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諦めるの?



 外へ、外へ。


 私を形作る境を越えて外へ。


 本堂の板戸から出て回廊を超え、参道が伸びる境内をゆっくりゆっくり慎重に進む。

 身体から離れると不安になるからできるだけじりじりと。


 ――あ、良い匂い。


 風に乗って外から香る匂いはほんのりと甘くてお出汁と醤油が程よく煮詰まったもの。

 鼻の奥がちょっとツンとした刺激を感じそれが酢によるものだと気づけた自分を誉めてあげたい。


 ――これはあれだ。


 油揚げがつやつやと輝き酢飯を包んだ丸々としたあれが透明のパックにきゅっと並んだ姿が目の裏に浮かぶ。

 最近私の好物に仲間入りしたあれの香りに間違いない。


 匂いだけでもご馳走だなぁ。


 うっとりとしているとお腹がぐぅと鳴り、その拍子に体へと引き戻された。

 同時に重い頭痛と怠さに襲われてヨロヨロと畳の上に倒れる。


「大丈夫か?」


 露草の小さな手がぺちぺちと頬を叩く。

 その感覚すらもどこか遠くに感じて私は「うん」とも「ううん」ともつかない声で唸った。


「おいなりさん……コン汰さんの……おいなりさん」


 食べたいよぅ。


 もう一度座りなおして匂いだけでも嗅ぎにほのかまで意識を飛ばそうかと本気で考えていると外から舞い込んだ風がさっきの香りを連れてきて思わずむくりと起き上がる。


 くらり――軽く眩暈がしたけれど、抗いがたい匂いに誘われて畳を這いながら板戸を超えて外廊下の板張りまで出た。


「ああ……コン汰さんの、良い匂いが!」


 鼻をくんくんさせながら堪能している姿はきっと外から見れば相当やばい女にしか見えないと思うけど、だってね?今はこの香りを胸に――否、胃の中に収めたいという純粋な欲求しか頭にないのだ。


 変態女で結構。

 全然平気!


「ああ……ああ……コン汰さん!」

「やめい!空け!」


 飛んできた露草が後頭部に蹴りを入れたので頭がかくんと大きく傾いだ。

 その瞬間に手摺の向こうで困ったように立ち尽くすコン汰さんの姿を見て「ひっ!」と悲鳴を上げる。


 ていうか!


