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始まりもせずにその恋は



 家事というものはやってみると想像以上に大変なものだった。


 朝起きて朝食とお弁当作りをして、起きてきたお父さんと結にご飯を食べさせている間に掃除機をかける。

 食べ終わった食器を片づけて二人の部屋まで行って脱ぎ捨てられた着替えやらを回収して洗濯機を回す。

 その隙に自分の準備を済ませてまずはお父さんを送り出し、冷蔵庫の中になにが入っているかを確認してから夜の献立を考えて買い物するものをリストアップする。

 洗濯機から洗った衣服を取り出して縁側に干し――天気が変わっても誰も取り込めないので外に干せない――、ぐずぐずしている結を急かして学校へ向かわせてようやく出社するんだけど。


 これさすがにしんどい。


 仕事が終わったらスーパーで買い物して、急いで家に帰って夕食の準備と取り込んだ洗濯物を畳む作業が待っているし、回覧板のチェックをして次のお宅に回して、お風呂の準備、夕飯を食べて、片付けて、明日のお弁当と夕飯なんにしようかなぁなんて考えてたらあっという間に一日が終わっちゃうんだよ!


「うう……世の中の奥さんしてる女性ってすごい」


 素直な感想を愚痴の後に呟くと高橋先輩が眉を下げて微笑み「頑張ってる紬にご褒美」ってお昼にコンビニで買ってきたお菓子をくれた。

 ありがたくいただきその場で開けて二人で食べて三時の休憩にする。


「紬は仕事しながら家のことして偉いけど頑張りすぎじゃない?私だったら夕飯作らずお惣菜買うし、洗濯だってまとめて休みの日にするし、掃除だって別にしなくても死にはしないんだからさ」

「私もさすがに最近じゃ一品お惣菜買って誤魔化してるし、掃除も全部じゃなくて使ってる部屋を優先的にしてますよ。あと結も洗濯物を取り込んで畳んで各部屋に運んでくれたり、お風呂抜いた後すぐ掃除してくれたりとか手伝ってくれて」


 少しずつ手を抜くポイントとか分かってきたけど。


「だからこそすごいなって思うんです」


 お母さんは私が就職するまでずっとパートに出てたけど家事はしっかりやってたし、私や結の宿題とかお喋りにもちゃんと付き合ってくれて寂しさなんか感じたことも無かった。


 天気のいい日はお布団がふかふかだったし、季節の変わり目には箪笥の中の衣替えが知らない間に済んでいて、暑くなれば扇風機が寒くなればストーブが出てて、学校行事には欠かさず来てくれて、誕生日には必ず美味しい料理を作ってくれて――。


 私は鈍臭いからお母さんみたいに要領よくできない。

 できないけど。


「いつかお母さんみたいなお母さんになれたらいいなって思うんです」

「そっか。紬のお母さんはいいお母さんなのね。羨ましいわ。でも紬は十分今のままでもいいお母さんになれそうだけど」

「たった五日で音を上げてますが?」


 高橋先輩は「頑張りすぎてるから挫折するのよ」と笑い飛ばした。


「で、いつ帰って来るの?お母さん」

「それがまだ分からなくて」


 おばあちゃんは経過も順調だけど退院後にひとり暮らしを始めるのはちょっと心配だって話が出てるらしい。

 処方されているお薬がちょっと強くてぼーっとなるらしくて、段差とかに躓いて転んだら怪我するかもしれないんだよね。


 お父さんの妹である叔母さんは隣町に住んでるし、従兄弟たちが中学二年生小学四年生と幼稚園なのでちょくちょく見に行くことはなんとかできるけど一緒に暮らすことは難しい。


