女性天皇まとめ・江戸時代編(明正天皇:在位1629~1643,後桜町天皇:在位1762~1771)
歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。
奈良時代の孝謙(称徳)女帝を最後に、平安、鎌倉、室町、安土桃山の各時代を通じて、女性天皇が登場することはありませんでした。
しかし、江戸時代に入り、二度女性天皇が立てられます。
今回はその事情について見ていくことにいたしましょう。
まずは一人目。江戸時代初期の明正天皇(1624~1696)から。
彼女の父親は第108代後水尾天皇(1596~1680)。母親は江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠(1579~1632)の娘・和子(1607~1678)です。
つまり、明正帝は徳川家の血が入った天皇ということになります。
鎌倉、室町、安土桃山、江戸と続く武家政権。朝廷の権威を借りる、あるいは支配するために、将軍家の娘を入内させるという方策は、当然あり得たように思えるのですが、実はその事例はほとんどありません。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147~1199)が娘を入内させようと工作するも、残念ながら相次いで夭折してしまい、実現しませんでした。
室町幕府の歴代将軍も、京都に住まいなかば公家化していたにもかかわらず、娘を入内させようとはしませんでした(実現しなかっただけで試みはあったのかもしれませんが。ご存じの方がいらっしゃいましたらご指摘ください)。
この、ある意味禁断の方策に、和子の祖父である徳川家康(1543~1616)は手を染めます。
父である大御所様の遺志を継いだ秀忠は、1620年に和子――元々の読み方は「かずこ」でしたが、入内を機に「まさこ」と改めます――を入内させます。
和子は1624年1月9日に第一子となる女児を出産。これが後の明正帝、諱は興子です。
和子はその後男児を二人産みますが、いずれも夭折。順調に滑り出したかに見えた徳川幕府の思惑に影が差したところで、思わぬ騒動がおきます。
1629年、後水尾天皇が、幕府に断わりもなく娘の興子に譲位してしまったのです。
この突然の退位劇のきっかけとされるのが、「紫衣事件」と呼ばれる一件です。
「紫衣」とは紫色の僧衣や袈裟のことで、高位の僧および尼僧が朝廷から賜り、着用を許されるものです。
この紫衣を授けるにあたり、朝廷にはそれなりの見返りがあって、朝廷の重要な収入源となっていました。
これに対して江戸幕府は、公家諸法度などの法制において、朝廷がみだりに紫衣を授けることを規制しようとします。
が、後水尾帝はこれを無視し、従来の慣習通りに十数人の僧侶に紫衣を授けました。
このことを知った幕府(1623年、秀忠から家光(1604~1651)に譲位)は、勅許状の無効を宣言し、1627年、京都所司代に命じて、法度違反の紫衣を取り上げようとします。
当然ながら、朝廷はこれに反発。仏教界も、京都大徳寺の住職・沢庵宗彭(1573~1646)――たくあん漬けの考案者として知られるお方です――らの高僧たちが幕府に抗議します。
1629年、幕府は沢庵和尚ら幕府に抗議した僧侶たちを出羽(現在の秋田県)などへの流罪に処しました。
この一件により江戸幕府は、自分たちが定めた法度は天皇の勅許にすら優越する、ということを示したのです。
この年の11月8日(旧暦。グレゴリオ暦では12月22日)、後水尾帝は突然退位し、娘に譲位してしまいました。こうして即位したのが、第109代明正天皇というわけです。
この譲位劇について、必ずしも幕府への抗議の意図があったわけではないとする見解もあるようですが、少なくとも、事前に幕府に諮ることもなく突然に、ですからね。
やはり、幕府に対してのあてつけという側面は少なからずあったのでしょう。
ついでにいうと、「後水尾」という諡は、彼自身が生前に決めた「遺諡」と呼ばれるもので、第56代清和天皇(850~881)の別名「水尾」にちなんだものです。
この諡を選んだ理由については諸説ありますが、清和源氏の末裔を名乗る徳川家に対して、その上に立つことを意識したものではないかとの指摘もあります。
後水尾帝の人となりも、かなり我が強い性格だったようですし。
幕府との間に立たされた和子皇后のご苦労が偲ばれます。
なお、紫衣事件はその後、1632年に大御所・秀忠が死去したことを機に大赦令が出され、流罪になっていた沢庵和尚らも赦されて、さらにその後、剥奪された紫衣も戻されてはいるのですが、結局幕府が「許してやった」という形ですからね。
幕府の朝廷に対する優位性を示す、という目的は果たされたと言っていいでしょう。
このような経緯で皇位に就いた明正帝でしたが、実際には父・後水尾上皇の院政下に置かれ、自ら政務を執ることはありませんでした。
また、明正帝は夫を持つことも許されず、皇太子には異母弟の素鵞宮(1633~1654)が立てられます。
素鵞宮は東福門院(和子)の養子とされ、1643年には明正帝の譲位を受けて第110代後光明天皇となります。
