われた内容にまつみさんが大体のことを知っているのだと分かり、私は「はい」とだけ答える。
「菊乃さんは裏表がなくていい嫁だけど、幸地町の生まれじゃないからね。妖怪だとか霊だとかそういうものに理解が無いんだよ」
信心深くなくて困ると愚痴りながらもそういう時代なんだろうから仕方がないけどって納得して。
「紬ちゃんは商店街の子じゃないのに、どうしてまたこんな時にこんな形で」
ふるふると首を横に振りまつみさんは色んな思いと色んな言葉を飲み込んで、年を取って少し濁った黒目を外の景色からこちらへと戻す。
「幸広兄ちゃんのことを聞きたいんだったね?」
「はい」
「幸広兄ちゃんは命を大事にする人だったよ」
軒下に巣を作った危険な蜂を駆除することにも心を痛めるほどで。
「近所の子らが面白がって行列を作る蟻を片っ端から踏み潰していれば走っていって止めさせ、群れを作っていた野犬を捕まえて処分するという話が出た時もなんとかならないかって掛け合うくらい」
「優しい人だったんですね」
「そうだね。優しかったよ。兄ちゃんとわたしは年が離れていたから特に優しくしてくれてねぇ。可愛がってもらったのを良く覚えてるよ」
うふふふっと小さな女の子が笑うように声をたててまつみさんは瞳をキラキラとさせた。
白い頬に赤みがさして私まで微笑んでしまうような笑顔だった。
「そんな幸広兄ちゃんが敵とはいえ人を殺すために戦地へと行くなんて。なんてことだろうと思った。兄ちゃんの心が、魂が死んじまうってわんわん泣いた」
わたしが泣いたところでなんにもならないんだけどってまつみさんは力の無い笑みを浮かべて仏間にかけられている遺影を見た。
襟をきっちりと閉めた白いシャツを着て純朴そうな顔立ちの幸広さんには戦争という暗く重い響きのある言葉が全然似合わなくて。
「優しかったから自分のことより自分がいなくなった後のこの町のことを案じてあんなことを」
あんなお願いをして。
「帰って来られるなんて、ちっとも思ってもいなかったくせに。バカだよ。幸広兄ちゃんは本当に」
なんてことを――と声を震わせてまつみさんは皺だらけの手で目尻を拭う。
でも幸広さんは願わずにいられなかったんだと思う。
大好きだったこの町が大好きなままの姿で在って欲しいって。
そしてできれば帰ってきてもう一度ここに住みたいって。
奇跡に縋りたかったんだろう。
自分のためにも。
家族や妖や町の人たちのためにも。
希望を持って戦地に行きたかったんだろうなって。
「兄ちゃんは南方へ送られて、碌な食べ物も武器も無く敗走に敗走を重ねて戦死したって聞いたけど本当のとこはなんも分からん。骨も遺髪もなかったから実感がないまま戦争が終わっても帰って来ないから死んだんだって思うよりほかなくて」
だからまだ信じられずにいるんだと。
「幸広兄ちゃんは南の島で生きてるんじゃないかって思うんだよ。帰りたくて、帰りたくて仕方がないのに帰り道が分からなくて、まだあそこに」
囚われているのかもしれない――というまつみさんの声が段々遠くなっていき、ザッザッという土を踏む固い足音が聞こえてくる。
暗い緑色のヘルメットを被って荷物を背負い、細長い銃を肩にかけて一列に並んで進む兵隊さんの後ろ姿が遠くに見えた。
道の無いジャングルの中を生い茂る草や枝を払いながら前進していく列の一番最後を行く痩せた男性が足を止めてこっちを振り返る。
遠すぎて顔立ちやどんな表情を浮かべているのか判別できなかった。
でも真っ黒に日焼けした顔を傾げて唇が動くと白い歯がチラリと見えて。
――きみはだあれ
そう聞こえた気がしたけど私の耳には音として伝わってこなかったから自信はない。
答える前に彼は慌てて前を向き、離れていく隊列を追いかけて行ってしまう。
待って!と伸ばした手は苦みの中にかすかな甘みを感じさせるお線香の香りに阻まれた。
見えていた景色も瞬きの内に消えて。
私はまつみさんと向き合って座っている和室へと戻ってきていた。
あの人は。
幸広さんだったのかな?
