余程遠い人
とぼとぼと山を下りる私の手には空っぽのペットボトルの入った袋がひとつ。
ええ。
そうです。
また失敗してしまいました。
「ああ……ほんと、情けない」
意気消沈して戻ってきた私を迎えてくれたのはお玉を持った真希子さんだった。
どうやら夕ご飯を作りながらもいつ帰ってくるのかと心配してくれていたみたいで引き戸を開ける音に気づいて奥から猛ダッシュで駆けつけてくれた。
「お帰りなさい。寒かったでしょ?まったく!宗春ったら、どうしてこんな時間に行かせるのかしら!」
ぷりぷり怒りながら私の手から袋を奪い取ってその辺に放り投げ「さあ、ご飯にしましょう」とにこりと微笑んで促してくる。
靴を脱いで上がりどうやら用意してくれたらしい可愛いウサギのキャラクターが着いたふわふわの白いスリッパを勧められるまま履いた。
パタパタと音を立てながら廊下を戻る真希子さんの後を着いて行く。
美味しそうな酸味のある香りに一体今日はなんのご馳走なんだろうかとワクワクする気持ちを刺激された。
あ、そういえば。
宗明さんに直接伝えてくださいと言われていたんだった。
「あの、真希子さん。お昼ご飯も美味しかったです。いつもありがとうございます」
本当はもっとたくさんの言葉を尽くして感謝を伝えたかったけど、なんだかごちゃごちゃと余計なことを付け加えるよりシンプルに“ありがとう”と言った方が、素直に気持ちが真希子さんに届く気がして。
「あら?そう?良かった!紬ちゃんなんでも美味しい美味しいって食べてくれるから嬉しくって。作り甲斐があるわ~」
ふわりと髪を揺らして肩越しにこちらを見た真希子さんが「こちらこそ食べてくれてありがとう」とふふふっと嬉しそうに破顔したから。
きっと間違いじゃないと思う。
だってこんなに胸が温かい。
「今日はね、酢豚にしたの。それに春雨スープと棒棒鶏水餃子とエビマヨでしょ?それからデザートにマンゴープリン!」
「すごい……」
「えへへ。張り切っちゃった」
語尾にハートマークが絶対ついている可愛らしい声音は逆立ちしたって出せそうもない。
しかし家では考えられないほどメニューが多い。
やっぱり男の人が多い家だとそれぐらい作らないと足りないのかな。
真希子さんは凝り性だからきっと水餃子なんか皮から手作りに違いない。
うう……考えただけで唾液がいっぱい出てくるし、お腹も鳴りそうなくらいだ。
「いっぱい食べてね!」
通されたテーブルの上には今夜のご飯がずらりと並んでいて、湯気と共に良い香りが漂っている。
高カロリーの料理だけに一瞬怯んだけど――意志の弱い私の逡巡なんかあっという間に飛んで行く。
真希子さんが作ってくれた心の籠った料理を食べることに罪悪感を持ってはいけない!なんてもっともらしい言い訳をして、台所でスープを注いでいる真希子さんの元まで走りお盆の上に人数分乗せてからテーブルに戻るとちょうど三人が入ってきてみんなで仲良くいただきますと唱和した。
黙々と美しい所作で食べる宗明さんと特別感想も延べずに淡々と食べる宗春さん、それから猛烈な勢いで食べていく大八さんと手を動かすよりもお喋りに花を咲かせる真希子さん。
考えてみると揃ってご飯を食べたのは初めてだった。
毎朝はご馳走になる時は私ひとりだったし、週末のお昼は真希子さんとが多く時々大八さんが一緒だったくらいで。
宗明さんも宗春さんもさすがお坊さんだからか音も立てずにご飯を食べている。
ああ、確かお喋りも禁止だったはず。
大八さんが千秋寺に来たのが二年前だって言ってたから、それまで真希子さんはこの二人を相手にご飯を作って食事をしていたのかと思うとなんだか切なくなる。
真希子さんのお喋りに大八さんは相槌を打ったり自分の意見を述べたりして会話をしてはくれるけど、大半はご飯に夢中だから長くは続かない。
これでは寂しいだろう。
私が来ることで真希子さんが喜んでくれたのはそういう要因も少なからずあったんだと思う。
小宮山家では食事中のテレビは禁止だったけど、その分お喋りはどんどんしなさいという方針だったから、静かな食卓より真希子さんの楽しげな声と笑い声があるほうが違和感無いから。
酢豚は酢と甘みのバランスが丁度良かったし豚肉も柔らかくて美味しかった。
棒棒鶏は鶏の蒸し加減絶妙でパサつくことも無くゴマダレと細く切られたきゅうりとレタスが上手くからんでいてほっぺたが落ちるくらいだったし、水餃子の皮はもちもちしてて中から肉汁が溢れて絶品だったし、エビマヨはマヨだけじゃなくてケチャップが入っているタイプでクリーミーな上にぷりっぷりだったし、春雨スープはきのこ系がこれでもか!と入ってて。
