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女王様はロマンの塊~古今東西女性君主列伝~  作者: 平井敦史


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女性天皇まとめ・古代編(推古天皇:在位592~628,皇極(斉明)天皇:在位642~645,655~661,元明天皇:在位707~715,元正天皇:在位715~724)

歴史上の人物ですので常体を用いています。また、本文中の年月日は西暦・太陽暦に基づくものです。ご了承ください。

 西のラスボスことマリア=テレジアもクリアして、いよいよ(おお)トリ、の前に、日本の女性天皇で取り上げていなかった人たちについて語っていくことにいたします。

 すでに取り上げている持統(じとう)帝と孝謙(こうけん)称徳(しょうとく))帝については端折(はしょ)ります。ご了承ください。


 日本の歴史上最初の女性天皇は、聖徳(しょうとく)太子(たいし)との関係で知られる推古(すいこ)女帝(554~628)。第33代の天皇ですね。

 それ以前に、夫の死後事実上の天皇として統治したと言われる神功(じんぐう)皇后(こうごう)や、一時政務を()ったとされる飯豊(いいとよの)皇女(ひめみこ)といった、半ば伝説上の女性もいるんですけどね。

 確実に皇位に()いた女性ということになると、推古天皇が最初です。


 なお、「天皇」の号が用いられるようになるのは第40代天武(てんむ)天皇(?~686)以降ですので、当時はまだ「大王(おおきみ)」と呼ばれていたわけですが、ややこしいので「天皇」で統一します。


 推古天皇の(いみな)額田部王(ぬかたべのみこ)。第29代欽明(きんめい)天皇(509~571)と堅塩媛(きたしひめ)(生没年不詳)との間に、554年に生まれます。

 母親の堅塩媛(きたしひめ)は、蘇我(そがの)稲目(いなめ)(506~570)の娘ですので、彼女も蘇我(そが)氏と親しい関係にありました。


 額田部王(ぬかたべのみこ)は571年、異母兄である他田王(おさだのみこ)に嫁ぎます。これが後の第30代敏達(びだつ)天皇(538?~585)です。


 585年に敏達帝が崩御すると、その異母弟で額田部王の同母兄である第31代用明(ようめい)天皇(?~587)が即位。しかし、在位わずか2年で、用明帝は天然痘のため崩御してしまいます。


 この当時、蘇我氏と物部(もののべ)氏が激しく対立していたことは、ご存じの方も多いでしょう。

 対立の原因として仏教政策の食い違いが挙げられることが多いですが、そういった側面も確かにあるにせよ、ぶっちゃけて言えば権力の座を巡る争いです。

 587年、用明帝が崩御すると、その後継を巡って蘇我氏と物部氏が軍事衝突を起こし、蘇我(そがの)馬子(うまこ)(551?~626)が物部(もののべの)守屋(もりや)(?~587)を討って政治の実権を握ります。

 馬子は堅塩媛の弟ですので、額田部王にとっては叔父に当たります。


 馬子が天皇に擁立したのは、彼のもう一人の姉である小姉君(おあねぎみ)(生没年不詳)と欽明帝との間に生まれた泊瀬部王(はつせべのみこ)。これが第32代崇峻(すしゅん)天皇(553?~592)です。


 しかし、崇峻帝は馬子の傀儡(かいらい)に甘んじるのをよしとせず、彼と対立。ついには馬子に暗殺されてしまいます。


 天皇が臣下に(しい)される、というのは、確定している事例としてはこれが日本史上唯一となります。

 そんな大事件にもかかわらず、実行犯である東漢駒(やまとのあやのこま)という男はともかく、馬子は何ら処罰されず、群臣にもさほどの動揺が見られなかったことから、馬子あるいは蘇我氏だけでなく他の氏族も同意の上でのクーデターだったのではないかとの見方もあるようです。


 また、同じ蘇我稲目の娘ながら、小姉君と堅塩媛、およびそれぞれが産んだ子たちの扱いにははっきりと差が出ていて、馬子は明らかに堅塩媛寄りです。

 三人の母親はすべて不明なのですが、堅塩媛および馬子と小姉君とは、もしかすると母親が違うのかもしれませんね。

 そして、それぞれの母方の勢力の争い、といった一面も考えられるのではないでしょうか。


 それはさておき、暗殺された崇峻帝に代わって即位したのが、額田部王。つまり推古女帝です。

 即位の翌年、593年に推古帝は甥の厩戸王(うまやどのみこ)(574~622)を「皇太子」に立てます。俗に言う「聖徳太子」ですね。


 この当時はまだ「皇太子」という呼称は無く、あくまで後に(あらわ)された日本(にほん)書紀(しょき)にそう書かれているということなので、実際の位置づけがどのようなものだったのかについては議論があるようですが、いずれにしても厩戸王(うまやどのみこ)に国政を委ねた、あるいは補佐させたのは確かです。


