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糸口



 ペロリと温かで湿ったものが鼻の先を舐めた感触で目が覚めた。

 視界が効かないぼんやりとした世界の中で白銀の狼はキラキラと青い瞳を輝かせて私を見下ろしている。


「……おはよ。白」


 昨日はお侍さんの過去を見た後でそのまま寝てしまったんだった。

 もぞもぞと毛布と掛布団の中から手を伸ばして眼鏡を取ろうとしてふと気づく。


 私いつの間にベッドに入った?

 それに眼鏡を外した記憶も無いんだけど……。


 起き上がって眼鏡を装着しお侍さんのいつもの定位置であるテレビの横を確認するとそこはなんだか広く感じるほどなにも――誰も――いなかった。


 胸にじんわりと寂しさが沁み渡り、なんだか寒さも厳しく感じる。


「夢じゃない」


 なら私はベッドではなくテレビの前に寝てなくちゃおかしいんだけど、一体どういうことなんだろう?


 もしかしたら夢遊病者みたいにフラフラと起き上がって自分で布団を求めて歩いて行ったとか?


 あのまま床の上で寝てたら風邪を引きそうだからベッドでぬくぬく寝てたのはありがたいんだけど。


 上下灰色のスウェットの上にカーディガンを羽織って立ち上がると空気が流れてどこからともなくお線香のような良い香りがした。


 まだ真っ暗な部屋を後にして階段を下りて行き洗面所で顔を洗って、適当に髪を後ろでひとつ結びにして台所へ向かう。


 灯りを点けて薬缶に水を入れて火にかけている間に冷蔵を開けて物色し、昨夜の残りの筑前煮とたくあんと梅干を取り出して煮物はレンジへ漬物は居間に運んだ。


 それからなめこの味噌汁のお鍋が乗っているコンロにも火を点けて、他になにかないかなと戸棚を探すと鯖のみそ煮缶が出て来たのでお皿に開ける。


 レンジが鳴って急いで筑前煮を取り出して運び、お鍋の火を止めてお碗にお汁を入れて一旦置いておきご飯もお茶碗によそった。


 何度かそうやって居間と台所を往復しているとシュンシュンっと音を立て始めたので、ポットを抱えてきて中の温くなったお湯を捨ててその中へと沸かしたてと入れ替える。


 急須の中に玄米茶の茶葉を入れてお湯を注ぎ、湯呑に淹れて居間のテーブルに座ってひとりで朝食を食べた。


 食べ終えた所で白が腕に体を摺り寄せ顎を肩に乗せたので「白もどうぞ」と許可すると嬉しそうに匂いをもぐもぐし始める。


 時刻は早朝三時を少し回った所。


 別に朝イチで来いって言われてないけど、やっぱり千秋寺に行くのならこの時間に出て行かないと気合が入らないというか、それが当然というか。


 染みついた習慣ってそういうものだと思う。


 白も食べ終えたのを確認してから、お茶を飲み干してから食器を重ねて立ち上がった。


 後片付けと洗い物を済ませて居間と台所の電気を消して部屋へ戻ろうと階段を登って行くと、人の気配がして残り三段ほどを残してそこで止まる。


 暗闇に慣れた目に映ったのは私の部屋のドアを開けて中を覗いている結の姿。


 じっと硬い表情で一点を見ているけど一体何を見ているんだろう?


