63話 接吻と
帰ると、リビングの明かりはついており、お母さんたちの姿はなかった。きっと奥の寝室で寝ているのだろう。明かりを先に消して、できるだけ音を立てないように、スマホのライトを頼りに階段を登る。
そっとベッドに腰掛けて、ベッド脇のスタンドライトをつけた。鏡子は自分のベッドには行かず、何故か私の目の前に立つ。三つ編みの先を持ち上げて、ヘアゴムを解くと、夜空のように黒髪が広がった。
「鏡、子……?」
鏡子の薄く潤んだ唇は妖艶な笑みを浮かべていた。私の上にまたがるように膝をつくと、ほっそりとした腕が私の背中に回る。やさしい香りが鼻を通って脳まで染み渡る。頭がくらっとして、少し意識が遠のいた気がした。私を抱きしめる鏡子は何を考えているのだろうか。鏡子の心臓の音が私の胸に届く。私の背中に触れていた片方の手が離れたかと思うと、視界に映っていた布団が消えて、目の前には鏡子の顔と天井が見えた。
「鏡子……?」
なんだこの状況。どうしてこうなったんだ。
私の呼びかけに反応を示さない。体を起こそうとベッドに肘をつくと、鏡子は私のお腹の上にそのまま腰を下ろした。かすかに見える鏡子の表情。切なそうに整った顔を歪め、今にも泣きそうで、目の縁や頬が紅潮していた。
微かに息を吸う音が聞こえて、色気を孕んだ声で私の名前を呼んだ。
「詠ちゃん」
心臓が高鳴って、全身の皮膚が粟立つ。力が抜けて、起こしかけていた体はシーツの上にの倒れた。顔の横にあった鏡子の手が私の肩、腕を通り、手のひら同士を合わせると、指の間に指を入れて、手をつないだ。
手、あたたかい。
鏡子の顔がだんだんと近づいてくる。
子犬のように潤んだ、弱々しい瞳。けれど、その瞳には妖艶さが滲んでいた。鏡子の唇から漏れる熱い息が私の唇に触れる。
頭の中の遠いところで、さっきの川辺でのことを思い出していた。体が熱い。頭がボーっとする。
鼻の頭が軽く触れ合う。
鏡子の手を握り返して、私はゆっくりと目を閉じた。
「詠ちゃん、だいすき」
「んっ……」
愛の囁きに、しっかりと答えることができない。うるさいぐらいに鳴る心臓、爆発するんじゃないかと心配になる。お母さんたちが同じ敷地にいるのに。
感覚、嗅覚、触覚、それらが鋭くなる。布が擦れる音、ベッドがわずかに沈む感覚、手に感じる熱さ、重み。
唇の先に、やわらかなものが、かすかに触れる。
それが鏡子の唇だということはすぐわかった。握り返す手に力が入る。
鏡子としちゃうんだ……。
そう思ったその時、お腹に感じていた重みがなくなり、ドサッと横で物音がした。恐る恐る目を開けて、横を確認する。
首まで真っ赤な鏡子が横たわっていた。
「恥ずかしくて、無理よ……」
でも、少しだけ、ほんの少しだけ唇同士が触れあった。
「鏡子、今日はもう寝よっか」
「そうするわ……」
同じベッドに横になり、体を寄せ合う。少し狭いと感じたが、それでもよかった。ライトを消して、鏡子の細い肩に額をくっつけて、鏡子の腕に抱きつく。
鏡子の体温を感じながら、さっきのことを思い出しながら、時間をかけて眠りに落ちた。
翌日、珍しく私のほうが早く目を覚ました。窓からは朗らかな朝日がリビングに光を送り、小鳥のさえずりが聞こえる。静かな寝息を立てる鏡子の髪を優しくなでる。
「相変わらずさらさらな髪」
艶のある絹のような黒髪。そういえば、私、鏡子の髪を触ってばっかりだなぁ。鏡子がプールで倒れて、保健室に運ばれたときもずっと触ってたし。というか、もう、鏡子と出会って一年が経とうとしているんだ。
今なら、キスできるかな……。唇じゃなくても、頬ぐらいなら……。
頬にかぶさっていた髪を耳の後ろに引っ掛ける。やわらかく色白な頬があらわれる。黒く長いまつげが、肌の白さを際立たせていた。
どうか起きないで。
私は、鏡子を起こさないように、起きないでと願いながら、頬に優しく唇を押し当てた。すぐ唇を離して、熱い顔を冷やすために、洗面所に向かった。
頬に感じる水の冷たさが心地よく、熱さも一緒に排水口に流れた。
朝食は卵焼きと、昨日のお肉の残りと野菜をあわせた野菜炒め。開いた窓からは涼しい風が入ってきて、爽やかな、朝のキス以外は爽やかな朝を迎えた。いつもはお母さんと二人でたべていたから、お母さん以外たちと食べることが新鮮だった。修学旅行や林間学校、学校での給食、そういうのとはまた違う。
誰も、食事中口を開かなかった。けれど、静かな空間だけれど、みんな表情は明るく、同じ気持ちを抱いているだろう。
食事を終えて、休憩タイム。夕方にはここを出るから、それまでゆっくりできる。
「今日、わたし幸せな夢を見たの」
ベッドで隣に座り、私はスマホを持ったまま、鏡子はいつものように本を読んでいた。
鏡子は本から顔を上げて私を見つめる。
「誰だかわからないけど、わたしの頬にキスしてくれたの。うふふ、嬉しかったわ」
心臓が跳ね上がり、スマホを触るふりして鏡子から視線を外す。声が上擦らないように、心を落ち着けながら、「へぇーそうなんだ。よかったね」と返した。
ベッドが軋み、鏡子が前に体重をかけて、私の顔を覗き込む。
「詠ちゃんのキスだったら嬉しいのになー」
全てを見透かすような黒い瞳を瞼で細めて、口元をニヤニヤさせる。動揺して、視線が泳ぎそうになるのを必死にこらえて、視線を絡め合う。
「私じゃ……ないよ。今までに好きになった人の誰かだったんじゃない?」
鏡子はゆっくりまばたきをすると、つまらなそうに口をとがらせて、身を引いた。
「そうね、きっとその人よね」
自分で言っておいてあれだが、鏡子が今までに好きになった人って他にいるのだろうか。いるとしたらどんな子なのだろうか。モヤモヤする。心の中が騒がしい。
男の子? 女の子? 前の学校で一緒だった人なのだろうか。それとも、中学生や小学生の時に好きになった人?
スマホを触る指は絶えずう動いていたが、頭の中は全く別のことを考えていて、画面に表示された内容は覚えていない。
鏡子は、本をおいて立ち上がり、腕を天井に向けて背伸びをした。
「わたし、ちょっとトイレに行ってくるね」
「うんわかった」
私の前を通り過ぎ、手すりに手をかけ、一歩階段を降りると、鏡子が振り向いた。
「あ、そうだ。詠ちゃん」
「なに」
「今まで好きになった人、詠ちゃんしかいないわよ」
――今まで好きになった人、詠ちゃんしかいないわよ。
頭がフリーズする。手からスマホが滑り落ち、ベッドの上に着地する。その言葉を理解したときには、鏡子は階段を駆け下りて、トイレに入っていた。