「ああ、美味しすぎてお腹いっぱいです」
ごちそうさまでしたと手を合わせれば「おそまつさまでした」と女神さまのように柔らかく微笑んだ。
それを食後のお茶を啜っている宗明さんがちらりと視線を上げて真希子さんが喜んでいる姿を見てどこかほっとしているように目元を緩めたのを私は見逃さなかった。
なんだ。
宗明さんだって真希子さんのこと心配しているんじゃない。
それなら食べる時は喋らなくてもいいから、その後なにか話したらいいのに。
不器用なんだなぁ。
でも男の人ってそんなものなのかもしれない。
いつも私たちがわいわい話しているのをお父さんはどこか寂しそうな、それでいて嬉しそうな顔で晩酌をしていたし。
「どうする?デザート食べれる?」
「あー……すみません、多分無理です」
甘いものは別腹ですから!と言いたいところだけど、胃の中のどこにも入れそうなスペースがない。
ぽっこりと出た胃の部分を摩りながら辞退すると真希子さんは「後でゆっくり食べましょ」と自分も食べるのを止めてしまう。
「宗明と宗春はどうするの?」
「いらないよ。甘いものを食べたがる気持ちが正直理解できない」
宗春さんはうんざりしたように首を振り、宗明さんは「後で」とだけ返答したから意外だなと思う。
見た目の印象からすると宗春さんの方が甘いものを平気で食べそうなのに、甘いものはちょっと、と言いそうな宗明さんの方が甘いものが好きだなんて。
この兄弟本当に真逆なんだなぁ。
「大八さんは食べるわよね」
「おう」
私がごちそうさまをした後ペースを上げた所を見ると今まで遠慮していたようで、どんどんと大皿に乗った料理が空になって行くのは見ていて気持ちがいいほどだ。
いくらでも入りそうでその底なしの食欲には驚かされるけど、本来なら死んだ人の身体を主食にしている妖なんだからその飢餓感は私が想像する以上に辛いんだろうしなぁ。
その代りに――なるのかどうかは分からないけど――人が食べるもので満たされようと思うとそれだけ量がいるのかもしれないし。
「なら今のうちに紬ちゃんお風呂入ってらっしゃい」
「え?いいです。食べた後の洗い物とか私しますよ」
湯呑を手にさも当然のように勧められたけどそれはちょっと申し訳ない。
既にお世話になりっぱなしで、この上一番風呂をどうぞとかそこまで図々しいこと社会人としてどうなの?って感じだし。
「大八さんが食べ終わるの待ってたらお湯が冷めちゃうから」
「いやいや。それなら宗明さんか宗春さんからどうぞ」
「ダメよ!むさくるしい男が入った後のお風呂の湯なんて女の子に使わせられない」
「むさくるしくて悪かったね。僕は別に誰が先で後でも構わないけど、紬が気になるんだったら僕たちが先に入ってお湯入れ替えればいい話なんじゃないの?」
呆れた様子で口を挟んだ宗春さんの隣でなんとも微妙な顔の宗明さん。
そりゃ実の母親にむさくるしいとか自分が使った後のお湯は汚いから使わせられないとか言われたらショックだよね。
でもそんなことよりも。
「……意外!宗春さんがまともなこと言ってる、って違う!違う!それじゃお湯が勿体ないですから。私だって誰が使った後のお湯でも気にしません。お父さんが入った後のお風呂だって全然平気だし」
世の中の娘さんがお父さん汚いから一緒に洗濯しないで!とかお父さんの後のお風呂は絶対嫌だ!とか思春期にありがちな反抗期と嫌悪感が全くなかったから正直どうでもいいし本当に気にならない。
なので宗明さんや宗春さんが使った後のお風呂だからって抵抗や葛藤なんか感じないし。
「なるほど。紬が僕のことどんな風に思ってるか十分理解した。本人がそう言ってるから別にいいんじゃないの?」
後は母さんの気持ちの問題だと言い渡されたものの真希子さんは頑として譲らなかった。
「ダメです。却下です」
「……だって、紬。お先にどうぞ」
「えー……」
「なんならみんなで入ればいいんじゃないか?千秋寺の風呂四、五人は余裕で入れるし」
「――理性の足りない獣は黙ってろ」
「ぐわっ」
カラカラと笑いながらおじさんが言うようなジョークを飛ばした大八さんを宗明さんがすかさず睨んで手の指を複雑に動かした後、首にかけられていた数珠がばちっと火花を散らして大八さんは上半身を後ろに仰け反らせて苦しそうな声を上げた。
びっくりした。