 おじいちゃんの兄弟のお嫁さんとか息子さんとかも近くにいるけど、さすがにそこまでご迷惑はかけられないよねって。


「うちのお母さんが一番自由がきくので」

「うん。まあ、それに長男の嫁だしね」

「はい」


 いずれこういう日が来ることはお父さんもお母さんも分かっていたはずだから。

 私が知らないだけでおじいちゃんが死んだ後二人でこれからどうするか話し合いしてたかもしれないし。


「じゃあしばらくまだこの生活が続くわけだ」

「そうなります。でも続けてる間に家事力がついて苦にならなくなるかもしれませんしね」

「お、前向き。私だったら五日ももたずに投げ出しちゃうわ。お弁当作りだって一週間に一回くらいしかできてないし」


 一緒に頑張ってみるって言ってたお弁当作りのことを例に挙げつつも先輩はそれが私だからって顔で晴れやかに笑っている。


「私だって高橋先輩みたいに爪の手入れしたり、パックしたり、髪を巻いたり、ファッション誌で勉強したりできないですから」


 人には向き不向きがある。


「それに私、好きみたいです。家事」

「音を上げてたくせに?」

「それを言われちゃうと困るんですけど」

「でも料理の腕は上がったわね」


 自分では上達している自覚はないけど先輩には毎日私のお弁当のおかずをお裾分けしているから分かるのかも。

 なにごとも良い悪いはっきり言ってくれるタイプなのでここは素直に喜んでおこう。


「ありがとうございます」

「紬をお嫁さんにもらえる人は幸せだわ。羨ましい」

「先輩みたいに綺麗で可愛らしい人をお嫁さんにできる人も幸せですよ」

「……つまりそんな私を彼女にできている亨は幸せ者ってことね」

「そういうことになりますね」


 胸を張ってツンッと顎を上げる高橋先輩から滲み出る幸せオーラに心の中で手を合わせて拝みながら私は頷く。


 美人が自信に満ちてたらほぼ無敵だ。

 更に深く愛されている人特有の充実した人生を送っているって空気は周りの人にも幸福を招いてくれそうだし。


「あのさ。お嫁さんといえば」

「なんですか?」


 お菓子を食べ終えて休憩から仕事に戻ろうとしていると高橋先輩がなにやら言いにくそうに口を開いた。


「あー……うん。あのさ、正吾くんのことなんだけど」

「はい」


 榊さんの名前が出た途端にドキリとしてしまい返事も固くなってしまう。


 なにか大事なことを言おうとしているのが分かって、だからこそ今はまだそっとしておいて欲しいって思う気持ちが勝つ。


 だからだろう。


 先輩は「なんでもない」ってぎこちなく笑って終わらせて、そのままパソコンの方へと視線を向ける。

 私も慌てて画面を見てゆっくりと呼吸をしてなんとか乱れた心を落ち着けた。


 五時になったものの明日から休みになるのでキリの良い所まで終わらせる。

 高橋先輩も時間だからって帰るそぶりもなく打ち込んだ数字と伝票を何度も確認していた。

 十分ほど頑張った所で終わりほっと息を吐いて先輩の様子を窺うとまだもう少しかかりそうな感じだ。


 なにも用事が無いのなら待っていてもいいんだけど、今は家事という役目が私を待っている。


「すいません、高橋先輩。先に上がってもいいですか?」

「ああ、うん。お疲れ。私もあと少しで終わるから気にせずに帰って」

「ありがとうございます」


 お言葉に甘えて電源を落とし机の上を片付け腰を上げると足元で丸くなって寝ていた白もしゅっと立ち上がり尻尾を振る。

 もちろん小人さんたちも同じく喜んで寄ってきた。


「お疲れさまでした」


 会釈をして机を離れると先輩が軽く手をひらひらと振る。

 更衣室へ向かい窮屈な制服からジーンズと真っ白なネルシャツのチュニックに着替えた。


 最初はジーンズとかズボンは腰とかお尻とかも腿とかの太さが目立つからって敬遠してたけど、上にゆったりしたニットとかチュニックを着れば気になる所は隠れるし少し痩せて見えるのを結に教えてもらったので今では重宝してるんだよね。