 今は微妙な姉妹の仲なので声をかけて良いものかどうか悩む所だけど、グズグズしていたら始発に間に合わない。


 そもそも結が立って中を見ているのは私の部屋なんだから遠慮する必要もないんだし。


大きく息を吸いこんで「おはよう」って口にすると結はびくりと身体を揺らしてこっちを見た。

怖いことがあった時のように強張った青白い顔をしていたので心配になる。


「結、大丈夫?私の部屋になんかいた?」

「――――!」


 目を大きく開いて勢いよくもう一度私の部屋へ視線を向けた後でくしゃりと泣きそうに顔を歪め「なんで」と呟いた。


「結?」

「ずっと、いたのに……どうして」

「どうしてって」


言われても。


「お姉ちゃん、自分がなにをしてるか分かってんの?」

「え?」


 戸惑う私に苛立ったのか。

 結は唇をへの字に曲げてギロッと睨みつけて自分の部屋のドアを乱暴に開けてそのまま中へと入って行った。


「なにがなんだか」


 分かりにくいけど、結の言動が激しいのはきっと反抗期だからじゃない。


 発言と行動を考えれば間違いなく私のやっていること――妖とのこと、濡れ女さんやお侍さんについて――の全てが許せないというか気に食わないんだと思う。


「一回ちゃんと話し合った方が良いかも」

「キュン」


 鼻を鳴らして白も賛成してくれたので、温かく見守るという高橋先輩からのアドバイスを一旦忘れることにすることを誓いながら部屋に入り時計を確認する。


 思っていた以上に時間が経っていてゆっくりと洋服を選ぶ余裕がないのでこういう時の強い味方であるワンピースをクローゼットから出した。


 紺色に白い小花柄で白い丸襟がついていて可愛らしい。

 ウール素材だから温かい肌着を着て厚手のタイツを穿けば寒さは感じにくいだろうし。


 亜紗美さんに教えてもらった簡単メイクで時短できたのが良かったみたいで始発に間に合いそうだ。


 一応お寺に泊まることも想定して下着とタイツをトートバッグに突っ込んで、私は白と小人さんたちを伴いチャコールブラウンのコートを羽織って出発した。


 改札を抜けて人がほとんどいないホームに立ち、時間通りに到着した電車に乗り込む。

 座席に座って考えることは結のこと。


 昨日の夜にお別れしたお侍さんのことじゃないのが心苦しくはあるけど彼とはちゃんと言葉を交わせたし、それなりに納得というか覚悟をして挑んだからかな。

 いつもの場所に彼がいなくて部屋が広く感じることがすごく寂しくても不思議と後悔はなかった。


 だけど。


「結は」


 流れて行く光の帯を見つめてそっと息を吐く。


 本当にどれだけぼんやりと時間を過ごしてきたんだろう。

 それも一分とか何時間とかでもなくて、一日や何か月とかでもない。


 生まれてから二十三年間。

 私の人生は大きな波風も無く、小さな漣のような日常を重ねて来ただけだった。


 ただ静かに。


 もちろんそれを私は選んできた。

 それが悪いことだとは思わない。

 そういう生き方だってある。

 その方が誰かを傷つけることも少ないから。


 でもそれは多分拒絶に近いんだ。


 最近昔あったことをふと思い出したり、夢で見たりするのは少しずつ私の興味が外へと向くようになったから。


 楽しいこと。

 苦しいこと。


 悩んだり迷ったりすることで、頭の奥の方で忘れ去られていた記憶や思い出がなにかのメッセージを送ってくれているんだと思う。


 今までは気にも留めなかったこと、今までだったらすぐに諦めていたことも、譲れないことができた今は細やかな経験さえも乗り越えるための力になるかもしれないから。


 座面に前脚を乗せて白が身を乗り出すようにして窓の外を眺めている。

 ふさふさとした尻尾が楽しげに揺れて私の腿の辺りを優しく触れた。


 ほっと息を吐いてちょっとの間だけ目を閉じた。

 電車の規則的なような不規則な振動に身を委ねて。


 ちょうどカーブに入ったようで体が遠心力で引っ張られる。


 車両と車両を繋ぐ部分がなのか、車輪がなのか分からない金属が軋む甲高い音が聞こえて瞼を上げると目の前の席に男の人が座っていた。


