その裏にあるもの
今日は結もいるので宗春さんが写経でもしたらって準備してくれた。
細長い折りたたみの机に斜向かいに座って本堂でお手本を見ながら般若心経を書くんだけど、細い筆を使うので緊張していつもよりも不細工な字になっちゃう。
結は綺麗なオレンジ色したゆったりめのケーブルニットの袖を汚れないように腕まくりして硯に筆先を着けている。
最近の子は正座をしなれていないのでできないとか言われるけど、純和風の生活をしていたおじいちゃんの家に長い休み事帰省していたから結は白いショートパンツからすらりと伸びた脚を折り畳んでちゃんと座ることができるんだよね。
まだ朝の気配が漂っているお寺の空気を感じながらの写経は新鮮でいい経験になりそうだ。
写経用の紙は線が引いてある専用のもので、その下にお手本を引いて薄く浮かび上がっている文字を上からなぞるんだけど思っていた以上に難しい。
写仏をした時にも線が震えていてなんとも悲しそうな顔の仏さまが出来上がってしまったのを思いだしちょっとへこんだ。
きっとこういう時は力むんじゃなくてリラックスするのが大事で、心を静かにして集中すれば線も伸びやかになるはず。
手を止めて筆を置きゆっくりと呼吸してみる。
一呼吸した後、目を閉じてもう一回。
目を開けてから再度深呼吸。
それから筆を取り文字と筆先に集中して手を動かした。
「お姉ちゃんはこれ読めるんだよね?」
「――え?」
没頭していたからか結が話しかけてくれていることに気づくのが遅れた。
内容を理解しないまま顔を上げると当然できるんだろうって目で見ているので首を傾げる。
「なに?」
「だからこのお経くらいは空で読み上げられんだよねって聞いてんの」
“くらい”という言葉に引きつった顔で笑いを浮かべると結は眉を跳ね上げた。
語尾が跳ねあがる「はぁあ!?」って声に私は身を縮ませて笑いを引っ込める。
「どういうことなのか説明して」
「どうもこうも」
お寺に一カ月通っている間にお経の読み方も教えてもらっているんだろうって思っていたみたいで、私がここに来ている理由は不思議との付き合い方とか力の使い方を伝授してもらいに来ているのだと説明したら更に恐ろしく目を吊り上げるものだから小さくなる他ない。
「だってお姉ちゃん濡れた女の霊と侍の霊を除霊したんだよね?」
「あれは」
芙美さんは宗明さんのお札で弱ってたし、信さんは望んで力を受け入れてくれたし。
なので私はお経のひとつも唱える必要もなくてですね。
「私のは普通の除霊とは違うんだよ」
除霊しているっていうつもりもなかったし。
「なにそれ!じゃあお姉ちゃん金縛りになったり、霊と遭遇したらどうすんのよ!?」
「え?金縛りは多分なったことないし、白がいればまずそんなことにはならないと思うんだけど」
霊が見えた場合は基本無視するし、あっちが干渉して来れば白が対処してくれるだろうからこれも問題ない。
「それに必要なら覚えるように言ってくれるはずだし」
一応朝のお勤めに初めて参加した時に経本渡されたけど一緒に読めとは言われなかったしね。
ああ、でも。
頭の中で今朝のお勤めの様子が蘇る。
宗明さんの低音の良い声が伸びやかにお経を読み始め、それに合わせるように宗春さんの涼やかな声が重なり深く響きあう。
心地よく包み込まれ、ばらばらに解かされて揺さぶられる。
心はどこまでも澄み、安らかに無になっていく。
身も心も浄化されているって感じ。
何度聞いても意味は分からないけど。
いいものはやっぱり良くて。
お経を読むことで死んだ人や迷った人が逝けるところへちゃんと送り届けられるのは、こうやって穏やかな気持ちになれるからかもしれない。
だとしたら。
「覚えておいてもいいのかもしれない。信さんと匡秀さんが逝く時に私なにもできなかったから」
せめてもの餞に拙くてもお経を読むことができれば彼らの道を少しくらいは照らすことはできたかもしれないし。
「そういえば結は読めるの?」