 動きやすくてちょっとスタイル良く見えるのはお得だ。


 後はコートを羽織って、制服をトートバックに突っ込めば帰る準備は終わる。


 今日のメニューはカレーにするって決めていたので、頭の中で具をなににしようか悩みつつ更衣室を出た。


 短い通路の向こうから高橋先輩がやって来たのでもう一度「お先に失礼します」と挨拶を交わしてすれ違う。


「鶏にするか、豚にするか、それとも牛にするか」


 まずはお肉の選択から始めつつ事務所へ入り、出入り口のドアへ向かって歩いていると「小宮山さん」って話しかけられた。


 この声は。


「榊さん?」

「お疲れさま」

「お疲れさまです」


 いつもは長めの前髪を後ろへ流しているのに今日は自然な感じでおろしてある。


 ちょっと無防備な雰囲気にドキッとした。

 スーツ姿なのは変わらないけど、髪形ひとつで随分と印象が変わるんだなぁ。


「あかりさんと上手く仲直りできたみたいでよかったね」

「あ、はい。その節はありがとうございました」


 そう言われれば会うのはあの時以来だ。


 慌ててぺこりと頭を下げると榊さんは「どういたしまして」と微笑む。

 同時に後光が強く輝くものだから私には眩しすぎてこの間テレビで観たチベットスナギツネみたいな顔になってしまう。


「あと、相談した友人の件なんですが」


 信さんと匡秀さんのことを報告しようとしたんだけど、彼は嬉しそうに頷いて「上手くいったみたいだね」ってなんでもないことのように答えた。


「どうして分かるんですか?」

「そりゃあ」


 見れば分かるって言って、榊さんが自分の瞳を指さした。


「悲しみと別れを乗り越えた人の目の輝きをしてるから」


 詳しく聞かなくても分かるんだなんて。

 そんなの反則だ。


 聞いて欲しいとか思ってたわけじゃないし、そもそも詳細を話すわけにもいかなくて。

 でもこうやって分かるよって言ってもらえたら。


 私。


 だめだ。

 私の心臓。


 壊れちゃったかもしれない。


 どきどきどきどき――どんどん速くなっていく。

 頭がぼうってなって、熱も出てきた気がする。


 ああ、私。

 榊さんのこと。


「後悔、悩んでる時よりしてない感じするんじゃない?」

「……はい」


 そうだ。

 寂しさはあるけど。

 今私に中にある気持ちは後悔じゃなくて良かったなっていう達成感だった。


 そんなことまでお見通しならなにも隠し事できない。


 ならここで気持ちを打ち明けても変わりはないんじゃないかって、この時どうして思ったのか。


「あの!あの、あの、榊さん」

「どうしたの?」

「私――」


 どうやらあなたのことが。


「す」


 きっと初めてのことで混乱してしまっていたのか、鼓動の速さについて行けずに舞い上がってしまったのかもしれない。


 周りのことも見えなくなるほど。


「おい!正吾、てめえ!」

「よう。お帰り」

「え?」


 ドアが開いたことなんて全然気づいてなかった。

 榊さんは入ってきた男性に乱暴な言葉をかけられながらも笑顔のまま。

 告白の途中で我に返った私はただただ固まるばかりで。


「目の前に迫ってる年末でクッソ忙しい時に呼び出しやがって!休み取るのにどれだけ苦労したって思ってんだ!土下座して詫びろ。今すぐ」

「悪いと思ってるってもちろん。でもお前がいないとなんのための食事会か分かんないだろ?」

「うそつけ!全然、全く悪いと思って無いクセしといて。その笑顔マジムカつくわ」


 旅行鞄を肩に引っかけて下唇を突き出し榊さんにブーブー文句いっているその顔を見て私は唐突に似てるって思った。

 右の指をネクタイの結び目に入れて緩めながら彼も私の方へ視線を向ける。


 暫し見つめ合い確信した。


「良太さん」

「お、おう。そっちはもしかして……小宮山ちゃん?」

「はい。お久しぶりです」


