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目覚め



 障子を閉める時に部屋の中の空気が外へと押し出される気配で目が覚めた。


 瞼の裏から伝わる熱で眼の表面まで熱いのに、涙がその上に浮かんでいて目尻に溜まっていた雫を零しながらこじ開けると薄暗い天井がぼんやりと見えた。


 はっと息を飲む音がしてそちらへと顔を向けると黒い衣を着た宗明さんが立っていた。

 眼鏡をかけていないのでどんな表情をしているかは分からないけど、戸惑うように立ち尽くしている宗明さんに口の端を持ち上げて笑いかける。


 吸ったまま止めていた呼吸を再開して部屋の灯りを点けると、宗明さんが枕元へと移動してきた。


「起こしてしまいましたか」


 すみませんと謝り膝を着いた宗明さん首を振ると水を薦められたのでおとなしく頷く。


 もぞもぞと起き上がりペットボトルからコップに移し換えた水を受け取って、その冷たさを手のひらで感じながら一口飲んだ。


 喉の奥を通り抜ける甘く柔らかな香りが美味しく、カラカラに乾いていた場所を潤してくれて胃の中に届くまでついじっと追いかけてしまう。


 名残惜しくてもう一度口に含んだらもう我慢できなくて。


 飲み干しそうな勢いでコップを傾ける私の腕を遠慮がちに押さえて宗明さんが止めた。


「どうぞ。ゆっくり飲んでください。胃の腑が驚いてしまいますから」

「すみません」

「どこか痛む所はありませんか」


 そう問われてコップを手に違和感が無いかを身じろぎして探してみる。

 怠さや節々の痛みが少しあるけど、多分高熱が原因だろうから問題ないはず。


 ありがたいことに一番痛かったはずの右の肩と腕はこうしてコップを持っても平気だし、圧迫されてミシミシいってた背骨や肋骨もなんともない。


「大丈夫そうです」


 眠ったことで頭痛や吐き気も無くなってるし、後は熱が下がれば動けるようになると思う。


「それはなによりです」


 息を抜くようにして微笑んだ宗明さんが枕の上の氷枕をおろし、新しいのと取り換えてくれたのでぺこりと頭を下げる。


「すみま」

「生きて帰って来てくれてよかった」

「え?」


 謝る言葉に宗明さんの声が被り、私はきょとんと彼を見つめ返した。

 そうすると温くなった氷枕を膝の上に置いた宗明さんも静かにこっちを見たので自然と見つめ合うような形になってしまい焦る。


「ええっと」


 細かい所まで見えなくてもばっちり視線は感じるし、この距離だったらなんとなく表情は分かるわけで。


「紬さん」

「ふぁい!?」


 呼びかけられて布団の上で飛び上がる私の手から空っぽのコップをそっと取り「もう少し飲みますか?」と聞いてくるのであわあわしながらお代わりをお願いした。


 でもお蔭で宗明さんの視線は水を注ぐ手元へと移ったのでほっと胸を撫で下ろす。

 そのままお腹の上で手を止めてふっと思い出した。


 淡いピンクと紫の古布でできたお守りのことを。


「宗明さんのお守りに危ない所を助けてもらいました。私がこうして生きて返って来られたのは宗明さんのお蔭です」


 本当にありがとうございました。


「お札もすごい効果で――ってどうしました?」


 たくさん感謝を伝えたいし、いっぱい宗明さんのすごさを表したかったのに。


 なんだかどんどん険しい顔というか雰囲気を漂わせてきたので何事だろうかと怯えつつ窺うと、コップもペットボトルもお盆の上に置いてこちらへ向き直りぐっと顎を引いた。


「俺は、後悔しています」

「後悔?」


 なんのだろう。


 今回の件ならおばあちゃんの家に行くって相談したのは宗春さんになんだから宗明さんは止めようもない。


 それに困った時に頼りになったのは宗明さんのお札やお守りだったわけで。


 どこにも宗明さんに落ち度はない。

 むしろ感謝しかないんだけど。


 困惑している私の耳に「初めから」という不思議な言葉が聞こえた。

 伏せていた目をチラッと上げて宗明さんは眉を寄せて苦しそうに吐き出す。


「宗春に任せず俺が紬さんの指導をしていれば」


 そんな今更どうしようもないことを。


「こうなることは予想ができたはずなのに、俺は止めもせず逃げるばかりで」

「そんな。宗明さんが私のことを思って断ってくれたのは分かってますし、それに宗春さんはちゃんと色々と教えてくれてます。今回のことは私が危機感も無くのこのことでかけたことが原因で」


