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絡まった糸

 


 ねえ、教えて。

 あなたのこと。


 どうしてここにいるの?

 なにがあったの?


 真面目で優しいあなたが成仏できずにここに留まる理由を。

 教えて。


 コトコトコトコト――――。


 糸を出して探す。


 あなたを。


 あなたの過去を。




 入口を開け放った道場の中を澄んだ風が通り抜ける。


「いやぁああああ!」


 気合の入った声と共に床を踏み込む音が響き、竹刀が叩きつけられる重い音が続く。

 飛び散る汗と交差する二つの影。


 片方はよく知る男の人で、もう一人は着物の上からでもがっちりとした体だと分かる男の人だった。


 背はそんなに高くない。

 日に焼けた肌と意志の強そうな真っ直ぐな太い眉。

 だけどお侍さんと同じように澄んだ瞳をしてる。


 ちょっとした試合をしていたようで、壁に張り付くようにして大人も子どもも真剣に見てた。


 鋭い眼光のおじいさんがお侍さんじゃない方が立っていた方の手を上げて「勝者匡秀(まさひで)!」と叫んだ。


 二人は中央に移動して向き合ってぺこりと一礼し、そして審判役のおじいさんにも深く一礼した。


 緊張した空気が消えて子どもたちが一斉に走ってくる。

 十人ほどの子どもたちに囲まれて「ねえねえ!稽古つけてよ!」とおねだりされている二人はさっきまでの真剣勝負をしていた人と同じ男の人だとは思えないくらい優しそうだ。


「後でな」


 そう言って匡秀さんが歩き出すとお侍さんもその後を追うようにして進む。

 ひとりの男の子が「のぶさん残念だったね」と悔しそうに声をかけ、信さんって呼ばれたお侍さんがにこりと笑ってその子の肩をポンッと叩く。


「匡秀はこの道場一の剣士だからな。でも次は勝てるようにもっと鍛錬しておこう」


 初めて聞くお侍さん――信さんの声は想像していたよりも柔らかくて高かった。

 もしかしたら私が思っていたよりも若いのかもしれない。


 子どもたちがおじいさんに呼ばれて集まり、大人たちがそれぞれに練習を始めるのを穏やかな目で眺めながら信さんは入口の戸を潜る。


 先に外へ出ていた匡秀さんは上半身を脱ぎ、井戸から水桶を引き上げて飛沫を飛ばしながら思い切り顔を洗っていた。


 汗と水滴がキラキラと輝いて、どこからか魚売りの声が聞こえてくる。


 周りの建物が低いからか空も広く、私たちが暮らす街のより青く高く見えた。


「信、お前、手を抜いただろ」

「莫迦を言うな。匡秀相手に手を抜けば骨を折るどころでは済まなくなる。現に見ろ」


 信さんが着物の袖を捲ってずいっと差し出す。

 手首から肘へと向かって竹刀が当たった所が赤く腫れ上がっていた。


「しばらく筆を持つのも難儀しそうだ」

「そうなるのが嫌ならば俺に勝てばいいだろう」

「無茶を言う」


 唇をへの字にして匡秀さんは睨むように信さんを見るけど、その目の奥には痛々しい腕を心配している気持ちが隠しようもなく浮かんでいた。


「そんな顔をしてくれるな。こうなったのは私の鍛錬が足らないからだ。ほら。さっさと拭け。風邪を引く」


 腰に結んでいた手拭いを匡秀さんに押し付けるようにして場所をあけさせ、今度は信さんが桶から水を掬って顔を洗う。


「お前こそ、ちゃんと冷やせ」

「家へ戻ったら処置をするよ」


 気にするなと笑う信さんと怪我をさせてしまったことに対する負い目を感じている匡秀さん。


 あまりにもしゅんとしているから信さんが少し乱暴に匡秀さんの手から手拭いを奪い取り顎の先を上げて挑発的な表情をする。


「先程一之進(いちのしん)と約束したからな。匡秀と今度手合せする時には私が勝つ」

「ほう。次は俺の方が怪我を負う番かもしれんな。これは気をつけねば」


