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夏の日の記憶と後ろの影



 シュワシュワシュワシュワ。


 頭の上から降り注ぐ蝉の声。

 木々を抜けて斜めに射し込んでくる太陽の日差し。

 地面にくっきりと影が焼き付き、白く乾燥した地面にぽたりと水滴が落ちた。


「……あつい」


 こめかみから顎の先へと伝っていく汗をぐいっと拭い、麦わら帽子を少しずらして濡れた髪が張り付く頭を掻く。


 息を吐き出すとそれすらうんざりする熱さでぎゅっと唇を結んで視線を動かした。


 山の中にある開けた場所は良い遊び場だけど影が無いので、夏の午後に山を登ってきている子どもの姿は他にはない。


 カサカサと小脇に抱えている箱の中で虫が動き回る音がしている。


 クワガタだろうか。

 それともカブトムシだろうか。


 どちらにしても子どもに人気の虫を捕まえるには暗いうちに山に入る必要があるし、この時間帯では蝉かバッタくらいしか狙えない。


 ランニングが背中に張り付く感触が気持ち悪くて身じろぎして少しでも涼しい場所を探して山道へと戻る。


 とろとろと下って行く道の途中に腰かけるのにちょうどいい石があるのを見つけ足場に気を付けながら進む。


 近づいてみると石の脇からシダの葉が勢いよく伸びていて下の方に緑の苔が密集して生えていた。

 名前も知らない白い星のような形の花が一輪咲いているのも涼しげに見える。


 ほっと力を抜いて箱を胸に抱えて石の上に座ろうとした。


 その時。

 後ろからドンッと押されて顔から思いっきり地面へと転がった。


「いたた……」


 口の中に入ってきた黴臭い土を吐き出して、痛む肘と膝を擦りながら体を起こすとひっくり返った箱の中からカブトムシのメスと小さなクワガタのオスが仰向けになって脚をじたばたさせていた。


「こりゃいかん」


 逃げられる前に箱を拾いその中にひょいひょいっと虫を入れて元の通りに蓋を閉めると急に目の前が暗くなる。


 ううん。

 目の前というより手元が。


 人の形のような大きい影が後ろから落ちている。


「あ――」


 背中を押してきたのも掌の形をしていたことを思い出し、それが大人の男の人のものよりも固くて広かったなということも気づく。

 泥だらけの右手で眼鏡の位置を直し勢いよく振り返る。


「なぁんで押すんか!」


 もちろん。

 文句を言うのも忘れずに。


「…………」

「怪我したわっ」

「…………」

「なんや。でかい図体してだんまりか。意外とたいしたことないんなぁ」


 立ち上がって怪我しているぞとアピールしても、石の前に立ちはだかる巨大な影は動かず黙っている。


 そうしていればやり過ごせると思っているかのように。


「もしかして見えん思って安心しとるんかい?」

「……!」

「わはは!残念やなぁ。しっかり見えとるわ」


 それからかけている眼鏡を指差して「これな、父ちゃんにもろうた特別なやつなん」と説明を始めると影が揺らめいてゆっくりと姿を現し始めた。


 赤い顔の中心からグイッと伸びる立派な鼻。

 厳めしい顔をしてぎょろりとこちらを見下ろす大きな眼。

 黒い法衣の首から丸いボンボンが左右二つずつ着いたものを下げ、膝の下ですぼまった形状の袴を穿いている。

 腰には毛皮を纏い、一本歯の下駄を履いた立派な天狗さまだった。


 威嚇するように持っていた錫杖を地面に打ち付けてシャランと澄んだ音を立てると天狗さまは「こういう時は見えておっても知らぬふりをするのが道理だというのに」と低く渋い声で教えてくれる。