 先ほど厩戸王は推古帝の甥と書きましたが、もう少し詳しく言うと、厩戸王は用明帝の第二皇子で、母親は欽明帝と小姉君との間の娘・穴穂部(あなほべの)間人(はしひとの)皇女ひめみこ(?~622)です。


 なお、「聖徳太子」というと、一時期架空の人物説なども唱えられましたが、厩戸王という人物自体の実在、そして厩戸王が聖徳太子の事績として語られる政策の何分の一かは実際に行ったということは確かなようです。

 問題はどの程度誇張されているのかという点ですが……。個人的には、厩戸王と聖徳太子の関係は徳川(とくがわ)光圀(みつくに)(1628~1701)と水戸黄門の関係のようなもの、という説明がしっくりきます。


 厩戸王が進めた(とされる)政策として重要なものは、仏教の振興、冠位(かんい)十二階(じゅうにかい)の制定、十七条(じゅうななじょう)憲法(けんぽう)の制定、それに遣隋使(けんずいし)の派遣などが挙げられます。

 特に冠位十二階と十七条憲法については、律令制(りつりょうせい)に基づき天皇の権威を強化して、蘇我氏の専横を抑え込むためのもの、と位置づけられることが多いですが、一方で、それらも含めて厩戸王の政策はあくまで蘇我氏の立場に立ったもの、という見方もあるようです。

 遣隋使(けんずいし)の派遣も、新羅(しらぎ)(ずい)、どちらと結ぶかという外交政策上のものですし。


 これは推古帝や厩戸王も馬子の傀儡だった、というよりも、当時は想像以上に母系の影響力が大きかったですから、推古帝および厩戸王も、天皇家の人間というよりあくまで蘇我ファミリーの一員だったのではないか、という見方です。


 まあこのあたりについてははっきりわからないことも多く、専門家の方たちも諸説を戦わせている状態ではあるわけですが。色々想像を巡らせてみるのも面白いですね。



 厩戸王は622年に亡くなり、推古帝も628年に崩御すると、推古帝には男児がなく、厩戸王の子の山背(やましろの)大兄王(おおえのおう)(?~643)を推す勢力と、敏達帝の孫である田村皇子(たむらのみこ)(593~641)を推す勢力とが対立します。

 結局、馬子の息子の蘇我(そがの)蝦夷(えみし)(586?~645)が推す田村皇子が即して第34代舒明(じょめい)天皇となるわけですが、この問題は後々までくすぶり続けることとなります。


 舒明帝が641年に崩御すると、その妃だった寶女王たからのひめみこ(594~661)が第35代皇極(こうぎょく)天皇として即位します。

 史上二人目の女帝である彼女は敏達帝の曾孫に当たります。


 寶女王たからのひめみこは594年生まれで、父は茅渟王(ちぬのおおきみ)(生没年不詳)、祖父は押坂(おしさかの)彦人(ひこひとの)大兄皇子(おおえのみこ)(生没年不詳)。

 茅渟王と舒明帝は共に押坂彦人大兄皇子がもうけた異母兄弟ですので、舒明帝と寶女王は叔父姪婚(おじめいこん)ということになりますね。


 蝦夷と息子の蘇我(そがの)入鹿(いるか)(?~645)の思惑としては、舒明帝と馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)(生没年不詳)の間の子――つまり蝦夷の甥で入鹿の従兄弟――である古人(ふるひとの)大兄皇子(おおえのみこ)(?~645)を擁立したいと考えており、皇極帝はあくまで中継ぎという位置づけでした。


 そして643年。入鹿は山背大兄王を攻め滅ぼします。

 これは蘇我氏の専横(せんおう)と見られがちですが、実際には巨勢(こせ)氏や大伴(おおとも)氏などの氏族も参加しています。

 すでに皇統からは遠ざかっているにもかかわらず、交通の要衝である斑鳩(いかるが)の地に一大勢力を築いていた山背大兄王を、煙たく思う人たちが想像以上に多かったということのようです。


 が、その一方で蘇我氏への権力集中を快く思わない人たちもいました。その一人が中大兄(なかのおおえの)皇子(みこ)(626~672)。彼は舒明帝と皇極帝との間に生まれた皇子です。

