メンドクサイけど忘れずに
階段を登り終えて山門を潜ろうとするのと、お寺側から人が出てくるのが一緒になったので少し横にずれて道を譲った。
そうするとその男の人は歩を止めて山門の屋根の下から空を窺うように首を伸ばす。
その首の白さ。
ううん。
首だけじゃなくて肌全体が白いんだ。
それは濡れたように艶めく黒い長めの髪や着ている服が全部黒いことも原因のひとつなんだと思う。
「お嬢さん、雨が降るので急いで中へ入った方がいいですよ」
「え?雨?」
晴れているのに?
不思議に思いながら同じように空を見上げてみるけど雨雲もなければ、降りそうな気配もない。
「私は雨男なんです」
温度も抑揚も無い声が囁いて男性は持っていた黒い傘を空に向けて開く。
「では」
「あ、はい。お気をつけて」
「……ありがとう。貴女も」
黒く磨かれた靴が一歩階段へと差し出された時。
微かな水の香りが漂い。
ぽつり。
「え?」
灰白の石の上に黒い染みが湧く。
慌てて空を見れば青から白へ色は移ろい、鈍色の雲がもくもくとそれらを飲み込もうとしていた。
「本格的に降り出しちゃいそう……急がなきゃ」
荷物を抱え直して山門を抜け、参道を走り寺務所と本堂へと分かれる場所で左側へと向かう。
寺務所の玄関が見えてきた辺りで本降りになり、ザアザアと境内を包んでいた。
「ただ今戻りました」
開けながら声をかけるけど誰もいないのか返事はない。
午前中はここに詰めていることが多い宗春さんだけど、午後からは寺務所を開けて色んな細々とした用事をしていることが多いからね。
時計を一応確認すると時刻は二時二十三分で門限の三時には間に合っいてほっとした。
上り口で靴を脱いで廊下を進み居住区である居間へ行くとテレビの音が聞こえてきたので、真希子さんはいつもの定位置にいるらしい。
「真希子さん、戻りました。外、雨降ってますけど、お洗濯物中に入れますか?」
障子を開けて覗き込むと真希子さんは微動だにせず画面に食い入っている。
こういう時はそっとしておく方がいいと大八さんにもいわれているのでそっと閉め、買ってきた和菓子の袋を台所のテーブルに置いて鞄と洋服の入った袋を床に降ろしてから勝手口へと向かう。
一段下がった土間のサンダルを履きドアを開けるとウッドデッキになっているので、雨の日でもぬかるんだりしないし、ちゃんと濡れないように屋根があるから大丈夫なんだろうけど。
湿気るし。
一応触って確かめると乾いてたから手早く取り込んで、山のような洗濯物を抱えて台所へと戻った。
大量の衣類をどうしよう?
勝手に畳んでいいのかな?
迷いつつ居間に戻り、聞くべきかどうかでまた悩み。
結局そのまま放置はできないので畳に座って一枚一枚丁寧に折り畳んだ。
不思議と誰のものか分かることがなんだか楽しくて夢中になって仕分けしながら作業に没頭しているとあっという間に三時になった。
「ふう……終わった。畳み方が気に入らなかったらセルフで畳み直してもらおう」
さすがにそれぞれの部屋まで持って行くわけにもいかないので、部屋の端に置いてから立ち上がり真希子さんに近づいてみた。
「真希子さん。樺島堂で栗饅頭と塩豆大福買ってきたのでお茶にしませんか?」
「んー……」
だけど真希子さんの返事は上の空で、じっとテレビを見つめている。
流れているのはグルメ番組でお笑い芸人さんがアイドルの女の子と楽しそうにお喋りしながらどこか地方の町を歩いている場面だった。
でも真希子さんは中央でわいわいしている出演者じゃなくて周囲の町並みの方を一生懸命に見ている。
「あの……真希子さん、そんなに真剣になにを見てるんですか?」
「え……?ああ、紬ちゃん」
どうやら私がすぐ傍まで来ていることにすら気づいていなかったらしい。
テレビから視線を離すのが嫌なのかこちらを見ようともしないけど、意識ははっきりとこちらの方へと向けられたのは分かった。
「もしかして行ったことのある場所なんですか?」
「んーん。違うけど、もしかしたら映るかもしれないじゃない?」
「もしかしてお知り合いの方がいらっしゃる?」
「んー。かもしれない」
要領を得ない真希子さんの返答に戸惑いながら隣にちょこんと腰を下ろす。
そのまま芸人さんとアイドルの子は一件のうなぎ屋さんに入って行き店主とのやり取りが始まったところで切ないため息が漏れる。