 やっと匡秀さんの顔にも笑顔が戻ってきて。

 信さんが安心したようにほっと小さく息を吐いた。


「そういえばお父上殿は相変わらずか?」

「ああ。すっかり腐ってしまい酒浸りだ。父上は剣の腕が立つが、それ以外はどうにも不器用で」


 顔を拭いた後の手拭いを丁寧に畳んで胸の袷に入れながら信さんは浮かない顔をする。


「まあな。天下泰平の世を恨むわけではないが、武士として生きるには誇りだけでは難しい。特に俺たち下級武士なら尚のこと」

「おい。滅多なことは口にするな。どこで誰が聞いているか分からない」


 慌てたように視線を動かして他に誰もいないことを確認したお侍さんがやれやれと呟いた。


 よく分からないけど、平和な時代に生まれたことは侍という身分の人たちにとっては良いことばっかりじゃないみたいだ。


「大丈夫だ。寧ろ俺は今の暮らしの方が性に合っている。戦で命を落としたくはないからな」


 青い顔で周りを気にする信さんを大きな声で笑い飛ばし、匡秀さんは道場の壁際に置いてある竹で作った長椅子に腰を下ろす。


「簡単になど死なぬくせに。そもそもなんのために身に着けた剣術だ。主の命あればどんな時でも駆けつけ剣を揮うがための――」

「やめろ、やめろ。お前は真面目すぎるのだ。それでは長生きできんぞ」

「匡秀こそ、その奔放な所なんとかせねばそのうち不忠を疑われ闇討ちされることになる」

「おいおい。縁起でもないことを言うな。お前は何ぞ俺に恨みでもあるのか?」


 真剣な信さんとどこか緩い匡秀さんのやり取りは普通なら喧嘩になりそうなんだけど、余裕さえ感じる匡秀さんの大らかさからか険悪な雰囲気には程遠い。


「呆れた奴だな。うちの道場で敵う者のいない強さを誇る男が簡単に討たれては師匠の名と顔に瑕がつく。そういう時は返り討ちにしてもらわねば困る」

「そう言うが、お前が本気を出せば三本に一本は俺に勝てるだろうが」

「三本に一本くらいは偶々勝つこともできるかもしれないが、それを実力と呼ぶほど私は愚かではない」

「おい、信。いい加減に」


 どこまでも認めない信さんに焦れて匡秀さんが眉を跳ね上げて彼を睨んだ。

 だけど信さんの瞳は穏やかに澄んでいて、小さく顎を横に振られたら、さすがの匡秀さんも言葉を飲み込むしかない。


 少しの沈黙の後。

 信さんが匡秀さんの隣に座り話し始めた。


「これからどうするつもりだ?匡秀ほどの技量があれば道場を開くことも難しくはない。匡秀になら師範代の免許を与えてもいいと師匠も仰っていた」


 お侍さんの言葉を聞きながら匡秀さんは両手を頭の後ろにやって寛いだように壁に背をつける。


「なあに。俺は気楽な次男坊だからな。もう少しのらりくらりとする腹積もりだ。お前こそ、寺子屋の収入ではお父上殿が満足するほどの酒代を稼げんだろう?」

「それがなんと先日その父上から御算用者の役職の話が出たのだ」


逆に心配された信さんはどこか固い笑顔を浮かべて空を見上げた。

私には彼がいった役職のことはなにも分からなかったけど、片眉を跳ね上げて「御算用者?」と呟いた匡秀さんは直ぐに苦い顔をする。


「まあお前ならば算術も算盤も問題無かろうが、あそこは」

「ああ。過労で倒れる者が頻出しているからこそ、柳井やないの家に話が回ってきたのだろう」

「つまり誰もが嫌がるお役目ってことだ」


 言葉を途中で奪われたことが嫌だったのか、その役目をおとなしく受け入れるつもりの信さんに対して苛立っているのか。


 匡秀さんは乱暴に吐き出した。


「匡秀口を慎め」

「なんだ?皆が言っていることだろう」


 不満そうに口の端を曲げる友人を信さんが困った奴だと言いたそうに微笑んだ。


「心中で思っているだけで口にしていなければ言ったことにはならない」

「同じことだろ。寺子屋で子の指導をしている方がお前らしいが、背に腹は代えられんと言うことか」


