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女王様はロマンの塊~古今東西女性君主列伝~  作者: 平井敦史


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マリア=テレジア(オーストリア・ハプスブルク帝国:在位1740~1780)・前編

 いよいよ本エッセイも大詰(おおづ)め。西のラスボスの登場です。

 その公私に渡るスケールの大きさから、「女帝」と称されることが多い彼女ですが、実際には神聖ローマ皇帝位には()いていません。正式な称号は、神聖ローマ皇后、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王ということになります。


 はじめに、そもそもハプスブルク家とは、というところから。

 始祖はドイツ南西部シュヴァーベン地方の貴族クレトガウ伯爵家。ラートボト(985頃~1045)という人が、スイスにハプスブルク要塞を建設、これが(のち)に家名となります。

 彼の七代後のルドルフ(1218~1291)が、ルドルフ一世として神聖ローマ皇帝位に()きます。


 神聖ローマ皇帝位は、フリードリヒ二世(1194~1250)の死後、彼の血筋がシャルル=ダンジュー(1227~1285)によって滅ぼされ、大空位(だいくうい)時代と呼ばれる断絶期を迎えます。そこで担ぎ出されたのが、当時はまだ弱小勢力だったハプスブルク家のルドルフだったのです。


 このルドルフさん、傀儡(かいらい)にしようという周囲の思惑に反し、中々の(したた)か者で、敵対勢力を打ち破り領土を拡大して、ハプスブルク帝国の(いしずえ)を築きます。

 とは言うものの、これでハプスブルク家の権威が確立したわけではなく、他の血統から皇帝が担ぎ出されることも幾度かあったのですが。


 最初の頃の領土は、現在のオーストリアおよびスロベニアのあたり。そこから後にハンガリーなどの地域も領有するようになります。

 1526年にハンガリー王ラヨシュ二世(1506~1526)がオスマン帝国との戦いで戦死すると、ラヨシュの姉の夫であるオーストリア大公フェルデナント(1503~1564)がハンガリー王、およびボヘミア王となり、その後彼が神聖ローマ皇帝フェルディナント一世として即位したことで、これらの地域も帝国領に組み込まれたのです。


 ちなみに、フェルディナントの兄で先代神聖ローマ皇帝のカール五世(1500~1558)は、同時にスペイン王カルロス一世でもありました。

 彼の母親(フェルディナントもですが)がスペインの王女――カトリック両王の娘フアナ(1479~1555)だったため、スペイン王位を継承したのです。


 ここでスペインハプスブルク家という分家が生まれるわけですが、これはカルロス二世(1661~1700)で()え、その後のスペイン王位を巡ってスペイン継承戦争が勃発、という話はアン女王の時に書きましたね。


 1701年から1714年まで、およそ13年間に渡って繰り広げられたこの戦争の当事者の一人だったのが、ハプスブルク家神聖ローマ皇帝レオポルト一世(1640~1705)の次男カール。後のカール六世(1685~1740)で、マリア=テレジアの父親です。


 彼はスペイン王位の継承権を主張し、名将・オイゲン=フォン=ザヴォイエン(1663~1736)――通称「プリンツ=オイゲン」と共に、各地の戦いで活躍しますが、兄ヨーゼフ一世(1678~1711)が亡くなって男児がいなかったため跡を継ぐことになります。

 ただし、ヨーゼフには息子は夭折(ようせつ)した一人だけだったものの、娘は二人おり、これが後々(のちのち)火種(ひだね)となります。

 あと、カールがスペイン王位を断念せざるを得なかった経緯は、アンの項をご参照ください。


 マリア=テレジアは1717年、カール六世と皇后エリーザベト=クリスティーネ(1691~1750)の長女として生まれました。

 両親はこの娘を大変可愛がります。一例を挙げると、イエスの洗礼に用いられたと言われる中東ヨルダン川の水をわざわざ()んで来させて洗礼を受けさせるといった具合です。


 しかしその一方で、当時のハプスブルク家の継承法が男系相続だったこともあって、マリアはいわゆる帝王学を学ぶ機会は与えられませんでした。


 やがてマリアが年頃になると、結婚話が持ち上がります。

 候補としては、バイエルン選帝侯(せんていこう)家の男子や、プロイセンの王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ二世(1712~1786))などが挙げられます。

 そんな中、最終的に婿に選ばれたのは、現在はフランスに属するロレーヌの領主ロートリンゲン家のフランツ=シュテファン(1708~1765)。これは、1686年の第二次ウィーン包囲の際にオスマン帝国軍を撃退した英雄であるカール五世レオポルト(1643~1690)の孫という点が重視されたようです。


 なお、フリードリヒ大王ことフリードリヒ二世が女嫌いになったのは、マリア=テレジアに振られたからだという説があります。

 もっとも、ハプスブルク家は何しろ神聖ローマ皇帝ですからバリバリのカトリック、一方プロイセン王国はプロテスタントなので、そもそもまとまる話ではなかった、という説もあるようですが。

 いずれにせよ、マリアはこの先フリードリヒと悪因縁を紡いでいくこととなります。


 が、それはさておき、マリアと、ウィーンに留学して来たフランツとは、お互いのことを大変気に入り、政略結婚でありつつも相思相愛という、当時としては珍しい縁を結びます。

 二人は1736年に結婚。この結婚に際しフランツは、元々ハプスブルク帝国とフランスとの間の帰属問題が複雑化していたロレーヌ領を、フランスに割譲することとなり、代わりにトスカーナ大公(現在のイタリア北部)の地位を得ます。