「ああ……やっぱり映らないかぁ。ま、映った所で生中継じゃないから意味無いんだけど」
残念そうに呟いて視線は畳の上へと落ちた真希子さん。
同時に肩もがっくりと下げてあまりにもしょんぼりとした様子に、私はあわあわしながら「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「だめ。全然ダメ!もう寂しくて死んじゃう……」
「そんなっ!真希子さん、死なないでください!」
突然わっと顔を覆って俯いた真希子さんの淡いピンクのモヘアのセーターを軽く引っ張るものの、焦るばかりで気の利いた慰めの言葉も出てこないなんてどれだけ私は情けないの?
「あの、あの、私、真希子さんが死んだらすごくすごく寂しいです。だからお願いです。死なないでっ」
それでもなんとか少ないボキャブラリーの中から引っ張り出してきたんだけど、よくよく考えたら小学生よりも劣る内容で恥ずかしくなる。
それでも必死で「死なないで」「いないと寂しい」を繰り返していると、真希子さんの肩が小刻みに揺れ始めた。
え?
ちょっと泣いているには揺れ方おかしくない?
肩だけじゃなくて背中や腕まで震えているし、耳と首筋がほんのりと赤くなっている。
まさか――。
「っく!う、ぷくく……!紬ちゃん、ごめん」
ですよね。
ええ、そうですとも。
「もう、心配して損しちゃいました」
「ごめんごめん」
顔を上げた真希子さんの顔には微笑みが浮かべられているのを見て私は正直ほっとした。
だって柔らかく細められた目尻の縁が赤く瞳も潤んでいたから、真希子さんが本当に寂しくて堪らなかったんだってことは分かるから。
わざと冗談にして湿っぽい空気を引きずらないようにっていう大人の配慮はさすがだなと思うし。
「いいですよ。真希子さんが寂しすぎてテレビの向こうを期待して見ちゃう相手って一人しかいないですから」
「うふ。分かる?」
「そりゃ分かりますよ」
「そっか」と呟いて吐かれた溜息は重く切なくて、私は胸の奥の方で痛みを感じた。
妖退治を請け負うお寺に生まれた真希子さんの夫である久世隆宗さんは、旅から旅へと移動してなかなか家に戻れない。
連絡も無いから今どこにいるのか分からない旦那さまのことを、真希子さんはこうしてテレビの中継や番組を映るかもしれないっていう希望を胸に見ているんだろう。
何度もがっかりしながら、それでも探してしまう真希子さんの気持ちを考えると切なくて、苦しくて一緒に泣きたくなる。
「だからテレビが好きなんですね」
「あら?だからってわけでもないわよ?元々テレビ好きだったから」
ただ見る目的が変わっただけで。
「ふとした瞬間に隆宗さんはどこにいるんだろう?ちゃんとご飯食べてるのかしら?とか思っちゃうし、ひとりでお布団に入る時にはもうすっごく寂しくて」
傍にいて欲しいって、困っている人たちのことや寺が守ってきた役目を思えば思っちゃいけないんだけど。
「やっぱり大好きな人だから独り占めしたいって思ったりするわけなのです」
「そりゃそうですよ。そんなの当たり前ですよ」
そう。
当たり前のことなのに、それが許されないんだ。
「んふ。ありがとう。わたしね、隆宗さんが初恋の人なの。お付き合いしたのも彼だけ。だからきっと良かったんだと思う。だって色々と他の人と比べちゃうし、じっと帰りを待つだなんてできなかったわ」
だってこんな結婚生活寂しすぎて我慢できなかったと思うから。
「でも、真希子さんは待つんですもんね」
「そりゃ愛しい旦那さまですもの」
ずっと無事で帰ってきますようにって、祈りながら暮らす日々はどれほど辛いだろう。
うんうん。
寂しくて死んじゃいたいと思うよね。
でも。
「羨ましいです」
自分の思いを殺してでも相手に添おうとする真希子さんの姿は、妻として母として、そして女性としても強くて優しい。
そこまで誰かを深く愛せるなんて普通はできないんじゃないかな。
「あら。紬ちゃんのお父さまやお母さまも思いあっているご夫婦だから、きっと紬ちゃんも幸せな結婚ができるわよ」
大丈夫――なんて微笑んで真希子さんは言ってくれるけど、私にはまだとてもそんな未来は想像できない。
そもそも臆病な私が恋することができるのかな?