乱暴な言葉を使った宗明さんにも驚いたけど、指の動きひとつで妖である大八さんを黙らせることができたことに。
宗明さんが大八さんの生殺与奪を握っているって本当だったんだなぁ。
「でも、なんか西遊記の孫悟空と三蔵法師みたいですね」
「やめろぉ!おれは猿じゃない、妖の火車だ」
「猿も猫も変わらない」
「っざけんな!妖には妖のプライドってもんがあるんだ!」
「どちらかといったら猫っていうより猪?突進するだけが取り柄だしね」
「宗春!お前、覚えてろよっ!」
二人の関係を有名な中国の物語に出てくる主人公たちに例えてみたんだけど、どうやら大八さんの誇りを傷つけてしまったらしい。
だけど宗明さんに冷静に変わらないと切って捨てられ、宗春さんに面白がってからかわれている雰囲気からすると楽しそうだから後で謝っておけばきっと大丈夫だろう。
「ほらほら、今のうちに入ってきなさい。じゃないと目を離した隙に大八さんが紬ちゃんのお風呂覗きに行っちゃうかもしれないから」
「えー……あはは。はい。そうします。すみません」
さすがに覗きまではしないだろうけど、せっかく温かくなっているお湯が冷めては勿体ない。
素直に頷き今朝真希子さんに案内してもらった洗面所の横がお風呂だからと教えられて廊下へと出た。
障子を閉めると騒がしい気配も声も薄れてちょっと寂しくなる。
気温もぐっと下がっているのか足元からずんっと寒気が上がってきた。
「はやく温もらないと風邪ひきそう……」
今日は奥の院まで二往復した疲れもあるし、ご飯を食べて体が温まって汗を薄くかいたからそれが冷えては困る。
足早に廊下を進んで縁側に出た所ではたっと気づく。
「あ、着替え」
まさか数日かけてお泊まりになるとは思ってもいなかったからなんにも持ってきてない。
家から持参したのは会社の制服が入った袋と普段使っているバッグだけ。
お風呂に入るのは良いけれど、下着も無ければパジャマも無い。
そして明日着る服もないのだ。
「やばい……」
戻って真希子さんに貸してもらえるか聞こう。
でも他人の下着を借りるのはちょっと無理だろうから、気持ち悪いけどそのままこれを着けて明日買いに行かせてもらおうかな……。
ひとまずなにか着替えを借りよう。
立ち止まり来た道を引き返そうと回れ右した瞬間に目の前が真っ暗になって強かに鼻を何かにぶつけた。
「ひゃあ!?」
数歩下がりながらずれた眼鏡を元の位置に戻しつつ鼻をギュッと抑えると宗明さんが恐縮した顔で「すみません、まさか戻ってくるとは思わずに」と謝罪した。
どうしてすぐ後ろにいるんだという疑問を抱きつつ首を横に振ると見慣れたトートバッグ二つを差し出される。
「今朝小宮山さんのご自宅にご挨拶に行った時にお母さまからお預かりしたものです。三日分の着替えだそうです」
「あ、すみません。ありがとうございます!良かったぁ。今戻って真希子さんに貸してもらおうと思ってたところです」
「いえ。渡し忘れていたこちらが悪いので」
これで懸念がひとつ無くなったことでほっと胸を撫で下ろす。
汗かいた肌着や一日穿いたぱんつを続けて着用せずにすんで本当に良かった。
「お蔭で心置きなくお風呂いただけます」
母にも宗明さんにも感謝しながら丸々と太ったトートバッグを受け取って笑いかけると、宗明さんはちょっと困ったような顔で視線を落とす。
「……龍神池の主からなにか無茶な要求をされはしませんでしたか?」
「ああ……えっと、気づいてたんですか?」
天音さまの聖域に龍姫さまが干渉したんだから、そりゃなにか不都合があったと宗明さんや宗春さんは気づいていたんだろう。
でも龍姫さまの所から帰ってきてから水汲みにトライしている間も、失意の中足取り重く帰っている時だって千秋寺から確認が来ることも無かったので、もしかしたら気づいてないか気にならないほどしょっちゅうあることなのかもしれないと思ってたんだけど。
「別になにも。これからもよしなになって言われたくらいで」
宗明さんが心配するようなことはなにも無かったんだけど。
「天音さまと龍姫さまの関係とか千秋寺ができた時の話とかをしてくれました。まあ、いきなりビューンって連れて行かれて驚きましたけどね」
「まったく、あの女性は……」
こめかみを摩りながら深いため息を吐く宗明さんはやっぱり余計な心配やら気苦労が多そうだ。
迷惑かけないようにしないと宗明さんが禿げちゃうかもしれない……あ、お坊さんで既に坊主頭だからいいのか?いやいや、良くない!良くないよ!