 残念だなと呟いた匡秀さんの横顔を信さんが見上げる。


「そこで相談なんだが」

「……寺子屋の件か?」


 内容を言う前に言い当てられて信さんは目を丸くしたけどすぐに嬉しそうに表情を和らげた。


「察しが良いな。お前以外に頼める者がいない。もし匡秀がよければ私の代わりに子どもたちを見てやって欲しい」

「ま、俺は気ままな次男坊だからな。信の頼みと憂いを引き受けてやるのもやぶさかではないが」


 ちょっと上からの匡秀さんの発言に「ありがたい」と応じた信さんに対して納得いかないのは匡秀さんの方で。


「お前はそれでよいのか?」

「寧ろこれ以上のことはないだろう」


 静かな声でそれでいいのだと言い張るお侍さんの名を匡秀さんはとうとう苛立ったように呼んだ。


「信!」

「匡秀。私には柳井の家を守る責任がある。妹の美和みわが嫁ぐ際には恥ずかしくないよう準備もしてもやりたい」

「――だからお前は真面目すぎると言うのだ」

「これが私だ」


 堪らずに視線を外した匡秀さんが「知っているさ」と吐き出して、それ以上なにも言わないようにと唇を噛みしめる。


 同じ下級武士でも環境は違うんだろう。


 この時代は長男が家を継いでいくのが当たり前だったし、親がいうことに逆らうなんて許されないことだったろうし。


 やりたいことを諦めて覚悟を決めているお侍さんのことを一番よく知っている匡秀さんが代わりに悔しがり、怒って、そして友だちのために大切な場所を守ると誓ってくれる。


 とても深い友情を持った二人を見ていると羨ましさと同時に切なくもなった。


 ままならない現実の中必死で生きようとしてるお侍さんが、どこで道を外れることになったのか。


 繋がった糸が絡んでいる場所を探して意識を切り替えた。



 疲れた表情をして信さんが夕暮れの道を歩いている。

 手には風呂敷包みを抱えて。


 足早に向かう道の先の門から青い顔の娘さんが飛び出してきてお侍さんの姿に気づくと「兄上!」と叫んで駆けてくる。


「どうした。美和」

「父上が、母上を」


 なにが起きているのか説明しなくても理解した信さんは「どうか父上を止めてください」と涙で瞳を濡らしている妹の美和さんを置いて家の中へと飛び込んだ。


 草履を乱暴に脱ぎ、土間が広がる玄関の上がり框を飛び越えるようにして廊下を走る。

 障子戸が開いている部屋の奥で男の人の怒鳴り声と女の人の啜り泣きが聞こえてきた。


「酒だ!酒を出せ!」

「どうか堪忍して下さい。それ以上召されては体を壊されてしま――きゃっ」

「煩い!私の体よりお前が気にしておるのは金の方だろう!」

「そんなことは!どうかっ!どうかっ!」

「ええい!そこをどけ!お前が用意できぬのなら私が酒を貰ってくるわっ!」

「ああ……!」


 突き飛ばされたのか。

 障子が揺れてなにかがぶつかる大きな音が響く。


 威嚇するような声を出してから廊下へと出てきた信さんのお父さまは、細面に似合う切れ長の瞳をした涼しげな顔立ちをしていた。

 でもお酒のせいで目が据わって顔色を失っているのと、細い眉が神経質そうな印象を更に増長させていて、できれば関わり合いになりたくない感じがする。


「父上!」

「……帰ったのか」


 廊下で鉢合わせした信さんをギロリと睨む。


「ただ今帰りました」


 お父さまの視線を受け止めて、ゆっくりと頭を下げる。

 そこに父親に対する恐れや怒りみたいなものは無いように見えた。


「申し上げにくいのですが、次の給金をいただくまでは酒の都合ができません。母上も着物を質に入れ、日々の食の工夫をしていますが、それ以上に父上の酒量が上回り――」

「黙れ!お前の働きが足りぬから給金が悪いのだろう!?なんのために御算用者の仕事を宛がってやったと思っておるのだ!佐代さよが大事に箪笥の奥に隠しておる着物がまだあるだろう!」