 いつの間に。


 そう思ったのとほぼ同じタイミングで彼が視線を上げてふっと笑った。

 長い前髪の向こうから碧色の瞳が柔らかく滲んで、白い肌がほんのりと赤らむのを見て気づく。


 彼が結と一緒に歩いていた男の人だと。


「初めましてお姉ちゃん」


 高くも無く低くも無い声が優雅な音に乗せて届けられる。

 私と同じくらいの年齢なのに“お姉ちゃん”と呼びかけたのは、私が結の姉だと彼が分かっているから。


「会うのは二度目だから初めましてだとちょっと違和感あるけど」


 こうして顔を合わせて離すのは初めてだから仕方ないよねって嫌味の無い顔で笑う。

 私は膝の上に乗せていた鞄を左手で引き寄せて床に着いている両足に力を入れた。


「まずは自己紹介をしようか。俺はさく。結ちゃんとは仕事上の付き合いだからお姉ちゃんが心配しなくても大丈夫だよ」


 仕事という言葉に私は朔さんがスーツを着ているのに今更ながら気づいた。

 幅の細い襟に黒い光沢のあるネクタイ。

 肩の部分もウェスト部分のラインも美しくてフィットしているからオーダーメイドなのかもしれない。

 磨かれた黒い皮靴と裾から覗く黒い靴下。

 青白いワイシャツの袖口から見える重厚な輝きを放つ時計。


 どれも高そうで、大企業で働く優秀なサラリーマンのようだ。


 でも彼はサラリーマンじゃない。

 全身黒と白で統一されたそれらはビジネススーツではなく、どちらかというと喪服に近かった。


「……白を、どうしたの?」


 朔さんは眉を下げて笑みを深くする。

 静かな電車の中で向かい合って座る私たちの他には誰もいない。


「白をどこへやったの?」


 一時も傍から離れることがない白の突然の不在は不安と同時に緩やかに怒りを連れてきた。


「なにもしないよ」


 君にもあの狼にも。


「結ちゃんの望みはそんな乱暴なものじゃないからね」

「結はあなたと契約を交わしたの?」


 もしそうだとしたら取り返しがつかない。


「結はなにを――」

「それは言えない」


 最後まで言わせずにきっぱりと言い放った朔さんはそれでも笑顔を崩さなかった。


「結ちゃんはたくさんの偽者の中から俺を見つけ出した。だから彼女の目は本物……残念ながらキミには敵わないけどね」


 眉を上げてわざとらしく首をすくめるけど、そんなおどけた仕草をされても笑えるような気分じゃない。


 ぐっと顎を引いて軽く睨んでいると彼は小さく溜息を吐いて「キミの瞳に俺の眼は碧く映ってる?」なんてことを聞いてきた。


 変なことを聞くなって思いながら頷くと朔さんは「やっぱりね」って呟いて左手で自分の両目を覆う。


「今度はどう?」

「どうって……」


 ゆっくりと退けられた手の向こうから濃い茶色の瞳が覗く。


「え?なんで」

「なんでってキミ以外の人にはこの色で見えてるんだよ」


 つまり。

 おじいちゃんの眼鏡の力で彼の本当の眼の色が見えているということなんだろう。


 確かに目を引く容姿をしている上にそんな碧い瞳をしていたら日本という国で人に紛れて生活するのは窮屈というか面倒だろうし。


 だけど一瞬ピントがずれて次に焦点があった時にはやっぱり朔さんの瞳の色は元の色に戻ってしまっていた。


「やっぱり長くはもたないか。すごいな」


 驚きつつも称賛されて私はどう答えていいのか分からず「どうも」とだけ返しておく。


「なんかすっごい警戒されてるし、つれない態度されてるけど、結ちゃんからもらうのは魂じゃないから安心して――って俺にいわれても信じられないだろうけどさ」

「当然です」


 だって人を惑わし、災いをもたらす者。

 甘い言葉で誘いをかけて道を誤らせる者。

 争いを好み、血を喜ぶ者。


 そして。

 契約により魂を奪いし者であるはずだ。


 昔からそう言い伝えられている。


「あのね。今や人生を悲観し己で命を絶つ者や“誰でも良かった”なんて動機で人が簡単に殺されるような時代だよ。人の魂の価値なんてとっくの昔に暴落してる。向こうではずっと飽和状態が続いてて、魂を狩って帰れば逆に叱責されるくらいなんだ」


