孝謙(称徳)天皇(日本:在位749~758,764~770)・後編
歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。
寵臣から敵対関係となった藤原仲麻呂を討ち、彼の傀儡だった淳仁天皇を廃して、称徳天皇となった孝謙女帝。ここからは「称徳」と呼ぶべきなのでしょうが、混乱を避けるため孝謙で統一します。
さて、重祚後の孝謙女帝について語る前に、触れておきたい人たちがいます。
聖武天皇の娘である井上内親王(717~775)、不破内親王(717以降~没年不詳)の姉妹です。
聖武天皇の娘、つまり孝謙にとっては異母姉妹で、母親は県犬養広刀自ですから、安積親王の同母姉妹ということになります。
この姉妹、姉の井上と孝謙との仲はそんなに悪くはなかったのですが、不破と孝謙の仲は最悪でした。というか、この不破さん、中々の陰謀好きだったようです。
そして、そんな不破さんが結婚した相手が、新田部親王の子、塩焼王(?~764)。これがまた、名前は美味しそうなのですが、軽薄なくせに陰謀好きという、箸にも棒にもかからないような男でした。
塩焼王は、742年、宮廷の女官4名とともに投獄され、その後伊豆に流されます。
その理由は明らかにされていませんが、女官たちもともに罪を得ていることから、塩焼王が彼女たちに「接近」した――純粋(?)にスケベ目的だったのか、皇位継承等を巡る何らかの陰謀絡みで女官たちを篭絡しようとしたのかはわかりませんが――ということではないかと思われます。
そして同時期に、妻である不破も「内親王」の称号を剥奪されています。つまり皇位継承権を喪失したということです。
もっとも、単に夫が風紀を乱しただけなのだったらとんだとばっちりなのですが、おそらく、彼女も陰謀に一枚噛んでいたのではないでしょうか。
745年には赦免されて都に戻った塩焼王。757年の橘奈良麻呂の乱への関与を疑われるも、罪には問われず。この頃には藤原氏を敵に回すより味方に付いた方が良いと判断したのか、仲麻呂に接近します。
そして、淳仁・仲麻呂政権下で栄達し、中納言にまで昇進するのですが――。
仲麻呂が孝謙と対立し乱を起こすと、今度はどっぷり巻き込まれてしまい、仲麻呂とともに捕らえられ斬られてしまいます。
不破内親王(時期は不明ですが、「内親王」の称号は戻されていたようです)とその息子の氷上志計志麻呂(生没年不詳)は連座を免れますが、不破は769年、孝謙女帝を呪詛し、志計志麻呂を皇位につけようとしたとの咎で、再び内親王の称号を剥奪、「厨真人厨女」という名に改名させられ、志計志麻呂は土佐に流されます。
孝謙女帝には、憎い相手に変な名前を付ける趣味がある、というのはご存じの方も多いでしょう。後の「宇佐八幡宮神託事件」の際にも、和気清麻呂(733~799)を「別部穢麻呂」と改名させたりとかね。
まあ、これは単に悪口というよりも、言霊の力が信じられていた時代ですから、嫌がらせにとどまらない処罰としての意味もあったのでしょう。
それにしても、同じく聖武帝の血を引く異母姉妹をつかまえて、「クリヤノクリヤメ」(台所女中といった意味。「真人」は姓で特に意味はありません)ですからね。とても高貴なお方とは思えない、感情むき出し、人間性むき出しの姉妹喧嘩です。
この不破内親王、歴史上重要な役割を果たしたかというと正直そんなことはないのですが、高貴な血筋に生まれながら権力の主流から外れてしまい、それでも懸命にあがく姿はなかなか興味深いです。関わり合いになりたいとは思いませんけどね(笑)。
妹の方はこれくらいにして、姉の井上内親王。彼女は727年、数え年11歳で伊勢神宮の斎宮として、伊勢に赴き、弟・安積親王が亡くなった744年頃まで、かの地で過ごします。
もちろん、斎宮に選ばれるのは名誉なことではあるのですが、藤原氏によって皇位継承権争いから遠ざけられたのではないかという見方もあるようです。
斎宮の任を解かれ、都に戻った井上は、天智帝の孫にあたる白壁王(709~782)と結婚します。そして、数え年38歳で娘を産み、さらには数え年45歳で息子の他戸親王(761~775)を産みます。かなりの高齢出産ですね。
この他戸親王の存在は、孝謙の後の皇位継承争いにおいて重要な意味を持つことになるのですが、それはもっと後の話。そろそろ孝謙女帝に話を戻しましょう。
再び天皇となった孝謙は、道鏡を補佐役として政治を行いつつ、彼の地位をどんどん高めていきました。
これを道鏡自身の野心と見るか、彼に惚れこんだ女帝の献身と見るか、様々なご意見があることでしょう。