「あれは美和の嫁入りの際に持たせようと」

「そんなもの持って行ったとしても生活に困窮してどうせ売り払うのだ。ならば今金に換えるのとどう違う?」


 佐代という名前が出た途端に部屋の中から泣きながらもなんとか懸命に言い分を伝えようとしているお母さまを嘲笑ってお父さまは無情にも言い放つ。


 どう考えても間違ったことを言っているのも、理不尽なことをしているのもお父さまの方なのに。


 それ以上の反論をさせない威圧的な空気に沈黙が降りる。


「いいから持って来い」

「…………」

「早うせぬか!」

「……はい」


 お母さまの弱々しい声。

 そして廊下には出ずに奥の方へと遠ざかる気配と足音。


 それを聞きながらお父さまは腕を組んで「初めからそうしておればいいものを」と吐き捨てて部屋に戻りぴしゃりと戸を閉められる。


 廊下に取り残された信さんは暫くその場に佇んで指が白くなるまで拳を握っていた。


 なにを考えているのか分からないけど、固く結ばれた唇と一点をじっと見つめている横顔はとっても怖い。


「信さん」


 廊下の片方は部屋があるけど反対側は庭に面している。

 そっちから明るい呼びかけがありその声を聞いた途端にはっと我に返ったお侍さんは慌てて笑顔を浮かべた。


「……おたかさん」


 お貴さんと呼ばれた女の人は品の良い落ち着いた柄の着物を着た美しい人だった。


「こんな時刻に年頃の娘がひとりで出歩いては危ない」

「大丈夫よ。ご近所ですもの」


 くすりと笑ってからお貴さんは声を潜めて「言い争いの内容が聞こえるくらいのね」と付け加える。


 苦い顔をした信さんの前にそっと布に包んだものを差し出した。


「母がこれを」

「お貴さんそれは」

「いいのよ。美和さんのための着物を質になんて入れさせられないから」


 貴方の為ではないと言われてお侍さんは視線を揺らしていたけど結局「かたじけない」と項垂れて受け取った。


「困った時はお互いさま」


 気にしないでと言われても真面目な信さんがひどく気に病んでいるのは分かる。


「美和さん泣いていたわ」

「お恥ずかしい所を」

「やだわ。信さんたら。幼い頃から恥ずかしい所を沢山見てきているのに今更なにを言っているの」

「そういうことを言っているのでは」

「ふふふ。本当に信さんは固いんだから」


 夕日を背に笑うお貴さんはしょうがないわねって言いたそうに眉を下げて。

 それを眩しそうに目を細めて眺めるお侍さんの頬が赤かったのはきっと夕焼けのせいだけじゃないと思う。


「母に渡してくる。その後、送って行こう」

「ありがとう。では玄関の方で待っております」


 庭から玄関へと回っていくお貴さんの後ろ姿にちょっぴり見惚れてから信さんはお父さまのいる部屋には入らずに進み、別の障子を開けて入って行くと深い深い悲しい声がどこかからか聞こえた。