 こうしてラブラブな新婚生活をスタートさせた二人。父親のカール六世も、男児の誕生を期待していたのですが、生まれたのは三人立て続けに女児。そしてカール六世自身も男児に恵まれないまま、1740年に没します。


 そこで勃発したのが、いわゆる「オーストリア継承戦争」。

 キーマンとなるのは、先に触れたヨーゼフ二世の二人の娘婿。

 長女マリア=ヨーゼファ(1699~1755)の夫。ザクセン選帝侯でポーランド王のアウグスト三世サス(1696~1763)。

 次女マリア=アマーリエ(1701~1756)の夫。バイエルン選帝侯カール=アルブレヒト(1697~1745)。

 さらに、プロイセン、フランス、英国なども介入して来て、第四子を妊娠中だったマリア=テレジアは絶体絶命の危機を迎えます。


 それにしても、関係者全員「マリア」ってどういうこっちゃねん。ややこしいわ(笑)。


 各国がこぞって介入して来た背景には、まともな政治教育を受けていないマリア=テレジアを侮っていたから、という一面もあったようです。

 もっとも、英国だけは、彼女の毅然とした態度に非凡な資質を見抜いていたようですが。


 最初に口火を切ったのは、プロイセンのフリードリヒ。

 1740年12月16日、プロイセンの南方のハプスブルク領シュレージエン(シレジア)地方に出兵します。名目は、孤立しているマリア=テレジアを「守護」するためということでしたが、その代償として戦費とシュレージエンの割譲を求めます。

 親切の押し売り、しかも下心丸出し。そういうとこやぞ、フリードリヒ。

 これに対し、マリア=テレジアは狼狽する重臣たちを叱咤し、徹底抗戦を呼びかけます。


 年が明けて1741年3月13日には、マリア=テレジアは待望の男児を出産。これが後のヨーゼフ二世(1741~1790)です。

 この慶事により、オーストリアの士気は上がりますが、戦争は負けが続き、ジリ貧の状況に陥って行きます。


 そこでマリア=テレジアが打開策として考えたのが、ハンガリーを味方に付けることでした。

 当時のハンガリーは、1529年にオスマン帝国のスレイマン一世(スレイマン大帝:1494~1566)により占領され、1683年から1699年の大トルコ戦争により、ハプスブルク家の支配下に入っていました。

 この、新たな支配者ハプスブルク家に対して必ずしも良い感情を抱いていなかったハンガリーに対し、マリア=テレジアは、うら若き美女といたいけな幼子(おさなご)アピールを前面に押し出すことで味方に付けます。中々(したた)かですね。


 ハンガリー軍の戦力自体はそれほど大きなものではありませんでしたが、四面楚歌滅亡寸前のオーストリアに味方が現れたということの効果は決して小さくなく、マリア=テレジアはどうにか一息つくことが出来ました。


 また、当初マリア=テレジアに敵対していたポーランド王アウグスト三世サスも、プロイセンと敵対しオーストリア支持に回ります。


 とは言うものの、戦況はやはり(かんば)しくなく、神聖ローマ皇帝位も、ボヘミア王位も、バイエルン選帝侯カール=アルブレヒト(神聖ローマ皇帝カール七世)に奪われてしまいます。


 しかし、次第にプロイセンの野心があからさまになってくると、逆にプロイセンが孤立している状態となり、さらに1945年1月にはカール七世が病没。新たな皇帝を選出する選挙で、マリア=テレジアの夫フランツ=シュテファンが選出されます。

 これにはマリア=テレジアも大喜び。懐妊していたにもかかわらず、皇帝選挙が行われたフランクフルトまで同行し、喜びを分かち合いました。


 マリア=テレジアとフランツ=シュテファンのラブラブ夫婦っぷりは有名ですので、良かったね、というかんじではあるのですが……。疑問を抱かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 オーストリア継承戦争の間、フランツは一体何をしていたのかと。


 実のところ、フランツには政治軍事の才能はなく、マリア=テレジアは夫に実権を握らせようとはしなかったのです。

 このあたりも、夫ラブなように見えて、(したた)かな一面と言っていいでしょう。

 夫を神聖ローマ皇帝位に()けたことも、この当時の皇帝位はほぼ権威のみで、実際の政治権力はオーストリア大公位の方に付随していたので、はっきり言ってしまえばただのお飾りなんですよね。


 もっとも、このお飾り皇帝、人柄はすこぶる良く(だからマリア=テレジアもベタ惚れだったわけですが)、また、自然科学への造詣が非常に深い他、理財の才もあるなど、決して無能なだけの人物ではなかった、という点はフォローしておきましょう。


 というわけで、どうにかこうにかオーストリア継承戦争を乗り切ったマリア=テレジア。しかし、戦後処理で結局シュレージエンはプロイセンに割譲することとなります。

 この屈辱を晴らすため、マリア=テレジアは内政および軍事面の改革に手を付け、有能な家臣たちを抜擢していくことになります。

 そのあたりのお話は後編にて。乞うご期待!

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スピンオフ(?)作品もあるよ。
第一弾『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ』
第二弾『人間椅子』
第三弾『マルタ=スカヴロンスカヤは灰かぶりの夢を見るか』
第四弾『女帝のお茶会』
第五弾『ハギスと女王と元女王』
第六弾『スルタン未だ没せず』
第七弾『ちっちゃなバイキング』

なろう活動三周年の記念に、かぐつち・マナぱ様よりFAをいただきました~。
どれが誰かはご想像にお任せします(笑)。


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