また、もう一つ別の観点として、女帝の、道鏡という個人に対してというより、仏教に対する傾倒という見方もあります。
そもそも彼女の父・聖武帝からして、東大寺の大仏を造立したことで有名ですが、自ら「三宝の奴」――仏・法・僧の仏教三宝に仕える下僕と称したほどの人物です。
娘である孝謙もまた、その影響は強く受けていたことでしょう。
ついには、孝謙は道鏡に皇位を譲ろうと考えるに至ります。そして起こるのが、「宇佐八幡宮神託事件」です。
769年5月、大宰府の主神・習宜阿曾麻呂という人物が、「道鏡を皇位につかせれば天下泰平」という内容の宇佐八幡宮(大分県宇佐市に所在)の神託を奏上します。
これに大喜びした孝謙女帝、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に派遣し、念押しの神託を得ようとするのですが……、清麻呂が持ち帰ってきたのは、「我が国は開闢以来君臣の別が定まっている。皇統にあらざる者に皇位を継がせるなどもっての外」という内容でした。
これに激怒した女帝が、清麻呂ら関係者に変な名前を付けて追放した、というのは歴史の教科書にも載っていました(今でも?)から、皆様ご存じのことでしょう。
さてこの茶番劇。裏で絵図を描いていたのは藤原氏、というのはほぼ定説となっています。一回目は女帝が喜ぶような神託を奏上し、食いついたところで否定してみせた、というわけです。
女帝が清麻呂らに激怒したのも、単に神託が意に沿わなかったからではなく、彼らが陰謀に加担していたからでしょう。
かくして、道鏡を皇位につけることに失敗した孝謙女帝は、失意のうちに翌770年崩御します。
次の天皇に立てられたのは、井上内親王の夫・白壁王。道鏡は下野(現在の栃木県)に流されます。
しかし、もし道鏡が本当に皇位簒奪を企てていたのなら、それに対する処分としては甘すぎます。やはり、彼が積極的に関与していたわけではないとみるべきでしょう。
さて、孝謙没後の話とはなりますが、白壁王改め光仁天皇が即位し、井上内親王にとってはしてやったり、かというと、残念ながらそうは問屋が卸しません。光仁帝には他戸親王以外にも、すでに成人している息子がいました。それが、山部親王――後の桓武天皇(737~806)です。
井上内親王は772年、光仁帝を呪詛したとして皇后を廃され、息子他戸親王も皇太子を廃されます。そして新たな皇太子に立てられたのが山部親王。
黙っていればそのうち息子に皇位が巡ってくるはずの井上に、高齢の夫の死を早めようとする動機などあるはずもなく、誰がどう見ても山部の策略です。
井上と他戸母子は、その後さらに冤罪を着せられ、幽閉された上、母子同時に不審死を遂げます。九割九分九厘、山部による暗殺でしょう。
その後、皇位についた山部親王改め桓武天皇は、生涯、井上母子の怨霊に悩まされ続けることとなります。自業自得。
ちなみに、不破はというと、桓武即位後の782年、息子の氷上川継(生没年不詳。志計志麻呂と同一人物説もあるようです)が謀反を企てたのに連座し、淡路に流されます。その後、795年には和泉(現在の大阪府)に移されて、その後の消息は不明です。まあ年齢も年齢ですから、間もなく亡くなったのでしょう。
さて、話を少し戻しまして、孝謙が道鏡に皇位を譲ろうとした一件。しかし、僧侶である道鏡には子供もいませんから、その後皇位につくべき候補はいないわけです。
孝謙はそのあたりをどう考えていたのか――という点に着目したのが、高井忍先生の『本能寺遊戯』(創元推理文庫)という作品です。
この作品は、京都の高校に通うJK三人組が、ミーハー向け歴史雑誌の公募企画に応募するため、あれこれと歴史談義を繰り広げるというお話です。
お題は、本能寺の謎、ヤマトタケルの謎、春日局の謎、そしてトリが宇佐八幡神託事件の謎、となります。
そもそも雑誌の企画コンセプト自体、本気で歴史の謎を解こうというよりも、「斬新な新解釈」を募集します、というもので、彼女たちも、まずインパクトのある結論をでっち上げてからそれっぽい筋立てを考える、なんてことを平気でやってのけます。
一人はクールな優等生で本格派歴史マニア、一人はボーイッシュな剣道少女で戦国武将と剣豪大好きミーハー歴女、そして最後の一人はサムライとニンジャとオンミョージが大好きなロシア人美少女留学生という三人のやり取りが楽しく、本格推理小説レーベルから出版されてはいますが、テイストはラノベに近いので、ご興味の湧いた方は是非ご一読ください。
宇佐八幡宮神託事件の驚きの黒幕とは!? ネタばれはしません。悪しからず。
次回はスペイン王国の光と闇、イサベル(イザベラ)一世女王の登場です。乞うご期待!