「なぜここに!?」


 今はお昼で丁度稼ぎ時なはず。

 そんなコン汰さんが千秋寺にいる時点でおかしいんですけど。


「ええとこちらの姫君がうちの稲荷寿しが食べたいとのことでおれが配達に」


 白いビニール袋を掲げて細い目を更に細めて笑ったコン汰さんは顔を奥の院の方へと向けた。


 なるほど。

 天音さまか。


 分かる。

 配達お願いしたくなるくらい美味しいから。


「ああ……それで、良い匂いが」


 きゅるきゅると音を立ててるお腹も最初は誰かが酔っぱらっていびきでもかいているんじゃないかと言うほど大きかったけど今では弱々しく妖精の溜息のようなささやかさだ。


「小宮山さん涎が」

「あ!すみません」


 コン汰さんが指で自分の口元を指して教えてくれたので慌てて手で拭う。


 いけない。

 身体は正直だ。


「お昼、まだなんですか?」

「お昼というか、朝も、夜もその前のお昼もまだ……?」

「え!?」


 上半身を仰け反らせて驚くコン汰さんに今は修行中で断食しているのだと告げると「それは大変申し訳ないことをしました」と袋を後ろに隠す。

 それでもいい香りは漂っていて私の心を惹きつけてやまないんだけど。


「ああ、コン汰さんが前に匂いはご馳走って言った意味がよく分かります」


 銀次さんからもコン汰さんからも匂いがするって言われてそれはどういう意味ですかって尋ねた時の答えが「あなたの匂いは堪らないご馳走だから気を付けて」だった。


 あの時は匂いがご馳走って意味が分からないって思ってたけど。


「これはほんと……たまらないです」

「止して下さいよ。そんなこと言うのは」


 居心地悪そうにしながらコン汰さんは少しずつ後ろに下がっている。

 ああ美味しい匂いもちょっと遠退いた。

 無念。


「ああ、そうだ。コン汰さんに私謝らないといけなくて」


 食欲に頭を支配されていたから肝心のことを忘れていた。

 コン汰さんが目をぱちぱちと瞬かせて「なんですか?」と首を傾げると後ろでひとつに結ばれた長い金の髪がさらりと揺れる。


「私がコン汰さんのことを好きだと亜紗美さんに誤解されていることです」

「……そんなこと、小宮山さんが気にする必要は」

「ありますよ!」


 逸らされた視線があまりにも力がなくて、誤解した亜紗美さんにどんな態度をとられているのかなんとなく分かってしまって胸が抉られたように痛んだ。

 好きな人に素っ気なくされたり、前みたいに笑ってお話しできなくなるのはすごく辛いだろう。


 もしかしたら冗談めかして「紬ちゃんと付き合ったら?」なんて言われたりもしてるかもしれない。


「私の言葉が足りなかったせいで本当に申し訳ありませんでした」


 最近謝罪したりお願いすることが多いから慣れたもので。

 手を着き床に額をこすり付けんばかりの勢いで頭を下げるのに躊躇しなくなってきたな。


 土下座された方は飛び上がって動揺しているけど。


「小宮山さん!頭!頭を上げてください!そんなことしてもらわなくても、おれはこれで良かったんだと思ってて」


 なぬ?

 それはどういう?