「それじゃあ俺は怪我し損になる。それは我慢ならんわ」

「……危ういの」

「危ないのはそっちやろ。いきなり後ろから突き飛ばしといていう言葉と違う」

「山で起こる不可思議なりしことは山の神の仕業と決まっておろうが。畏怖し恐縮して己の無知と愚行を反省せよ」

「だからな。なにが悪かったんか分からんと反省しようがない」

「……愚かなり」


 天狗さまは首を大きく左右に振って体を横に向けた。

 そして石を指差し「黙って座ろうとしたな?」と確認してくる。


「うん」

「山には沢山の命が生きている。お主が座ろうとした石の下にも」

「……だから、座っちゃいかんの?」

「よくよく見るがいい」


 膝を着き大きな掌で石を軽く持ち上げるとその下にはいくつかの石が積み重なり隙間があった。

 その奥にぐるぐるととぐろを巻く蛇がいた。

 なにかを大事に抱えるかのように。


 そして異常を感じて鎌首を上げると舌を出して鋭くシャーっと喉の奥から音を出す。


「あ!卵……」

「理解したか?」

「……うん。知らないで座ったら母さん蛇がびっくりしたろうし、もしかしたら潰れてたかもしれん」

「最悪そういうこともあったかもしれぬ。お主蛇に祟られたくは無かろう?」

「そりゃ祟られたいもんなんかおらん」


 天狗さまは目元を緩めてふっと息を抜いた。

 それからそっと石を元通りに戻し、再び口を開く。


「座ることが悪いのではない。山の生き物たちのために一声かけることが大事なのだ」

「分かった。今度からはそうするわ。ありがとうな」

「…………」

「なんした?」

「危ういな」

「なにがや?」


 首を傾げて見上げると天狗さまが手を伸ばしてグイグイっと頭を撫でてきた――というか押してきた。


「いたい!いたいわっ!こちとら人なんで手加減してくれんともげるっ!」

「む?これでも強いとは……なんと脆い」

「殺す気かい!?」

「誤解だ」

「どうだかぁ」


 完全に脱げてしまった麦わら帽子を被って半歩さがると疑いの眼差しを向ける。

 天狗さまは自らの掌をしげしげと眺めて困惑気味だ。


「まあ、これで分かろう。妖と人とは相容れぬもの。分かったならばこれ以降気安く話しかけぬことだ」

「なぜ?」

「妖とは本来人を襲い災厄をもたらす怪異現象なのだ。人の理解を超えた力を持ち、生まれ方、性質どれをとっても全く異なる存在」


 風が木々の間を抜けて生温い空気を運んでくる。

 枝を揺らして葉が擦れた音がざわざわと響いて。


 いつの間にか蝉も鳴くのを止めていた。


「……俺を喰うのかい?」

「否。視えることを秘して密やかに暮らせ。決して知られるな」


 人からも。

 そして妖からも。


「あ。そりゃ無理だわ。手遅れ」

「なんと!?」

「俺の家の物の怪たちと仲良うなってしもうたし。庭の椿の精がそりゃもう別嬪でな!」

「…………」


 えへへっと笑うと天狗さまは目を見開いて。

 それから額を覆った後で「好きにするがいい」と呟いた。



 ★ ★ ★




「……け……つけ」

「んー……」

「おい、起きろ。空け!」

「ひゃい!」


 耳元で叫ばれて私は文字通り飛び起きた。

 昔ながらの傘が吊り下げられた電気の灯りの中で青い肌の小鬼が唇をへの字にして腕を組んでいる。


 一瞬これも夢の続きだろうかと目を擦っていると露草が肩を落として溜息を吐き、白がぴたりと私の身体に身を寄せてくるのでどうやらこれは現実らしい。


「……涎が出ておるぞ」

「あ!ごめん」


 慌てて口元を拭うとその部分がひんやりとする。

 夏なのになんだか寒いなって体を震わせたところで今の季節が冬であることを思い出した。

 そして自分が寝転がっていた部屋がおじいちゃんの部屋であることも。


「お腹いっぱいになって横になってたらついつい寝ちゃってた。今日は露草だけ?茜は?」

「……茜は主の元に」

「主……?」


 聞き返すと露草は一瞬黙って小さく頭を振る。

 その様子を見て白が首を傾げ青い瞳を私に向けた。


 ええっとそれはもっと食い下がって聞くべきだってことかな?


 なんかそんな気がするけど完全にタイミング逃しちゃったようで「それよりも」という言葉で露草が話を変えてきた。


寿代ひさよさんの具合はどうだ?」

「えっと……おばあちゃん?今日会ってきたけど元気そうだったよ。そういえばまだお礼を言ってなかった。ごめん」


 一番にお礼を言わなくちゃいけなかったのにすっかり寝ぼけてたみたい。

 こんな大事なこと忘れちゃうなんて。


「露草の機転のお蔭で手遅れにならずにすみました。本当にありがとうございました」


 畳の上で居ずまいを正してゆっくりと頭を下げると、胡坐をかいた露草の顔と同じ高さになる。

 その近さで「良かったな」とはにかんだように笑うので、その可愛らしさに身悶えながら抱きしめたくなる衝動と激しく戦った。


「カヨさんに聞いたよ。玄関を開けてから大きな音を出して気づいてもらったんだね」

「そうするほかあるまい」

「まあ、確かにね」


 私が聞いたんじゃなくて結がカヨさんから聞いたんだけどね。


 あの日カヨさんは雷が落ちるようなすごい音を聞いたらしい。


 しかもおばあちゃんの家から。


 空は晴れているのにおかしなことだって思いながら飛び出してきたカヨさんは、この寒いのに玄関が大きく開いている不自然さに胸騒ぎがして中まで入って確認してくれたそうだ。