傷つくのよりも傷つけることの方が怖くて、好きになるより嫌われることが怖いのに。
もちろん。
経験のないことに怖気ついてしまうのは仕方のないことで。
そりゃいつかはとか少しくらいは夢見たりするけど。
まだその一歩を踏み出すには勇気が足りない。
自分を信じられないから。
もう少し自信を持てるようになったらゆっくり考えたい。
諦めてきた色んなことを。
ちょっとずつ。
始めたい――とは思っている。
「紬ちゃんが選んだ相手ならわたしは全力で応援するわ。たとえそれが人でも妖でも。だからね。怖がらなくていい。心に嘘はつかなくていいから」
「真希子さん……」
「うふふ。そりゃもちろん宗明や宗春を選んでくれたら一番いいんだけど、紬ちゃんの周りには素敵な男性がいっぱい現れそうだしね」
「いぎっ!そんなはずは」
「ご縁はどこで結ばれているか分からないもの。遥か遠い所なのか、それともすごく近い所か。だからね。楽しみにしていればいいの」
これから訪れる色んな出会いを。
「そしておもいっきり楽しめばいいのよ。いっぱい笑って、いっぱいお洒落して、いっぱい遊んで」
若いっていいわねって笑う真希子さんの方が私よりよっぽど乙女で愛らしいのに。
でもこの可愛らしさを引き出しているのは遠く離れた場所で危険な仕事をしている隆宗さんで。
きっと隆宗さんも離れて生活するのが辛いはずだ。
人と妖の平穏な暮らしを守るために戦っているのに自分は愛する奥さんと子どもに会えない暮らしを続けるなんて私だったら途中で放り出してしまう。
誰かの幸せの為に自分の幸せは後回しだなんて。
「そうよね……わたしと同じような寂しい思いはして欲しくないから、やっぱり宗明や宗春じゃなくて他の人を選んだ方がいいわ」
残念だけど。
「紬ちゃんには誰よりも幸せになってもらいたいから」
私の頬を両手で優しく包んで願いを込めるように幸せを望まれたら。
なにも言い返せなくて。
ほんとは真希子さんが不幸には見えないことや、子どもが成人した後でも堂々と旦那さまを愛していると言えるなんて素敵なことですよって言いたかったのに。
全部言わせないように微笑まれたら。
「……がんばります」
としか出てこなかった。
悔しい。
ほんとに。
そして気づいた。
銀次さんは人に本気になるのが怖いって言ってたけど、それって人間同士だろうと妖同士だろうと誰かに恋するということはやっぱりちょっと怖いってこと。
始まってしまったらしまったで不安になったり、迷ったりするんだろうし、実ったら実ったでいつか終わりがくることを気にしてしまいそうになる――のかもしれない。
まあ恋愛未経験である私には憶測でしかないんだけど。
「あの、樺島堂でお菓子買ってきたのでお茶にしませんか?」
「あら。いいわね。じゃあお茶淹れましょうか」
よいしょと掛け声をかけて立ち上がり真希子さんはいそいそと廊下を横切って台所へと入って行く。
私もお手伝いしようと後を追えば真希子さんは袋を開けて中身を確認している所だった。
「あらあらあら!全部宗明の好きなものじゃないの!」
「はい。他にも美味しそうなのたくさんあったんですけど、せっかく宗春さんに教えていただいたので。あ、羊羹はお店の人におまけでもらっちゃいました」
「ここの羊羹も美味しいのよ。良かったわね。じゃあ、これ」