「読めない」
なんだ結もなんじゃないって笑って安心しようとしたんだけど、結は固い表情のままで書き上がった写経の最後の方を指でさす。
「けど、大事なとこは知ってる。必要な所はお経じゃなくて真言だから」
「へ?真言……?」
「これだと最後の二行の“羯諦羯諦”から“菩提僧莎訶、般若心経”の部分」
その前の長いお経はこの真言を唱えるための前ふりというか、ありがたい説法らしい。
「真言って確か仏の真実の言葉って意味だったはず。文字に力があるんじゃなくて音に力があるから目じゃなくて耳で覚えた方が速いよ。仏の数だけ真言があって宗派によっても違うんだけど」
結は本尊さまが並んでいる方を振り返りひょいっと肩を竦める。
つまり。
「あそこにいらっしゃる仏さまたちにもお経と真言がある?」
「そういうこと」
「すごいね。結は」
女子高生が持っている知識としては信じられないほどだ。
でもそれは裏返せばそれだけ結が悩まされていたってこと。
きっと金縛りや嫌がらせに苦しめられて、少しでも抗おうとして調べた結果なんだと思うと鼻の奥がきゅっと痛くなる。
「ごめん。知らなくて」
「もう、いいってば!」
「よくない!そうだ、これ」
ジーンズの後ろポケットに入れていた宗明さんのお札を取り出して結に差し出す。
妖にも有効なものだから結を困らせる悪霊にはかなり役に立つと思う。
「かなりご利益があるから」
「いいよ。あたしのことよりお姉ちゃんの方がヤバいから」
「たくさんもらってるから大丈夫。なんなら後で結の分も宗明さんにもらおう!」
それに。
よくよく考えたら私が千秋寺に通って霊力が強くなったせいで妖に狙われているってことは、結とかお父さんやお母さんにも危険が及ぶ可能性が高いんだ。
私には護ってくれる白がいるけど結やお父さん、お母さんは無防備で。
「ああ、そうか」
柘植さんが言っていたこと少し分かった。
私にとっての弱点は家族だ。
もし家族に危害を加えるって脅されたら。
間違いなく私は言いなりになっちゃう。
昨日の夜、宗春さんに“利用するなら私を使えばいい”って言っちゃったみたいに。
そうならないためには私が強くなって家族を護れるようになることと、家族にも対抗できるだけの方法を教えて――与えて――もしもの時は躊躇せずに自分の命を守ることを優先してもらわなくちゃいけないんだ。
難しいけど。
「悪いのが近づいて来たら絶対にこれを使って。例えそれが大八さんでも、結になにか悪いことしようとするのなら迷わずに」
「お姉ちゃん……後ろ」
結の瞳が揺れて感動しているのかと思ったら後ろを見るようにと促された。
振り返るより先に「おいおい、ひでえな」っていう声が聞こえて私は苦笑する。
「ごめんなさい、大八さん」
「まあ、いいけどよ。それぐらいの気持ちでいた方がなんぼか危険も回避できるだろうし」
古い書物を両手に抱えて大八さんは私たちの写経を覗き込んで「終わったみたいだな」って呟いた。
「はい。一応終わりましたね」
「じゃあ次はおれの手伝いしてくれないか?」
「なにすんの?」
「古い書物の虫干しだ」
結は「おもしろそう」って二つ返事で立ち上がり、足が痺れたって言いながらよろよろと歩き出す。
私も立ち上がり、生まれたての仔鹿みたいな妹を伴って倉庫へとブルーシートを取りに向かう。
運んできたシートを本堂に近い境内に広げると奥から大八さんが和綴じになった書物を抱えてきてくれるのでそれを陽当たりのいい場所に一冊ずつ並べて行く。
表紙には文字が書かれているけど書庫にあるのより随分と年代物らしくて全く読めない。
パラパラと何気なく開いてみて気づく。
「これ書庫にあるのと同じ内容……?」
「なになに?なんか面白いこと書いてあんの?」
並べている書物をひょいひょいっと避けながら結が寄ってきて覗き込むそのページには死体が入っている桶を開けてニタリと嗤う赤い鬼の姿が描かれていた。
「キモい」