 そこで台所で倒れているおばあちゃんに気づいて救急車を呼んでくれたんだよね。


「無理なことお願いしてごめんね」

「……寿代さんが無事なら別によい」


 ぷいっと横を向く露草からは照れ臭さよりも、当然のことをしただけだという固い意志のようなものを感じた。


 私のこともおじいちゃんに頼まれたから時々様子を見に来てくれていたしね。

 本当におじいちゃんのことが好きなんだな。


 我が祖父ながら妖にこれほど慕われていることが嬉しく、そして誇らしい気持ちになる。


「あのね。露草。私さっきおじいちゃんの夢を見たよ」

「総二郎の?」

「うん。でもそれは夢じゃなくておじいちゃんの記憶だと思う」


 こうやって目を閉じたら蝉の声が聞こえてくるくらいに鮮明な夢。


 纏わりつくような暑さも。

 汗の感触も。

 そして大きな影を落とす天狗さまの姿も。


「あんなにはっきり見えたってことはおじいちゃんにとってすごく大切な思い出なんだろうな」

「そうか……なにを、」


 見たのかと問う前に口を閉ざした露草の瞳には期待と不安が入り混じっている。


「ごめん。見たのはおじいちゃんが子どもの時に天狗さまに会った時の記憶だった」

「…………」


 緑の虹彩が収縮して露草が驚いたのが分かった。

 そして同時に傷ついてしまったことも伝わってくる。


「でもきっとおじいちゃんにとって露草も茜も同じように――」

「空けめ!同じなどではない!同じでは、ない」


 そんなはずはないのだと膝の上の握り拳を震わせて。


 どうやら誇り高い露草にとって慰めになればと思って口にした言葉が逆効果になったみたいだ。


 謝ろうにもそのことで余計に傷つけてしまいそうで怖くなる。


 思わず逸らした視線の先で顔を伏せ感情の昂りを必死で抑えようとしている露草を白がじっと見つめていた。

 耳をピンッと立て口を閉じているからちょっと緊張しているのかもしれない。


 空気もなんだか微妙に息苦しい感じになっていて私もそわそわと落ち着かなくなる。


 なにか言わなくちゃ。

 なにか空気が変わることを。

 なにか楽しくなるようなことを。


 なにか――。


「紬」

「はい!」


 珍しく空けではなく名前で呼ばれ、私は背筋をぴんっと伸ばして返事をする。

 露草は暗い表情をして重い口を動かす。


「実は主が病にかかっておるのだ」

「え?病気……?」


 さっきは主について聞かれるのを嫌がってたようなのに突然露草の方から話題を振られて正直戸惑う。

 白が低く唸りながら鼻に皺を寄せるので更に不穏な気配が漂った。


 それでも露草は穴のような黒い瞳を私に向けて「見舞ってはくれまいか」と続ける。


「あ、えと……ごめん。行けない」

「何故だ」

「私はまだ未熟だから勝手な行動は許されてないの」


 いくら露草や茜が仕える相手とはいえ面識もない妖の元へ行くことは危険すぎる。

 しかもこんなに分かりやすく白が警告してくれているのにほいほいついて行ったら、また宗春さんに嫌味ぐちぐち言われて暫く安全圏内以外の出入りを禁止されちゃう。


 それにこれ以上白が無能扱いされちゃうのは私も嫌だし。


「だから、ごめんね?」


 謝ってこの話は終わりだと思っていたのに。

 露草は空虚な瞳のまま口元だけで微笑み追い込んできた。


「我らの主はさっき紬が見た夢に――総二郎の記憶に出て来た天狗であったとしてもか?」


 まさかというよりそっかと腑に落ちた。


 露草と茜が用意してくれた連絡用のコンパクトの蓋に描いてあったヤツデの葉は別名天狗の葉団扇と呼ばれている。

 葉の形が天狗の持っている羽団扇に似ているから、その効果のひとつである魔除けの力がヤツデの葉にも備わっているって信じられてるんだよね。


 そこまで勉強していてすぐに見抜けないんだから情けない。

 指摘されて気づいているようじゃまだまだだ。


 でも。


「行けない」


 見舞う相手がおじいちゃんの大切な友である天狗さまでも。

 そして私の友だちである露草の頼みでも。


「“行かない”ではなく“行けない”のだな。ならばお主が行かねばならぬ理由を作るまで」

「……それって、脅し?」

「お主は本当に空けじゃ」


 悲しそうに眉を下げて露草は腰を上げ、連絡するために与えた物を開いてみよと促してくる。