 なんだかよく分からないけど宗明さんが自分を責めていて、必死であなたのせいじゃないんだと、私のせいなんだと伝えようとしたけど彼は静かに頭を横に振る。


「違います」

「なにがですか」

「宗春はあなたを利用しようとしているんです」

「え?」

「いや。正しくはその時期は過ぎ、引き返せない所まで事態は進んでしまった」


 大きなため息が部屋に落とされて、私は理解ができないまま固まるしかない。


「宗春を信じているあなたに伝えるのは心苦しいのですが、弟にとって大事なのは寺の存続と役目だけ。そのために必要ならば紬さんの命も信頼すらも利用する」

「あの。すみません。もっと分かるように教えてください」


 どういうことなのか。

 そんなに回りくどい言い方じゃ鈍い私には分からない。


「感情が高ぶりつい口が滑ってしまいました。紬さんが万全の状態の時にお話ししようと思っていたのに」

「ここまで聞いてしまったらお布団に入ってももう眠れませんけど」


 中途半端に終わらせられては困るので眼鏡に手を伸ばして抗議すると宗明さんは「修行が足りずに申し訳ない」と頭を深く下げてからコップに新しい水を注いで渡してくれた。


 そうすると喉が渇いているのを思い出してしまう現金な自分に苦笑いして。

 一口、二口と続けて飲むと宗明さんの視線が鋭くなってきたので渋々口から離して両手で包んだコップを腿の上に置いて聞く体勢になる。


 宗明さんが枕元に畳んであった深い緑色の厚手のカーディガンを取り上げて広げ「寒いでしょうから」と囁いて膝立ちになり、ふわりと私の肩にかけてくれた。


 少し前に上体が傾いて私のおでこと宗明さんの胸が触れあいそうになるくらいに近くて落ち着かない。


 明らかに熱が原因じゃない理由で頬が赤くなっているのが自分でも分かり、焦って下を向く。


 ドキドキとうるさい鼓動と脈を鎮めようとしてそっと息を吸いこめば、白檀のような香りが鼻の奥まで香って逆にくらくらしてしまった。


「大丈夫ですか?やはり熱が下がってからの方がいいのでは」

「い、いいえ。大丈夫です!」


 こんな状態では寝られるわけがない。

 それなら話を聞いた方が絶対に良い。


 「そうですか」と不思議そうにしながら宗明さんは座りなおし、必死で平静を装う私の不自然な顔を見つめながら口を開いた。


「紬さんは商店街の空気が違うことにお気づきですか?」

「空気、というか」


 商店街の周りを包む色が他と違うのは感じていたのでそう伝える。

 それから。


「結が商店街ここは時間が歪められて遅いって」


 私より余程的確に物事を見て判断できる力がある結の言葉に宗明さんはちょっと驚いたように目を瞠った後で「それならば話が速い」と頷く。


「ご指摘の通り商店街の時は池の主によって歪められ、正しい流れよりずっと遅くなってしまいました」


 まるで止まっているかのように。


「その不自然な状態は七十四年も続いています」

「ななぁ!?」


 まさかそんなに前からとは思っていなかったので変な声が出た。

 宗春さんなら絶対に見過ごさずからかったり嫌な顔するけど、人間ができている宗明さんはなにごとも無かったかのように「はい」と頷いてくれる。


 スルーされるのもそれはそれで居たたまれなくて恥ずかしいんだと学びつつお尻をもぞもぞとさせる。


「あの、どうして龍姫さまは時を止めてしまったんですか?」

「語り部の望みを叶えるためです」

「語り部の?」


 語り部って妖と人の間を繋ぐだけじゃなくて、龍姫さまに個人的なお願いができるだけの権力というか権限を持っているの?


 しかも時を止めて欲しいだなんて普通の願い事じゃない。


 宗明さんはどこか遠くを見つめながら淡々と話し始めた。

 そうじゃないと口にすることが辛いかのように。


「その語り部の名は山本幸広やまもとゆきひろさんと仰います。当時は太平洋戦争下。召集されることが決まり、彼は入営する前日に池の主の元を訪れ『愛するこの町が戦火で焼け野原にならないように守って欲しい。自分が帰って来るまでこの町が今と変わらぬ姿で在って欲しい』と望み、出征して」


 一旦言葉を切った宗明さんの顔は厳しい表情で固まり、切れ長の黒く光る瞳の奥に様々な苦さや憂いを綯交ぜにして。


 戦争も戦後も知らない平和で豊かな国に生まれた私には想像もできなくて、同情するよりも暗くて重い感情だけがお腹の真ん中に居座って苦しい。


 それだけの負の力が戦争という言葉にはある。


 そして語り部が龍姫さまに頼み、叶えられた願いが今もこの商店街を包んでいるのだとしたら結果は聞かなくても分かったけど。


 低く良く通る声で宗明さんが「彼は戦死しました」と告げる。


 龍姫さまの守護の力で戦時中は空襲による被害もほとんどなく、食べ物も懇意の妖たちが持ち寄ってくれたので余所の町よりは恵まれていたんだっていわれても、兵士として戦争に行った人たちがどんな過酷な状況と思いで戦っていたか、そして彼らの無事を祈りながら胸を痛めて帰りを待っていた人たちは――考えるだけで気が遠くなりそうだった。