率直な感想に私は苦笑いを浮かべて次の図解が載っているページまで進む。
今度は口を開いて鋭い牙を覗かせた家よりも大きな鬼を武士たちが取り囲んでいる絵。
それから次はイタチのような細長い小動物に食らいつく鬼。
文字は読めないけど絵は分かる。
だからこそ書庫で見たあの書物と同じものなのは間違いなかった。
「どうした?どっか壊れてたか?」
二人で頭を寄せ合って見ているので大八さんが掌を叩きながら近づいてくる。
「いえ、これ書庫にあるのと同じものですよね?」
「ああ……さすがに古すぎると読める人間が少なくなるからな。その時代に合わせて書き換えすんのも大事な務めだとかなんとか。妖も新しいのが生まれてきたりするし、そういうのを書き足しながら今でも改稿していかないと資料としては意味がなくなるからな」
「なるほど」
だから書庫にあるのは達筆だけど頑張れば私にでも解読できるものだったんだ。
こういうお仕事もあるんだなぁ。
毎日忙しそうなので大変そうだ。
「紬が使ってる書庫にあるやつは隆宗と宗明がほとんどやったって話だ」
「え!?宗明さんが!?」
隆宗さんはなんとなく分かるけど、宗明さんの若さで書物の写しをしていたとはちょっと驚きだ。
確かにお札の文字は流麗で美しいけど。
ん?
待てよ。
「あの……絵もですか?」
「だろうな」
「ええ!?すごい……」
今目の前にある書物の絵と書庫で見た書物の絵は同じようでいてちょっと雰囲気が違う。
だって印刷じゃなくて手書きだから、絵だってもちろん手で描いてある。
「字が綺麗なだけじゃなくて絵も描けるんだ」
「完璧じゃんあの人」
結も目を丸くして素直に誉めた。
だけど完璧に見える宗明さんがどれほど努力しているか、弟の天才ぶりをどれだけ恐れているか私は知っている。
そんな彼に鬼門ともいえる宗春さんと向き合って欲しいだなんてお願いするとは本当に酷い女だなと今更ながらに実感した。
それによくよく考えれば「自分は予備である」という考え方に宗明さんは理解を示していたし、なんならそれが当然だって思ってるみただった。
なのに私は宗春さんの考え方を変えて欲しいだなんて頼んで。
それは同時に宗明さんの考え方も否定していることになるのに。
「ああああ―――!!」
今更ながらとんでもないお願いをしてしまったことに苦悩し頭を抱える私を「ちょ、お姉ちゃん!?」って結がぎょっとして大丈夫?と聞いてくる。
「おいおい、紬。どうした?具合でも悪くなったか?」
「ちがっ……ただただ自分の不甲斐なさに気づいてショックを受けているだけですので」
心配しないでください。
本当なら私が変えたいって思ってるんだから、宗春さんを心変わりさせるだけの根拠や言葉をぶつけられたらいいんだけど。
できなかったから。
宗明さんに頼っちゃったんだけど、早まったかなぁ。
「自己嫌悪か?」
「はい」
「止めとけ、止めとけ。そんなもんで腹は膨らまねぇし、うじうじ悩んで立ち止まってたって解決はしないんだ」
「……大八さん」
「それに言っちまったもんは取り返しがつかないしな」
そうなんですよね。
でも大八さんの前向きな言葉は温かい。
「大丈夫だ。なんかあった時はおれが護る。あんな狼より絶対に役に立つ」
だから。
「笑っといてくれ」
「はい」
二カッと笑う大八さんにつられて私も小さく微笑んだんだけど、結が興味深そうに「おじさんはなんの化け物なの?」なんていうからすぐに青くなっておじさんじゃないし、妖だからって必死に言い聞かせたけど完全にスルーされた……。
とほほ。
「おれか?おれは火車だな」
「火車?火車って確か猫の妖怪だったよね?」
全然猫感ないですけどぉと言いたげにしげしげと筋肉質な大八さんを結が見上げる。
「良く知ってんな。若いのに」
「うう……すみません。なにも知らなくて」
「別に嫌味で言ってんじゃないんだって。今は妖怪なんてみんな忘れちまってるんだから」
気にするなって言われても気になります。
それにしても結は本当によく知ってる。