 良太さんは社長の息子さんで実家から出て離れた建設会社で働いているからあんまりお会いする機会が無いんだけど。

 さっきの会話からどうやら榊さんに帰ってくるように頼まれて戻ってきたみたいだ。


「え、ちょ、待って。ウソ、マジで?」

「良太、狼狽えすぎ」

「だってよ。小宮山ちゃん、すっげ可愛くなってて――いてっ」


 視線を右に左にと動かしながら戸惑っている良太さんの後頭部を軽く小突いて「全部口に出てるぞ」って苦笑いする。


「あー……えっと、ありがとうございます」


 身なりに気を付けるだけでこれだけ周りの評価が上がるんだなぁ。

 今まで私がお洒落しても意味が無いって思ってたけど、頑張って良かったなって改めて実感する。


 恥ずかしいけどやっぱり可愛いって言ってもらえるのは私だって嬉しい。


 良太さんは鞄を榊さんに押し付けて、スーツのポケットからスマホを取出しずいっと近づいてきた。


「あのさ。小宮山ちゃん、LINEのIDか番号教えて――っていてぇっての!」

「お前ガッツぎすぎ!ちょっと落ち着けって」


 今度はさっきより強く叩かれた良太さんが涙目で振り返ると榊さんが呆れたように溜息を吐く。

 私的にはちょっと良太さんの勢いにびっくりしていたので助かった。


「だってこれ逃したらまたいつ会えるか分かんねぇんだぞ!?」

「そりゃそうかもしれないけど……お前、必死だなぁ」

「ったりめぇだ!おれだって寂しいクリスマス送りたくない……もちろん仕事だけどなっ!」


 良太さんの悲しい現実を聞いてかわいそうだなって思ったけど、きっとそこはそっとしておいたほうが良いに違いないので黙っておいた。


 榊さんがチラリと私を見てから良太さんの肩をぐっと引いた。


「じゃあ無理して彼女作る必要ないだろ」

「お前はナツと結婚するからいいよな!でもおれがどれだけ独りでいるか知ってんだろぉ!?」


 自棄になって叫んだ良太さんの発言に私の頭は真っ白になる。


 ちょっと待って。

 今。

 なんて言ったの?


「まあまあ、それはさ」

「うるせえ。結納とかこの時期すんなよっ!」


 ああ。

 そうか。


 だからここ最近榊さんは事務所に来てたんだ。

 結婚する彼女の両親である社長と真琴さんに色々と相談するために。


 夏海さんが洗濯機が壊れたって事務所に来た時にちょうどいた榊さんとのやり取りを思い出せば友だちの妹に接するものよりも親しかった。


 普通はそこで気づくのかもしれないけど。


 ああ、そうだよね。

 榊さんのように素敵な人に恋人がいないわけがないんだ。


 しかも結婚。


「小宮山さん?」

「小宮山ちゃん?」


 終わった。

 始まる前に、というよりも始まった途端に。


 なにこれ。

 ほんとに。

 まったくもう。


 私らし過ぎて笑えてくる。


「ちょぉっとごめんね!正吾くん、良太くん!」

「あかりさん」

「あかりさん久しぶりっす」

「はいはい。紬、帰るよ。買い物して夕飯作るんでしょ?洗濯物も待ってるでしょ?」


 着替え終えて戻ってきた先輩がただならぬ空気を感じ取ってくれたようで、私の腕に自らの腕を絡めてそのまま外へと誘導してくれる。

 良太さんがなんか言ってるのを遮るように高橋先輩が小声で「ごめんね、紬」と謝ってきた。


 先輩は悪くない。

 なにも。


 教えてくれようとしていたのに聞きたくないって逃げてたのは私だから。


 首を横に小さく振ると先輩が「飲み行く?付き合うけど」って言ってくれたけど、それにも頭を振って。


「そっか。そうよね。今日が金曜日で良かったわ。土日で気持ち切り替えておいで。それでも無理だったら一日くらいは休んでも怒らないから」

「……はい。ありがとうございます」


 高橋先輩の優しさに感謝して私はそっと涙を流した。


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