繋がれたのかな?
幸広さんと縁を結べたって思ってもいいの?
分からない。
分からないけど。
私はやらなくちゃいけない。
最後にもう一度お仏壇に手を合わせてまつみさんに今日のお礼を述べてから玄関から出て菊乃さんにご挨拶するためにお店の方へと回る。
「ああ、もう帰っちゃうの?」
「はい。お邪魔しました」
「ゆっくりしていけばいいのに」
お客が来ないからか菊乃さんは奥の方で丸ストーブの前に座っていた。
ストーブの上には大きな薬缶が乗っていて温かな湯気をしゅんしゅんっという音をたてている。
手のひらを合わせて擦りながら立ち上がり、菊乃さんは店先まで出てきてくれた。
「今度また遊びに来ます」
「そうかい?約束だよ?」
どこか不安そうな顔で念を押してくる菊乃さんに笑って「はい」と頷いたんだけど浮かない表情は消えなくて。
私の笑顔もしおしおしお~って萎れてしまう。
「あの、どうかしたんですか?」
さばさばした口調とカラッと明るい笑顔でお客さんや私に接してくれていた菊乃さんしか知らないから、なんだか悲しくなってくる。
一歩近づいて理由を問うと菊乃さんは困ったように眉を寄せて二色の四角いタイルが敷き詰められている通りをぼんやりと眺めた。
「う~ん。どうかしたのかって聞かれると、なにもって感じなんだけどね」
なんか。
「いつもと違うんだよ。お客さんも少ないし、歩いている人も少なくて。それにピリピリしてないかい?」
空気が。
商店街が。
そういってぶるっと震えた菊乃さんはなにも知らないはずなのに的確に異常を感じているようだった。
不思議だな。
クリスマスカラーに包まれ、クリスマスソングが流れている商店街は本当なら楽しく浮き立つような空気に満ちているはずなのに。
菊乃さんの指摘通りパーティー用のお買い物をしている人の姿も数えるくらいしかいないし、みんな寒さを理由に顔を顰めて足早に歩いて行く。
きっといつもなら笑って立ち話をする人たちも視線を落として笑顔さえも見せないでいる。
今まで止められていた時という流れが一気に商店街へと押し寄せて、壊れないように大切に包んでいた膜を時代遅れだと強引に剥がして色褪せたものに変えていくかのようで。
「そうですね」
理由の分からない不安を抱えている菊乃さんの憂いをはらえるような言葉を必死で探しながら私は瞬きをする。
「みんなクリスマスの準備に忙しいんじゃないんですか?」
「そうかね?」
「そうですよ」
少し強い声で言い切ると菊乃さんは眉を下げつつもほっとしたように笑ってくれた。
「そうだね。きっとみんな忙しいから」
「はい」
「おお寒い。風邪引いちゃいそうだ」
冷たく乾燥した風がぴゅっと吹き抜けて菊乃さんが身を竦ませる。
二の腕を頻りに擦りながらストーブを恋しそうに見て「風邪引かないように真っ直ぐ帰るんだよ?」といいながら体はそちらへと向かって行く。
「はい。菊乃さんも」
「ありがとよ」
菊乃さんに手を振って別れ、顔を上げると通りの向こうに立っていた百花ちゃんと目が合った。
そういえば八百屋さんの正面のお店は居酒屋狛井だったなと思い出してぺこりと会釈すると、まん丸くて大きな瞳を鋭くして百花ちゃんはぷいっと顔を背けお店の戸を開けて中へと入っていく。
ピシャッと音が聞こえるくらいに勢いよく閉められた戸にびっくりしつつ、百花ちゃんを怒らせるようなことをしたかなぁと落ち込んだ。
「キュウゥウン」
すかさず白が身を寄せてきて遠慮がちに尻尾を振りながらペロリと手の甲を舐めてくる。
そして速く帰ろうと袖を咥えて引っ張るのでトボトボと小道へと向かった。