 ――この時はまだ良かったのだ

 と。




「信さん!」


 弾む声が彼を呼ぶ。

 同時に軽やかな足音。

 そして信さんは振り返りそれに応える。


一之進いちのしん。道場の帰りか?」

「そう。信さんはお勤めご苦労さまです」


 道場で「残念だったね」って信さんに声をかけてきた男の子が少し大人びた表情で目礼をした。

 彼は一之進くんっていうらしい。


「信さん、忙しいの?」

「それはまあ。普通のお役目に比べればな」

「……道場に信さんが来ないと匡さんが」

「私が来ないからと匡秀が萎れるとは考えられないから、偉そうな顔をして面倒だとかそういう話か?」


 しょんぼりと暗い顔を見せた一之進くんを笑わせようとわざと信さんがおどけたように返す。

 それを受けて「そうだよ」ともっともらしく大きく頷いて、変な空気を取り繕うような笑みが二人の間に生まれた。


 どちらからともなく帰り道を並んで歩きだし、傾いた夕日が長い影を道に映す。


「どうだ?少しは上達したか?」


 信さんがそう水を向けると一之進くんは頬をぷっと膨らませて「心配なら指導に来てよ」と愚痴る。

 行けない理由が仕事だということも分かってるからそれ以上は言わないけど、彼がとても信さんのことが好きで、とても寂しがっていることは伝わってきた。


 見ているだけの私でも分かるんだから傍にいる信さんが気付かないわけがない。


 目元を緩めて「時間ができたら必ず」と約束すると一之進くんは嬉しそうに大きく頷いた。

 その後は信さんが道場に顔を出せなくなった後の出来事を面白おかしく、時には怒ったり、悔しそうにしながら教えてくれる。


 一之進くんの無邪気さと明るさに信さんがどれだけ心を慰められたか。

 顔を見てれば分かる。


 ちょうど曲がり角に差し掛かった時、ずっと喋っていた一之進くんが顔を上げてなにかに気づいたのか足を止めた。

 そして目を瞬かせた後で「姉上?」と呼びかける。


「まあ。一之進。あら、信さんも?」


 茜色に染まった道の向こうから歩いてきたのはお貴さんだった。


 不思議そうに二人を見るお貴さんに信さんが「途中で会ったものだから一緒に帰ってきた」と説明すると彼女は途端に顔を顰めて弟を咎めるように睨んだ。


「お疲れなのに一之進のお喋りに付き合わされて大変だったでしょ?もう!少しは信さんのことを考えなさい。それから信さんも。はっきりいってもよろしいのよ」


 一之進くんはお貴さんの視線をふいっと横を向いてやり過ごす。

 その様子にお姉さんとしてのプライドが傷つけられたのか眉を跳ね上げて言葉を継ごうとする。


 その間に信さんがすっと入りお貴さんへと優しげな微笑みを向けた。


「いや。楽しかった。疲れていたからこそ一之進と話せて良かったよ」

「信さんは優しすぎます。男子なのに一之進はとにかくお喋りで、家族で呆れているくらいなのに」


 納得がいかないという表情で下から信さんを見上げるお貴さん。

 そんな姉を見て弟は信さんの後ろからひょっこりと顔を出して反論する。


「姉上は嫉妬しているだけなんだ。本当は自分が信さんと話したいだけなんだろ?」

「一之進!」


 お貴さんは声を高くして一之進くんを咎めたけど、否定はしなかったからきっとそういうことなんだろうな。


 微妙な空気の姉弟を穏やかな眼差しで見比べてお侍さんがまた笑みを深くした。


「送って行こう」


 俯いてしまっているお貴さんに信さんはそう言って一之進くんを促す。


「でも……お疲れなのに、悪いわ」

「そんなことはない。もう少し話したい気分だから丁度いいんだ」


 さあと手招かれてお貴さんは控えめに微笑んで、先に歩き出した二人の後を追いかけた。


 悲しいほどに幸せそうな三人の後ろ姿。

 ゆっくりと薄暗くなってきてまた声が聞こえる。


 ――もうすぐ終る

 と。



 薄暗い部屋の中には細長い板の下に脚をつけただけの質素な机が三列並んでいる。

 匡秀さんと膝を突き合わせた信さんが項垂れて見つめている腿の上で、握り締められている両拳がぶるぶると震えていた。


「もう、どうしようもない」


 父上は賭け事に嵌り相当の借財をしている。

 既に大切にしていた刀は売り払われ、明日の暮らしすら危ういと。


 そんな中。


「胴元が借金の代わりに美和を寄越せと言ってきた」