 私はポケットから二つ折りの鏡を取り出し、震える指でつまみを捩じった。

 うるさいほどに乱れ出した脈拍と呼吸で溺れるような恐怖を味わいながらそっと開ける。


「――結!?」


 丸い小さな鏡の向こうに結の姿があった。

 腕を後ろに組んだ不自然な格好で床に横たわっている。

 目を閉じているので無事なのかどうか分からない。

 生きていなくては私を連れ出すための人質にならないからと信じるしかないのが腹立たしいけど。


「どうしてこんなこと……!」

「前に言うておいたはずだ。安全な場所にも落とし穴はあり、綻びは至る所にあると」


 そして簡単に信じるなと。


「でも」


 露草は裏切りなどしないってことも約束してくれたのに。


 どうして?

 それはきっと主である天狗さまに命じられたから。


 なぜ?

 私の約束よりも主の命令の方が遵守されるから。


 悲しいけれど仕方がない。

 これは露草たちにとって自分たちの意思や意見を通すことが許されないことだから。


「分かった。でも行く前にお寺に連絡させて。しないと後で酷い目に合されちゃうから」

「…………手短に済ませるならば」

「ありがと」


 ダメだって言われるかと思ったけど露草は頷き、私は急いで携帯を取り出して宗春さんの番号に電話をかけた。


 一回、二回――。


 早く。

 お願い。

 早く出て。


 三度目のコールが鳴り終わる前にプツッと音がして繋がった。

 ほっとしながらも心拍数は跳ね上がったまま「もしもし。紬です」と呼びかける。


『ふぅん。その様子だと向こうからの接触があったみたいだね。こっちに連絡するだけの余裕はあるようだけど、案外事態は深刻なのか』


 まるでこうなることが分かっていたような言い方に、それなら最初から警告しておいてくれたらいいのにと腹を立てるのは理不尽なんだろう。


 ちゃんと宗春さんは「行くのは賛成しない」って言っていたし、約束事を念押ししたのだってなにかあるって教えてくれていたんだろうし。


 そうだ。

 気を抜いていた私が悪い。


 おじいちゃんの家だから。

 おじいちゃんの故郷だから。

 おじいちゃんに縁のある妖たちがいるからって勝手に安心してた。


「露草と茜の主である天狗さまが病気なのでお見舞いに来てもらいたいってお誘いを受けました。行くつもりは無かったんですが、結があちらにお邪魔しているようでこれから迎えに行ってきます」

『なるほど。紬を誘い出すには一番手っ取り早い方法だ』

「そうなりますね。宗春さんがこの間私に使った手ですから露草たちを悪く言えませんよ」

『悪くは言ってない。常套手段を使ってきたなって感想を述べただけだよ』


 そうですか。

 まあ手段としては一般的だろうけど。


「一応行くということをお伝えしておきます」

『ん。ちゃんと兄さんのお札とお守りを持参するように』

「いつも肌身離さず持ってるから大丈夫です」

『そりゃよかった。これが最後の会話にならないといいね』

「ちょ……!縁起でもないこと言わないでくださいっ」

『なにを言っているんだか。嘘か本当か分からないけど、弱っている妖の元へ行くんだ。頭から丸のみされる可能性は大きい』


 つまり。


『どんな理由であれ、どんな結果であれ、行くと決めたのは紬だ。人質を取ってまで呼び出す相手の懐に自ら飛び込むんだから命を賭ける覚悟を持たないと』

「……はい」

『時に情は不自由であり、足枷となる。なにを選び、なにを護るか』


 決断を恐れるなって叱咤され、私は携帯を持っている手に力を入れて「はい」と返事をした。

 『じゃあ』って軽い声で話を終わらせて、さっさと通話を切ってしまう宗春さんにぽかんとしながら携帯を閉じてジーンズの後ろのポケットに捻じ込んだ。


「もういいのか?」

「うん。いいよ」


 手短にしろって言ったはずなのに露草は電話を終えた私を不満そうに見つめる。

 ここで時間稼ぎをした所でなににもならない。


 助っ人は来ないんだから。


 私は立ち上がり「行こう」って露草を誘うと、青い小鬼はお腹が痛くて堪らないって顔で手を差し出す。


 その小さな手を握り、露草も握り返したところで世界がくるりと反転した。



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