「たった一瞬、一時を止めるだけならばそれほどの問題はありませんが、長く時を止めるなど到底許されるものではありません」


 それは禁忌であり、それを犯すということはそれ相応の報いを受ける。


「戦後二十年程は千秋寺も含むこの幸地町こうじまち一帯全てが守護され時の流れを緩やかに操作されていたのですが、今現在池の主の力が及ぶ場所は商店街のみとなりました」


 戦争へと向かう語り部の最後の願いを叶えた代償として龍姫さまが払ったものは自らの妖力を抑えられ、奪われていくことを享受すること。


 それでも時を完全に止めることはできないし、住む人たちの時間は外の人たちと同じように流れていく。


 龍姫さまの力は町の姿を変わらず留めておくことと、商店街の住民たちの生活が穏やかに続いて行くことにだけ使われているのだそう。


 外の世界は目まぐるしく変化し、古いものは壊され新しいもので構成されていく。

 その速さは戦後の復興期から高度成長期で加速し、時代に取り残され変わっていくことができない幸地町は平和で長閑でありながらどんどん歪になって。


 現実との乖離が大きくなればなるほど龍姫さまは時間を止めるために更に力を注がなければならなくなる。


 徐々に正常な流れに押し戻され、大切な場所を空け渡さなくちゃいけなくなったことは長く幸地町ここを護ってきた龍姫さまにとって辛かっただろう。


「でも龍姫さまには支えてくれる天音さまがいるじゃないですか」

「だからこそ七十四年も不自然な状況が続いてしまっているのです」


 天音さまの存在がなければとっくに破綻していたはずなのだと教えられ、私は背中を冷たい手のひらで撫でられたように身を震わせた。


「あの、このままの状況が続けば龍姫さまはどうなるんですか?天音さまは」


 聞くのが怖い。

 でも聞かないでいるのはもっと怖い。


 迷いや怯えは宗明さんの澄んだ瞳の前で余計に大きくなっていく。


 みんなが心配していた“いつか”。


 それは龍神池であり、そこを棲家とする守り神の龍姫さまの行く末のことで。


 ――龍神池の水が飲めなくなったら悲しいわよね。


 そういって瞳を揺らした真希子さん。


 ――今はまだ浄化の力があるけど、ここもいつまでもつか。見ものだね。


 手水舎で私の手当てをしながら他人事のように言い放った宗春さん。


 ――大事なのは止まった時が動き出したという点なのだ。時は変化を呼ぶ。そして形を変えいずれは正しき道を歩き出す。


 いつか私たちを救っておくれと天音さまがいっていた言葉が今になってじんわりと響いてくる。


「宗明さん」


 なにかいって欲しい。

 なにか。


 安心できることを。


「限界はとうに超えています。天の理を曲げ続けた龍神池の主は理性を失い、恐らく道を外すでしょう」

「そんな」


 心が受け入れられずに目から拒絶の意思が涙になって溢れた。

 ポロポロと。


 一度しか会ったことはないけど奔放で、率直で、愛嬌のある美しく妖艶な龍姫さま。


 その龍姫さまが妖魔化してしまうなんて。

 冗談じゃない。

 そんなのいやだ。


「宗明さん、なにか、なにか方法はないんですか?」


 手を伸ばして宗明さんの袖を引くと微かに眉を寄せて目を逸らされた。


「私になにかできることは――」

「紬さん」


 落ち着いてくださいと諌められても私は首を左右に振って、その揺れに目の前がぐるぐると回って顔を顰める。


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃのみっともない顔を。


「だって、だって、そんなのいや」


 龍姫さまが荒れ狂えばそれを鎮められるのは天音さましかいない。

 そして道を誤り妖魔化してしまえば天音さまは姉である龍姫さまをその手で、その力で倒さなくちゃいけなくなる。


 姉妹で死闘をしなくちゃいけないなんて。


「そんなこと絶対だめっ」

「紬さん」


 ひんやりとした宗明さんの手が肩に触れ視線を合されてもう一度「落ち着いてください」と促される。

 洟を啜り上げて唇を噛み、その目を見つめながら震える喉に力を入れてゆっくりと息を吸いこんだ。


「そうです。深呼吸して」


 途中でひくっと詰まらせつつも真摯に注がれる眼差しに励まされて吸い込んだ空気を徐々に吐いていく。


「上手です」


 吐き切った後でにこりと微笑んだ宗明さんに褒められて、またじわじわと頬に熱が集まってきた。


「す、すみません。取り乱してっ」


 慌てて掴んでいた袖を放し、手のひらと甲で涙と鼻水を拭う。


「いいえ。やはりこの話は体調が戻ってからするべきでした。熱があるのに無理をさせてしまいました」

「でも」

「いいえ。怖い思いをして心身ともに疲れているはずですから今はゆっくり休んでください」


 さあと布団の縁を叩かれて私は上着を肩からおろして簡単に畳み眼鏡と一緒に枕元に置いて横になる。

 宗明さんがそっと引き上げてくれた掛布団と毛布に潜り込む。


「それではおやすみなさい」


 そういって立ち上がった宗明さんは灯り消して足音をさせずに障子を開けて出て行く。


 宗明さんの衣が微かにたてる音が遠ざかっていくのを耳で追いかけながら目を閉じてふうっとため息を漏らし、首と頭の後ろが氷枕で冷やされた心地よさにいつしか眠ってしまった。


 たくさんの疑問や考えられる結果をちゃんと考えられないままに。



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