 中大兄皇子とその謀臣(ぼうしん)である中臣(なかとみの)鎌足(かまたり)(614~669)らは645年6月12日、入鹿を殺害し、蝦夷を自害させます。

 この事件を乙巳(いっし)(へん)と言います。


 入鹿暗殺事件を指して「大化(たいか)の改新」と称することも多いですが、正確には、大化の改新とは乙巳の変を端緒とする一連の政変全体を指します。


 そしてこの政変に伴って、皇極帝は皇位を退き、弟である軽皇子(かるのみこ)(596~654)が即位します。これが第36代孝徳(こうとく)天皇です。


 かくして天皇家を(ないがし)ろにしていた蘇我氏は滅ぼされ、天皇家の権威が確立されたのでした――。と、言いたいところですが、ことはそれほど単純ではないようです。

 そもそも、軽皇子自身も山背大兄王討伐に参加していますし、即位後に重用したのも、蘇我氏系の人々が多くを占めています。

 このあたり、各勢力の思惑が複雑に絡み合い、集合離散を繰り返していた、ということなのでしょう。

 また、蘇我氏もこれで滅びたわけではなく、蝦夷・入鹿の血統とは別の血筋が、天皇家の姻戚としてこの後も隠然たる権力を握り続けます。


 孝徳帝は現在の大阪市中央区に難波宮(なにわのみや)を造営してそこに遷都(せんと)しますが、これは群臣に不評で、皇太子となっていた中大兄皇子と共に、多くの人たちが飛鳥(あすか)の地へ去ってしまいます。

 これに落胆した孝徳帝は、失意のうちに(やまい)を得て654年に崩御します。


 そして皇極帝が再び皇位に()きます。いわゆる重祚(ちょうそ)ですね。新たな(おくりな)斉明(さいめい)天皇。もちろん、実際に政治の中心となったのは息子である中大兄です。


 斉明時代の重要な事績としては、三度に渡る蝦夷(えみし)討伐。ややこしいですが、ここでいう「蝦夷」は蘇我氏の有力者の名ではなく、当時の東日本に割拠していた大和政権に従わない人々のことです。


 また、660年に朝鮮半島南西部の百済(くだら)(とう)新羅(しらぎ)の連合軍に滅ぼされると、人質として日本に来ていた百済皇子・扶余豊璋(ふよほうしょう)(生没年不詳)を支援して半島への派兵を決定、朝倉宮(あさくらのみや)(現在の福岡県朝倉市とする説が有力)に遷幸(せんこう)しますが、この地で崩御します。


 その後、半島への派兵事業は中大兄が即位しないまま引き継ぎますが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで惨敗を喫したことは皆様ご存じのことでしょう。


 そしてその後、中大兄が即位して第38代天智(てんち)天皇となり、その崩御後に息子の大友(おおともの)皇子(みこ)(648~672)と弟の大海人(おおあまの)皇子(みこ)(?~686)の間で壬申(じんしん)の乱が勃発する、というのは持統天皇の項で書いた通り。

 ちなみに、大海人皇子も皇極の息子です。



 壬申の乱に勝利を収めた大海人皇子は即位して第40代天武(てんむ)天皇となり、その崩御後に妃である鸕野(うのの)讚良(さららの)皇女(ひめみこ)(645~703)が第41代持統天皇として即位。詳細は持統天皇の項をご参照ください。


 持統帝は696年に孫の軽皇子(かるのみこ)に譲位し、自身は上皇となります。これが第42代文武(もんむ)天皇(683~707)。孝徳天皇の(いみな)と同じでややこしいですね。


 しかし、孫に譲位してめでたしめでたし、というわけではなかったのではないか、という見方もあります。

 文武帝の妃は藤原(ふじわらの)不比等(ふひと)(659~720)の娘であり、ここから蘇我氏系(持統帝の母・遠智娘(おちのいらつめ)(生没年不詳)は蘇我氏出身)と藤原氏系の女系の争いが生じる、とする見方です。


 文武帝が707年に若くして崩御すると、皇位に()いたのはその母親の第43代元明(げんめい)天皇(661~721)。

 彼女の(いみな)阿陪(あへの)皇女(ひめみこ)。天智帝の娘で、母親は蘇我(そがの)倉山田(くらやまだ)石川麻呂(いしかわまろ)(?~649)の娘の姪娘めいのいらつめですから、持統帝にとっては母方の従妹(いとこ)に当たります。


 元明帝は715年、娘の氷高(ひだかの)皇女(ひめみこ)(680~748)に譲位します。これが第44代元正(げんしょう)天皇です。

 氷高皇女は元明帝が持統帝の息子である草壁(くさかべの)皇子(みこ)(662~689)との間にもうけた娘で、文武帝の姉です。


 文武帝は妃である藤原(ふじわらの)宮子(みやこ)(?~754)との間に首皇子(おびとのみこ)(701~756)という子をもうけており、通説では元明および元正両女帝は単なる中継ぎとされています。


 元明即位の時点ではもちろん、元正即位の時点でも首皇子(おびとのみこ)は数え年15歳。当時は皇位に()く前に皇太子として天皇の補佐をする経験をある程度の期間積むことが慣例でしたから、中継ぎを挟むのもやむなし。それに元正帝は独身で即位していますので、いずれ皇位は首皇子に回って来ることとなるわけですが……。