名前だけでなんの妖か分かるなんて。
きっと死体を食べるとかお葬式の最中に棺桶から死体を奪っていくことかも知ってて言わなかったんだろう。
「んじゃ作業に戻るか」
「はい」
微妙な空気になりそうなところを大八さんは朗らかに笑って終わらせて、書物を取りに階段を登って行った。
その大きな後ろ姿を見送っていた結が「ふぅ~ん」となにやら意味深に呟く。
「おじさんだけど悪くない」
「結!おじさんって失礼だから」
「だってほんとのことだし」
注意しても悪びれない妹にがっくりと肩を落とす。
しかし“悪くない”って言うくらいだから好印象なんだろうけど。
「妖は年取らないし死なないんだから見かけで判断しちゃダメなんだよ!」
「だったら余計に見た感じの呼び方になっても問題ないんじゃないの?ほんとはおじいちゃんって呼んでも差し支えないくらい生きてんだろうし」
「うっ」
言い返せない。
悔しいけど。
「まあ歳なんて意味が無いっていう点では見た目おじさんでも問題はないんだろうし」
「ん?ん?」
私が鈍いのは自覚してるけど結の言い方はなんだかわざと分かりにくく言っている気がしてモヤモヤする。
「だからお姉ちゃんがおばさんになっても見た目が変わらないんだったらそれはそれでアリなんじゃないの?ああ、でも」
お姉ちゃんだけが老けていくことになるのか。
「それはそれで辛いね」
結はきゅっと唇を引き結んで胸の真ん中をそっと押さえた。
ここにはいない誰かを想っているかのように瞳が揺らして。
私は私で昨夜聞いたクリーニング屋さんの娘さん――多恵さんのことを思い出して心臓がツキンと痛む。
結が辛いと表現した運命を選んだ女性。
今、彼女がどんな気持ちで過ごしているのか。
どんな暮らしをしているのか。
想像しても分からないけど。
書物は結構な数があって全部を虫干しするのにお昼までかかった。
それからお昼ご飯を四人で食べてちょっとのんびりしてから今度は集めて蔵へと戻す作業をして三時のおやつ休憩をしていると宗明さんがお父さんと一緒に本堂へとやって来る。
「紬、結。迎えに来たよ」
「お父さん、ひとり?」
「ああ母さんはしばらくあっちに残って家の片づけとか入院の付添とかしてくれるらしくてな」
「そっか」
じゃあしばらく我が家の家事は私がしよう。
料理教えてもらっていて本当に良かった。
「しかし本当に一緒にいるんだな」
結はお父さんの方をツンとして見ないけど意識しているのは分かる。
思春期真っただ中だから父親に対する態度が冷たいのは仕方ないのかな。
「安心した」
覇気のないお父さんの笑顔はこっちまで脱力しちゃうんだよね。
でも実感のこもった言葉に私は大きく頷いてから「ごめんね」と誤った。
「あたし荷物取ってくる」
「お願い」
居心地が悪くて逃げ出した結をお父さんと顔を見合わせて笑う。
それから本堂の中を見てみたいというお父さんを宗明さんが案内して行く。
大八さんとその様子を黙って眺めていると紺色の旅行鞄を持って結が戻ってきた。
「準備できたよ」
「ありがとう」
「お父さんは?」
「中」
興味なさそうに入口から覗き込んでいる結に気づいたお父さんが振り返って手を振っている。
「そういうとこ、……もう」
口をへの字にして結は顔を引っ込めて壁に背中をつける。
その様子に恥ずかしいだけなんだなと気付き私は笑う。
可愛すぎる。
「んじゃ帰るか」
「うん」
早足で戻ってきたお父さんが促す前に結は無言で先に行ってしまう。
ちょっと寂しそうな顔をしてから「結、待ちなさい。荷物持つから」って追いかけていくからお父さん意外と強いのかも。
宗明さんが「お気をつけて」と挨拶したのでここでお別れするつもりらしい。
私は昨日の発言について謝っておくべきかもしれないと彼を見上げた。
だけど宗明さんは静かに微笑んで首を振る。
だから私は代わりに今度結と家族にもお札を分けてくださいとお願いして結とお父さんを追った。