東福門院を新帝の養母とすることで、幕府は影響力を残しますが、この頃にはすでに、幕府は天皇の外戚として朝廷を牛耳ろうという考えを捨てていたようです。
上皇となった明正に対しても、伯父にあたる家光は、新帝との接触を厳重に制限する内容の書状を送り付けます。
これに関しては、明正上皇が幕府の思惑を離れて勝手な行動を取り始めたから、と解釈することも出来なくはないですが、やはり、明正上皇を通じて幕府が新帝を操ろうとしているなどと勘繰られることを憚った、と見るべきでしょう。
紫衣事件で幕府の優位性を示し、ある程度の影響力を行使できれば、それ以上のことを望むのは危険、という判断だったのでしょうか。
朝廷というところは、やはり武家がうかつに手を出せない魔窟だった、ということなのかもしれません。
明正上皇は後に出家して法皇となり、1696年に崩御します。
皇位を退いた上皇が出家することは珍しくない、というより定番コースではありますが、幕府と朝廷の思惑に翻弄された人生の果てに、明正は何を思ったのでしょうね。
これ以降、再び江戸幕府が将軍の娘を入内させることはなく、明正帝は武家政権を外戚とする史上唯一の天皇となりました。
明正天皇から120年あまり後、江戸時代2人目の女帝が即位します。それが第117代後桜町天皇(1740~1813)です。
推古帝から数えて通算8人目、現在のところ最後の女帝ということになります。
後桜町天皇は諱を智子と言い、1740年、第115代桜町天皇(1720~1750)と、その正妻で五摂家の一つ・二条家出身の二条舎子(1716~1790)との間に生まれました。
舎子には皇子がおらず、側室である姉小路家の娘が生んだ八穂宮(1741~1762)を実子扱いとします。
1750年、桜町帝が30歳の若さで崩御すると、まだ幼い八穂宮が即位。これが第116代桃園天皇です。
しかしこの、智子にとっては異母弟にあたる新帝も、1762年に22歳の若さで崩御します。
桃園帝には息子がいましたが、この時まだ5歳だったため、中継ぎとして智子が即位し、後桜町天皇となります。
過去には幼帝が即位した事例もあるのですが、同様に幼くして帝位に就いた先帝・桃園帝の時代に、ちょっとした騒動があり、それで幼帝が忌避された、という事情があったようです。
宝暦事件と呼ばれるその事件は、幕府および摂関家による権力独占に不満を抱いていた若手の公家たちが、儒学者の竹内式部(1712~1768)から尊王思想の講義を受けたことをきっかけに過激化し、摂関家と激しく対立。幕府も巻き込む騒動に発展したものです。
この時、桃園帝は、若手公家たちが幼い頃から仕えてきた近習だったことから彼らを庇おうとし、天皇と摂関家の対立という事態が生じました。
そのことから、幼帝を立ててその取り巻きが妙な発言力を持つことを懸念し、女帝を中継ぎに立てた、という次第です。
後桜町帝は、9年の在位期間の後、1771年、甥――桃園帝の皇子・英仁親王に譲位して上皇となります。そして即位したのが、第118代後桃園天皇(1758~1779)です。
が、この後桃園帝もまた若くして崩御してしまいます。
彼には皇子がいなかったため、第113代東山天皇(1675~1710)の孫である閑院宮典仁親王(1733~1794)の息子が新帝として即位することとなります。
これが第119代光格天皇(1771~1840)です。
こうして傍系から弱冠9歳で即位することになった新帝を、後桜町上皇は親身になって面倒を見たようです。
1789年、光格帝が天皇になっていない父・典仁親王に太上天皇の尊号を贈ることを望み、これに幕府が反対したことから、騒動が持ち上がります。
この「尊号一件」と呼ばれる騒動に際し、後桜町上皇は、「御代長久が第一の孝行」と言って光格帝を諭し、事態収束に一役買います。
時系列が若干前後しますが、1787年には、天明の大飢饉の猛威が吹き荒れる中で行われた御所千度参りにおいて、後桜町上皇は御所を訪れた民衆にりんご(日本で古くから栽培されてきた和りんご)3万個を配布します。
光格帝も事態を憂い、朝廷が幕府に口出ししないという禁中並公家諸法度に違反することを承知の上で、幕府に民衆救済を申し入れます。
幕府は京都市民に対し米1,500俵を放出、天皇および同調した公家たちの法度違反も不問に付します。
まあ、このあたりが朝廷と幕府の最後の蜜月と言ってよいでしょう。これ以降は、尊王運動の高まりによる討幕運動の嵐が吹き荒れることになるのは、皆様ご存じの通り。
このように、光格帝の治世を補佐した後桜町上皇は、「国母」と呼ばれることとなります。
また、彼女は古今伝授を授けられるほど歌道に秀で、また書道も堪能、漢学も好むなど、一流の文化人としての顔も持っていました。
彼女は1813年に74歳で崩御しますが、歴代女性天皇の最後を飾るにふさわしい人物だったと言えるでしょうね。
と、いうわけで、44話(「はじめに」を除いて)に渡り50人近い女性君主をご紹介して来た当エッセイも、いよいよ大トリの登場。最後を飾るのはもちろんこのお方、先年亡くなられた英国女王・エリザベス二世陛下です。乞うご期待!