 碧眼に影を落として背中を丸める朔さんは仕事に疲れたサラリーマンと同じだった。

 うっかり同情したくなるくらいに。


「昨日もキミがしがらみから二人も解放したから地獄の現場担当者から苦情の電話が来たしさ。でもそれ俺のせいじゃなくない?」

「ですね。違います……すみません」

「ああ。ごめん。謝って欲しいわけじゃなくて現状をちょっと分かってもらいたかっただけというか、愚痴っただけというか」


 話が逸れたね。


「あの子は生まれる前に摘み取られた赤子の魂のように不安で心細くて羨ましいんだ」


 彼の笑みは段々と弱く頼りなくなっていく。


 結を“あの子”と呼ぶことで自分から切り離したいんだろうけど、それが上手くできなくて苦労しているのかもしれない。


「長く悪霊を見過ぎてあの子の瞳は濁ってしまった。キミのように澄んだ瞳で物事を見ることができない」

「え?」


 私が見ているものと結が見ているものが同じように写っていないかもしれないなんて。

 そんなこと考えたことも無かった。


 ただ向かい側に座る彼を見つめている私に「あの子を救えるのはキミだけだよ。お姉ちゃん」と何故かエールを送ってくる。


「あの子の瞳の曇りを取り除き、元の輝きを取り戻してあげて欲しい」

「朔さん……あなたどうして」


 こうやって接触してきたのは結の願いを叶えるため――ではなさそうだ。

 だってそうじゃなかったら結を助けて欲しいって私に訴えるわけがない。


「結ちゃんが本当に望んでいるのは俺に頼んだことじゃないからかな」

「でもそれじゃあなたは結から報酬を貰えないんじゃ」

「本当の願いじゃなく諦めた願いを叶えて対価を貰うなんて俺が納得できないんだ。悪魔としてのプライドが許せない」


 たったそれだけのことだよ。


「それに俺が与えた呪いの力が発動する前にキミがあの子を思い留まらせられるかどうかはまた別の話だしね」

「じゃあ」


 どちらが先に結の願いを叶えられるか勝負だ。


「わざわざ教えてくださってありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げると彼は「うん」って頷いて立ち上がる。

 その瞬間左手の車両と車両の間のドアの向こうからドンッ!という音がした。


「おっと。時間切れだ。まあ、話も終わったし丁度頃合いか」

「あの、なにが」

「君のボディーガード」

「え?白……ですか?それなら普通にドア通り抜けてくるはずなのに」

「そりゃここはキミの夢の中で俺がそこに干渉して覚めないように閉じてるから簡単には入って来られないからね」

「え?え?私、寝てるんですか……?」


 目を閉じてたけどあのちょっとの間に眠っているなんて。


「う、わわわ!?」

「あはは。相当荒ぶってるな。急いで退散しなくちゃこっちの命がいくらあっても足りやしない」


 今度は車両が揺れるほどの衝撃がして空気がビリビリと震えるくらいだった。

 朔さんは愉快そうに笑い窓を開け、そこを乗り越えた所で止まる。


「人も妖も簡単に信じちゃダメだよ。紬ちゃん」

「分かってます」


でも。


「疑ってばかりじゃ仲良くなれないですから」

「そっか。仲良くしたいのか」


 なら仕方ない。


「精々相手を見る目を養うことだね」


 じゃあ――という言葉を残して彼は深く濃い闇の中へと消えて行った。


 朔さんが逃げたことに気づいたのか。

 抗議するようにオオォオオンという遠吠えが音を引き、小さくなっていくのと入れ代りで電車の揺れが戻ってきた。


 ゆっくりと目を開けると白が悔しそうにグルグルとその場を回っていて、私の方へチラリと視線を向けて「ガアアウゥゥウ……」となにか言いたそうに吠えた。


「ごめんね。白。でも大丈夫。彼は悪い人じゃなかったよ」

「ゥウウウウ」


 それでも興奮して喉の奥から低い声を出す白に腕を伸ばしてぎゅっと抱きつく。


「びっくりしたね」


 お互いに。


 耳元で囁いて青い瞳を覗き込んで笑うと白は耳をペタンと倒して「キュン」と鳴いた。


「相手が朔さんで良かったけど……こういうパターンもあるんだね。もうちょっと気を付けるようにしなくちゃ」


 白がいてくれるからってどっかで安心してた。

 そしてきっと白も予想してなかった方向からの接触だったから対応が遅れたんだろう。


「今回は勉強になったと思おう」

「ガウッ」

「さあ次が降りる駅だよ」


 落ち込むより次へ向かって顔を上げなくちゃ。


 電車は速度を落としながら駅のホームへと入って行く。

 黒ばっかりの車窓の向こうに蛍光灯の白い色が流れ始め、やがて止まった。


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