「すみません。なんか心配かけたみたいで。もし今度なにかあったらちゃんと報告します!」
「そうしていただけると、助かりますが……」
何故か語尾が小さくなって眉の間に深い深い皺を刻むから私もつい同じような顔で次の言葉を待つ。
こうしている間にもお風呂が冷めちゃうんだろうなぁとか考えているうちはきっと奥ノ院での水汲みを成功させられないんだろうけど。
「あなたがまず頼るべきは宗春なので、俺はその後伝えてくれれば」
「――――は?」
ということは宗春さんと宗明さんの間で情報の共有はされていない――ってこと?
え?えっ?
それって大丈夫なの?
っていうか!
「宗明さん、気使いすぎっ!」
きっと真面目すぎるのが原因なんだろうけど。
呆れてしまうくらい心配性で気を配り過ぎて。
無愛想で冷たい空気を纏っている下にこんな繊細な心が隠されているなんて、宗明さんどんだけギャップ在り過ぎるの!?
「後とか先とか、誰を頼るとか、その時その時で違うんだしいつだって正解を選べるとは限らないんですから。失敗したらそれこそ後で謝ればいいんですし。私が宗春さんを飛び越して宗明さんに報告してなにか問題があったら私が宗春さんに謝るべきなんですから気にしないでください」
この人はもう。
「優しすぎです!」
判断を間違った私が宗春さんになにかされるんじゃないかと怖がっているのだと思うと本当に苦笑いしかない。
ありがたいことなんだけど。
「宗明さんもっと宗春さんと話してみたらどうですか?余計なことかもしれませんけど、宗春さん意外と可愛いところありますよ?」
それは宗明さんも同じだけど黙っておく。
きっと長年に渡ってすれ違ったり、誤解があったり、意見がぶつかったりという確執があってそれを乗り越えて歩み寄るのはとても難しいことだと思うけど。
諦めてしまうには勿体ない気がした。
「…………宗春を可愛いと言い切れる小宮山さんの感性が逞しいというか、羨ましいというか」
ふっと息が漏れる音がして私は目を瞬かせた。
眉間の皺が消えて目尻に小さな皺が寄る。
いつもは引き結ばれている唇が綻んでひっそりと夜明けに花が咲くような微笑みを宗明さんは浮かべていた。
なんだか手を合わせて拝みたくなるその貴重な笑みを私ではなく宗春さんや真希子さんに向けてくれたらいいのになと思う。
家族だからこそ照れくさくて、縺れてしまった関係を修復できずにいるんだろうから。
「宗明さん、一歩ずつです」
「はあ……そうですね」
微妙な返答だったけど前向きに検討してくれるならこの際それでもいいか。
「引き留めてしまってすみません。後のことは考えずどうぞゆっくり温まってください。風邪を引いては大変ですので」
「ありがとうございます」
「大八が変な気を起こさないようにちゃんと見張っているので安心してください」
「あ、ははは。はい」
会釈をして去って行く宗明さんと別れて今度こそお風呂場へと向かった。
宗明と宗春は別に規律がどうとかという理由で喋らないわけではありません。
兄弟が上手く和解できれば楽しい食卓も可能になるんですけどね。
どうなることやら。