「もちろん誤解されたままでは小宮山さんも困るでしょうから誤解は解きましょう。でも亜紗美さんとはこれを機に距離を置こうと思っていて」

「そんなの!」

「いいんですよ。元々告げるつもりなんてないんですから。このまま自然と離れた方がお互いにいいんです」


 その方がいい――と自分に言い聞かせるようにコン汰さんは繰り返した。


 人と妖の恋は難しいから。

 諦めると。


「いいんですか?ほんとに」

「初めからそのつもりでしたから」


 コン汰さんの微笑みは寂しくて。

 痛々しい。


 でもそこに亜紗美さんを思って諦めると決めている優しさと愛があって。

 良く知りもしない私が色々と言えないんだと、言わせないんだという強さもあった。


「コン汰さん……」

「大丈夫です。妖は永遠の時がある。だからその長い年月の間にゆっくりと忘れますから」


 裏を返せばそれくらいの時間をかけないと忘れることができないということ。


 そんなに好きなのに。

 そんなに大切なのに。


 本当のことを亜紗美さんには伝えられないなんて。


「銀次が会いたがってました。いつかまたお店にいらしてください」

「……はい」


 そういえば柘植さんにタオルを返しに店に来いって言われてたのを思い出す。

 もうここでコン汰さんに頼んでも良い気がする。

 でも約束を守らなかったってコン汰さんにねちねち意地悪されても困るか。


「落ち着いたらコン汰さんのおいなりさん買いに行きますね。今こんなに良い匂い嗅いだらもう頭から離れないです」

「ほんとすみません」


 頭を掻いてコン汰さんはこれ以上長居しては気の毒ですからと奥ノ院の方へと歩いて行く。

 ほっそりとした身体はそれでもすっと背筋が伸びていて綺麗だ。

 ふさふさとした大きな尻尾が揺れているのが薄らと見えて触り心地が良さそうだなと思いながら私も本堂へと戻った。



 ★  ★  ★




「うーん……どんなに甘く見繕っても全然合格点には届かないけど、こんな簡単にできるようなことで足踏みしている時間も惜しいから次に行こうか」


 辛口でおっしゃりますがこれでも少しは外側へと意識を解放できるようになった方だと思う――すぐに戻ってきちゃうけど。


 宗春さんが次は遮断のやり方を説明してくれる。


 それがなんとも豪快で。

 多分これ正式なものじゃなく私に合わせてくれているんだろうけど。


「ドアとかじゃなく……シャッターですか?」

「そう。勢いよく全てを一気に拒絶するくらいの勢いでおろす」


 ドアでは厚みや強度に問題があるらしく。

 でもそれってイメージの問題であって物理的なものとはまた違う気もするんですけど。


「……それって間違って挟まれたら怪我しませんか?」


 右の眉を跳ね上げて「は?なに言ってんの?」とそれだけで雄弁に伝えてくる宗春さんから目を反らして反射でごめんなさいと謝罪する。


「まだ自分が置かれた状況が分かってないようだからはっきり言っておくけど」

「うぐ」

「無暗に干渉してこようって相手は人であれ、妖であれ碌な相手じゃない。誰もが善人であるという愚かな前提をまずは捨てて、自分を守るために必死になるべきだね。だいたいいつまで守ってもらうつもり?紬が目指しているのは共存であり依存ではないはず。自分の身を守れるのは結局他の誰でもない」


 自分自身しかいないのだと――珍しく語気を強めて叱られる。


「どうしても自分に自信が持てないとか自己憐憫に浸るのが楽しいのかもしれないけど、虚勢を張ることで最低限の自衛ができるなら凛と立って毅然と顔を上げていればいい」


 どうしてそれができないのか。

 理解できないから苛立っているように見えた。


 もちろん私も悔しい。


 ここまで言われてできないことが。

 とても。


 噛みしめた奥歯がギリッと嫌な音を立てた。


「遮断するということはいつも紬がやっているような自分の殻に閉じこもることとは全く違う。外への通路を断つと同時に外への警戒心を強固にする必要がある。外へと意識を向けたまま、守りを固め侵入を防ぐために集中し続けなきゃいけない」


 普通の状態でも集中できる時間は短いのに外と警戒と自分を守ることという三点を同時に行うことは難しいと言うよりも不可能に近く感じる。


 でもやらなくちゃいけない。


「まずはシャッターを閉じることから始めて。僕はちょっと他にやることがあるから後で見に来る」


 それまで自主練。


 説明とイメージを伝えた後は放置ってとっても不親切だけど、宗春さんが忙しいのは事実なのでおとなしく頷く。


 宗春さんには理解できていることを上手く理解できない私をもてあまし、どう教えたらいいのかちょっと困っているようだし。


 少し焦っているようにも感じる。


 まあ、それは私もなのでお互いさまなんだと思う。


 宗春さんを見送った後で腿の上に軽く握った拳を乗せて大きく深呼吸をすると眉間の奥がズキリと痛んだ。


 えっとまずは集中から。


 呼吸を整えながら心臓の音に耳を澄ませる。

 知らない間にお腹の真ん中辺りに力がきゅっと入って、ふわりとそこから温かいものが広がって行く。

 下は腿から膝、脛を通って踝、土踏まず、足の指先へ。

 上は鳩尾から胸、鎖骨、首の裏を流れて後頭部から額、そして顎と鼻、眉間へ。


 私の身体の形を辿って確かめた後でそこから抜け出すのはちょっと気持ちが悪い。


 目に見えている景色の中に確かにいるのに、私の意識だけが少しだけズレて――浮遊する。


 本当なら背中の方にあるご本尊さまや左右に控える脇侍の二仏さまの様子は見えないんだけどこの状態なら良く見えた。


 外からの太陽光だけではなかなか影になって仏さまのお顔は分かり辛いけど真ん中のご本尊さまは穏やかな表情で無駄な装飾のない衣だけを纏った姿でそこに在る。

 剣を携え炎を負った厳めしい顔の仏さまも、厳しいお顔で座していらっしゃる仏さまもずっと後ろから見守ってくださっていた。


 その前に供えられたりんごや柿の赤さや昨日鈴花すずかのお姉さんが持ってきてくれた花びらが大きく広がった白い菊と黄色の小さな小菊と鮮やかなアマリリスと愛らしいコスモスが眩い。