 ここで元明帝は奇策を打ち出します。

 娘・元正帝への譲位に先立って、もう一人の娘である吉備内親王(きびないしんのう)(686頃?~729)の子を、本来は三世であるところ、皇孫(こうそん)(二世)待遇とするのです。確かに元明帝の孫ではあるのですけどね。

 吉備内親王の夫は、天武帝の孫で有能な政治家の長屋王(ながやおう)(676 or 684~729)。その母親は元明帝の同母姉である御名部(おなべの)皇女(ひめみこ)(生没年不詳)です。


 これに関しては、将来首皇子を補佐させるため、と考えるのはやはり無理があるでしょう。

 長屋王自身も有力な皇位継承権者ですし、その子供たちの継承権順位を上げるなど、首皇子への円満な皇位継承()()を考えるなら、騒動の種にしかなりません。


 この翌年の716年には、首皇子の(もと)に藤原不比等の娘(宮子の異母妹)の安宿媛(あすかべひめ)(701~760)――「光明子(こうみょうし)」とも呼ばれます――が輿入(こしい)れします。元々この二人は同年生まれで幼馴染だったと考えられていますので、藤原氏としては既定路線ですね。


 元明帝が打った手は、このまま首皇子およびその子供という藤原女系への皇位継承を阻む狙いがあった、と考えてよいのではないでしょうか。


 720年に藤原不比等、翌721年に元明帝が相次いで亡くなり、724年には首皇子は第45代聖武(しょうむ)天皇として即位します。


 727年には光明子こと安宿媛に待望の皇子が生まれるも、あえなく夭折(ようせつ)。それに前後して、聖武帝の別の妃・県犬養(あがたいぬかいの)広刀自(ひろとじ)(?~762)という女性が皇子を出産はするものの、ここで聖武帝に万一のことがあれば、皇位は長屋王・吉備内親王夫妻およびその子供たちに奪われてしまう公算が大です。


 そこで起こったのが、729年のいわゆる「長屋王の変」。

 これは不比等の子の藤原四兄弟(武智麻呂むちまろ(680~737),房前ふささき(681~737),宇合うまかい(694~737),麻呂まろ(695~737))が政敵である長屋王を抹殺するために謀反をでっち上げたとされていますが、むしろ真の狙いは、吉備内親王および二人の間の子供たちだったのではないかという見方もあります。


 また、この事件に関して、聖武帝も、主導とは言わぬまでも積極的に容認していたのではないかという見方もあるようです。


 と、偉そうに書いてきましたが、このあたりの話は大体永井(ながい)路子(みちこ)先生の受け売りです。てへぺろ。

 ご興味がおありの方は、『悪霊列伝』や『美貌の女帝』などの著作をお読みいただければと思います。


 さて、長屋王およびその妻子を皆殺しにして皇位を安定させ政治の実権を一手に握った聖武帝および藤原四兄弟ですが……。

 先程書いた四兄弟の没年をご覧いただけばおわかりのように、737年、四兄弟は天然痘のため全滅します。


 そして、聖武帝と光明皇后は、長屋王たちの(たた)りを生涯恐れ続けることとなります。因果応報(ざまぁ)

 東大寺の大仏造立(ぞうりゅう)は、当時頻発した災害や疫病流行を鎮めるためとされていますが、長屋王たちの鎮魂(たましずめ)という意味合いもあったのではないでしょうか。


 県犬養広刀自が産んだ皇子も若くして亡くなり、聖武帝の子は光明皇后が産んだ娘・阿倍(あべの)内親王(ないしんのう)(718~770)のみ。そして聖武帝自身も病気がちになり政務が()れなくなります。

 上皇となっていた元正帝は、聖武帝に代わって政務を執り行います。

 この時出された(みことのり)の中で、元正帝は聖武帝を「我子」と呼んでいるのですが、果たしてどんな気持ちだったのでしょうね。


 その元正帝も748年に崩御。聖武帝は翌749年、阿倍内親王に譲位します。これが第46代孝謙(こうけん)天皇、後に重祚(ちょうそ)して第48代称徳(しょうとく)天皇です。


 これ以降のことについては、孝謙天皇の項をご参照ください。

 この時の騒動に()りたからか、女性天皇は江戸時代まで途絶えることとなります。


 というわけで、次回は江戸時代の女性天皇を取り上げます。ラス前だよ乞うご期待!

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スピンオフ(?)作品もあるよ。
第一弾『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ』
第二弾『人間椅子』
第三弾『マルタ=スカヴロンスカヤは灰かぶりの夢を見るか』
第四弾『女帝のお茶会』
第五弾『ハギスと女王と元女王』
第六弾『スルタン未だ没せず』
第七弾『ちっちゃなバイキング』

なろう活動三周年の記念に、かぐつち・マナぱ様よりFAをいただきました~。
どれが誰かはご想像にお任せします(笑)。


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