「なんと……!それでお前はどうするつもりだ」


 妹を売り渡したところで父上が変わらねば意味はない。

 そして変わる希望などがないことは承知している。


 だからこそ。


「もう、」

「信」

「終りだ……」


 頭を抱えて蹲り静かに「終りだ」と繰り返す信さんの姿を匡秀さんは怖い顔で眺めていた。

 いつの間にか陽は落ちて、お互いの顔の判別もつかないほどの暗さが部屋の隅から徐々に侵略してくる。


「本当に終わりか?」


 ぽつりと呟いた匡秀さんの声はぞっとするほど低くて、同時に思わず縋りつきたくなるほどの強い力に満ちていた。


「匡秀……?」

「俺が諦めの悪い男だと知っているだろう?終わりだと嘆く前になにができるかを考えろ」

「なにが、できるか?」


 涙で濡れた顔を上げ、匡秀さんの言葉の意味がじっくりと理解できるようになった頃。

 信さんの瞳に少しずつ力が戻ってくる。


「碌でもない父親などに信たちの人生を簡単に終わらせなどさせん」

「匡秀」

「こうなっては父も身分も名誉も意味はない。それは分かるな?」


 鋭い視線は信さんの揺れている心を射抜くように真っ直ぐ注がれている。


「……もちろんだ」

「ならば捨てろ」

「――――!」


 息を止めた信さんに匡秀さんは迷いを断ち切るかのように「できるな?」と念押しをする。


 きっと色んなことが頭の中で浮かんでは纏まらずに揺れ動いているんだろう。

 それでも信さんは顎を引いて「できる」と答えた。


「上出来だ。では母上殿と美和殿を説得へ行こう」


 善は急げと笑って腰を上げた匡秀さんに背を押されるようにして立ち上がり外へと出た。


 長屋づくりの家の窓から漏れる頼りない蝋燭の灯りを頼りに二人は歩いて行く。

 それは小走りに近い早足で、彼らの焦りや不安を表しているみたいだった。


 無言で進む二人の前から小さな影が飛び出してきて匡秀さんが腰の刀に手をかけ、信さんも顔を強張らせたまま身構えたけどその相手が一之進くんだと気づいて互いに顔を見合せる。


「一之進。どうした?もう暗い。こんな時間にウロウロしていては危ないぞ」


 先に動いたのはやっぱり匡秀さんで、ハアハアと息を乱している一之進くんの背中を大きな掌で擦ってあげた。


 必死でここまで走ってきたんだろう。

 なんとか呼吸を整えて早く伝えなくちゃと一之進くんが顔を上げた。

 その顔は青白くて今にも泣きそうだ。


「信さん、大変だよ……美和さんが、ヤクザ者に――!」

「なんだと!?」

「美和が」


 匡秀さんは一之進くんの肩を掴んで自分の方を向かせて、どっちへ行ったかを急いで聞き出すと信さんを振り返った。


「お前は母上殿を連れてすぐに家を出ろ。美和殿は俺がなんとかする」


 厳しい表情で匡秀さんが指示をだすけど、信さんは従えないと首を振る。


「しかしそれでは匡秀が危ない。美和は私が――」

「刀も無いお前に何ができる?それに俺の方が強い」

「だが」

 それでも簡単に受け入れられる提案じゃない。

 渋っている信さんを見て苛立たしげに舌打ちをした匡秀さんは声を荒げた。


「くどい!美和殿を助けるのは俺でもお前でも良いが、母上殿の説得は信にしかできん。聞き分けろ」

「……分かった」


 危ない方を匡秀さんに任せるしかないことをすごく悔やみながらも、そうするしか方法がないことを感じて信さんは納得しようと努力した。


「街道脇に古い堂がある。そこで落ち合おう」

「必ず」


 時間がないことを知っているから二人は目だけで頷き合ってそれぞれの方向へと急ぐ。

 お侍さんは一之進くんを連れて。


「……信さん、行っちゃうの?」

「すまない」

「もう、帰ってこないの?」

「……すまない」


 短いやり取りの間でも歩きは止まない。

 子どもには辛いだろう速さで。


 辿り着いた柳井の家の前。

 信さんはそっと屈んで一之進くんと目線を合わせた。


「大変世話になったとお貴さんと母上殿に伝えておいて欲しい」

「信さん」

「お前は間違うな。私ではなく匡秀のような男になれ」

「……信さんっ」

「達者でな」


 言葉を断ち切られた一之進くんは涙で目を潤ませてたけど、ぐいっと袖で目元を拭った後で走り去った。



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