水屋から平べったい素焼きの皿を取り出して栗饅頭と塩豆大福、それから羊羹もひとつずつ乗せて「はい」と差し出される。
受け取ったものの、わけが解らずきょとんとしていると真希子さんは本堂の方を指差して微笑む。
「うちはお寺だからね。美味しいものを頂いた時には先に仏さまに召し上がってもらわないと」
「あ!そうですね」
そういえばおじいちゃんの家に遊びに行ったときも持って行ったお土産は直ぐに仏壇へとお供えされていた。
「ついでに宗明も本堂にいるだろうから声掛けてきてくれる?」
「分かりました」
「大八さんは勝手に呼ばなくても来るだろうから」
「なるほど。じゃあ宗春さんは?」
「ああ、あの子は間食しないし今は出かけてるから大丈夫よ。夕ご飯の時に食べるかどうか聞くわ」
う~ん。
間食しないってやっぱり甘い物嫌いなのかなぁ。
なんとなく甘い物だけじゃなくて食べ物全般に執着心が無い気がする。
「いってきます」
「よろしくね」
和菓子を盛り付ける皿を物色し始めた真希子さんの後ろを通って廊下を本堂に向かう。
途中から縁側に出て、窓越しに激しく地面を打つ雨を横目で見ながら進むと、お線香の柔らかい香りが漂ってきて少しずつ厳粛な空気が増してくる。
外廊下へ出るとそこはやっぱりほんのりと湿気っていて、靴下の裏がだんだんと冷たくなっていく。
こういう気持ち悪さを感じると、宗明さんや宗春さんみたいに裸足でいることの方が楽でいいのかもって思っちゃうなぁ。
雨が落ち薄暗くなった本堂は蝋燭の灯りだけがぼんやりと浮かんでいる。
そっと中を覗き込むと入口側に茶卓に乗った湯呑が二つ並んで置かれていた。
近くにお盆もあったので、お供えが済んでから片付けようと畳の上に足を着く寸前にしっとりとした靴下で上がるのは申し訳ないと、お菓子の乗ったお皿を左手に持ち、右手だけで雑に脱ぎ捨てる。
うん。
この靴下も後で回収することにして今は放置だ。
無残な姿で廊下に転がる靴下を一旦忘れてしずしずとご本尊さまのいらっしゃる一段高い場所へと上がり、すでに色んなお供え物がある中央の仏さまの前にそっと置いた。
手を合わせお願いごとはせずに「いつもありがとうございます」という感謝だけを呟いてふっと息を抜いたところで後ろから名を呼ばれる。
「あ、宗明さん」
「どうかしましたか?今日は商店街の方へ出かけると聞いていましたが、なにかありましたか?」
外でなにかあって動揺を静めるためにここで手を合わせているとでも思ったのか。
心配性な宗明さんはちょっと怖いくらいの表情で近づいてきた。
「大丈夫です。なにも、あ、久しぶりの外出は楽しかったです。商店街の和菓子屋さんでお菓子買ってきたので先にお供えするものだって真希子さんに教えてもらって」
「ああ、そうでしたか」
ほっとした様子で微笑んでくれるのを見て、ありがたいなと思いながら笑い返す。
「真希子さんがお茶を淹れてくれているので、宗明さんも一緒にどうですか?」
「いえ……いや、そうですね。ではご一緒に」
「はい。じゃあ行きましょう」
誘ってから段差を下り、正面入口側の湯呑と茶卓をお盆に乗せていると「ああ、すみません」と恐縮している宗明さんを見上げて首を振る。
ちゃんと忘れずに靴下も拾い上げて宗明さんと二人で居間へと戻った。