 天井の伽藍も畳の目や縁も板戸の重なりや傷み具合も良く磨き上げられた廊下も全部。


 感じられる。

 生き生きと。


 でもこれはきっと私がこの場所に馴染んでいるからできることで、ここから離れた外の世界でそれができるかと聞かれたら自信はないなぁ。


 外へと注意を払っている今の状況で精一杯。

 更にその先を求められても簡単には――。


 ――キシッ。


 床が沈んで立てた小さな小さな音。

 その後に微かな足音と衣擦れの音。


 誰か来た。


「――っ!」


 集中が解けた私はあっという間に自分の中へと逆戻り。

 見えていたはずのものが見えなくなり、途端に聞こえていた床の軋む音も足音も衣擦れも遠のいた。


「ああ……」


 これが本当に危ない時だったら集中が解けてしまったことで周りが見えなくなって相手の場所を探ることもできなくなって危機的状況になっちゃうのに。


 こういう時こそ平常心でいられるようにならないと意味が無いんだろうけど。


「難しい……!」


 頭を抱えて悶えていると「小宮山さん?」と気遣わしげな声が聞こえてきた。

 はっと顔を上げると寺務所側の廊下から本堂に入ってくる宗明さんと視線が合う。


「大丈夫ですか?初めての断食で体調が悪くなったのでは」

「あ、いえ。そういうわけでは」


 確かに頭が痛くて体が重いけど、寝込んでしまうほどではないし。

 それに集中が上手くできている時は不調も空腹もどこかにいってしまうくらいで。


「集中力を保つのは難しいな~と思ってただけで」

「そうですか」


 音も無く私の目の前までやって来て、宗明さんは向かい合うようにして正座をした。

 その姿は本当に美しくて頭の先から足の先、そして指先の全てにまで意識が隅々まで行き届いているという感じがしてうっとりとする。


「では瞑想をやってみましょうか」

「瞑想……ですか?」

「はい。心が落ち着く効果がありますので気分転換と思って」


 気分を変えるためといわれれば断る理由はないので「お願いします」と頭を下げた。

 宗明さんが徐に足を崩して胡坐をかき、視線で促されたので同じように座ってみる。

 身体が固いからか膝が浮き上がってしまう。

 正座に慣れてしまっていたからちょっと座りにくい。


「失礼。これをお尻の下へ」


 見かねた宗明さんが立ち上がって座布団を持ってきた。

 半分に折ったものを差し込まれ座りなおすと膝が安定してだいぶ良くなる。


「ありがとうございます」

「いいえ。片方どちらかの足を腿の上に乗せるともっと座り易くなりますよ」


 やってみると膝が腰の位置より下になり自然と背筋が伸びる感じがした。


「そのまま骨盤を真っ直ぐに立てるような感じで、そう。もう少し……背筋を伸ばして、肩は力を抜いて……顎を引いて」


 言われるまま姿勢を正すと初めて体が一本の木のようにしゃんとした気がする。

 足元はどっしりとしていて、幹は真っ直ぐ。

 こうしていると枝葉が空へ向けて自由に伸びていくような――そんな心地よさが味わえる。


「すごい……座り方ひとつ、姿勢ひとつでこんなに違うんですね」

「はい。それを素直に感じられるということは以前より成長されたと思います」

「ほんとに!?」


 なかなか宗春さんが誉めてくれないからこうやって頑張りを認められると本当に嬉しい。

 感動している私に小さく頷いて宗明さんはさっき座っていた場所へと移動して胡坐をかく。


「では目を閉じて」


 先に閉じた宗明さんにならって瞼を下ろす。


「舌は上顎につけて」


 静かで深い声に誘われるまま。


「ゆっくり鼻から吸って、倍の時間をかけてゆっくり細く長く吐き出す」


 いち、に、さん、し、ご。


 お腹の中がいっぱいになったら。

 いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう――。


 ただそれを繰り返して。

 お互いの呼吸の音だけが本堂に響く。


 いち、に、さん、し、ご。


 風も音も気にならなくなる。

 意識しなくてもできる呼吸をコントロールすることで身体が、心がゆっくりと解けていく。


 不思議。


 とても。

 気持ちがいい。


「呼吸法は身に着けておいて無駄にはなりません。呼吸が乱れれば心も体も乱れる。それは集中力も例外ではありませんから」


 では頑張ってください。


 遠くでそんな声が聞こえたけど、それもなんだか気にならなくて。


 瞑想の世界から戻ってきたのは外が薄暗くなり始めてからだったので驚き、途中で宗春さん様子を見に来なかったのかな?なんて考えながら大きく伸びをした。




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