ヤドヴィガ(ポーランド王国:在位1384.11~1399.7.17)
今回の舞台はポーランド。ポーランドの歴史というと、皆様どのような印象をお持ちでしょうか。周辺のドイツやらロシアやらに、ボコボコにされているイメージ? そうですね、私もそう思っていました(笑)。
しかし、実はポーランドは、欧州随一の大国だった時期もあったのです。そのあたりのことについて、見ていくことにいたしましょう。
まずは、ポーランド史の概略から。ポーランドの礎を築いたのは、西スラヴ民族の一派、ポラン族。レフ族とも呼ばれる彼らは、十世紀頃、この地域に定住するようになったと言われています。
「ポラン」とは「平地の人」の意。これがポーランドの国名の由来となりますが、その名のとおり、ポーランドの国土の大部分は平原で構成されています。
そのため、外敵の侵入を阻むことが難しく、国境線も安定しませんでした。
ポラン族の長――というか、部族連合の代表者――として名前が残っている最初の人物は、九世紀頃のピャスト(生没年不詳)という人。通称「車大工のピャスト」と呼ばれるこの人物は、半ば伝説上の人物で、「車大工」という呼び名も、必ずしも実際に車職人だったり職人ギルド(的なもの)の親方だったりしたのかどうかははっきりしません。「車輪=太陽崇拝の象徴」といった見方もあるようです。
この車大工の玄孫とされるのが、ミェシュコ一世(935?~992)。963年にポーランド公となった彼は、カトリックに改宗しローマ教皇の傘下に入ることで、神聖ローマ帝国の侵略を食い止めます。また、ボヘミア公国の公女を娶るなどして周辺諸国と同盟を結んでいきました。
そして、彼の息子のボレスワフ一世(966or7~1025)が跡を継ぐと、「周囲から攻め込まれ放題ということは、逆に周囲に攻め込み放題」というコペルニクス的発想の転換(笑)で、周辺諸国をどんどん征服していって、「勇敢王」との異名を取り、彼の死の直前に、ポーランドは公国から王国になります。
ちなみにこの時期は、北海の覇王ことデンマークのクヌート大王(990頃~1035)とか、東ローマ帝国の最盛期を築いたバシレイオス二世(958~1025)とか、やべー奴らがひしめきあっていた時代なんですね。
で、ミェシュコとボレスワフ親子が礎を築いたピャスト朝、兄弟による分割相続が原因で分裂したり、モンゴル帝国に侵略されたり、その後再統一されたりします。
分裂していた時期の王ヘンリク二世(1196頃~1241)はレグニツァ(ワールシュタット)の戦いで戦死していますしね。
しかし、モンゴルをどうにか追い払うと、国家再建のために移民を積極的に受け入れたことで、復興を果たすことが出来ました。
そして、十四世紀に入るとカジミェシュ三世(1310~1370)という名君が登場します。
この人は、軍事および外交によって国土を拡げる一方、貧しい農民層を保護する政策を打ち出したり、ポーランド最古でスラヴ人による初の大学でもあるヤギェウォ大学(当時はクラクフ大学)を建てたりと、内政および文化面でも数々の業績を残しました。
ただ残念なことに、カジミェシュ三世には嗣子がおらず、王位はカジミェシュ三世の姉の子であるハンガリー王ラヨシュ一世(1326~1382)が継承します。ポーランド王としての名はルドヴィク一世です。
このラヨシュ(ルドヴィク)一世の娘が、今回の主人公ヤドヴィガです。
ヤドヴィガは、1373ないし74年に、ハンガリー王国の首都ブダで生まれました。
母親はボスニア太守の娘エリザベタ=コトロマニッチ(1340~1387)。
1382年にラヨシュ一世が亡くなると、ヤドヴィガの姉マーリア(1371~1395)がハンガリー王位を継承しますが、ポーランド貴族たちはハンガリーとの同君連合状態からの脱却を望み、妹のヤドヴィガを女王に立てようと画策します。
ヤドヴィガは、父方、母方ともに、祖母はピャスト家の流れを汲んでおり、その点でポーランドの人たちにとって「おらが女王様」だったわけです。
もちろん、同母姉であるマーリアもその点は同じではあったのですが、ハンガリーの紐付きはお断りというわけですね。
そして1384年11月、当時10歳のヤドヴィガが「王」(Rex Poloniæ)に立てられました。
女性でありながら「女王」(Regina Poloniæ)ではなく「王」の称号で呼ばれたのは、英語の「Queen」と同様に、「Regina」には「王の配偶者」という意味も含まれていたため、彼女自身の資格において王であることを強調する意図があったのです。
ヤドヴィガは1歳の頃からオーストリア公子ヴィルヘルム(1370頃~1406)と婚約が結ばれており、ヤドヴィガ自身もヴィルヘルムを愛していたと言われていますが、ポーランド貴族たちはオーストリアの支配を嫌い、彼を追い出してしまいます。
そして彼女が夫に迎えることになったのは、25歳ほども年上の、リトアニア大公ヨガイラ(1348~1434)という人物でした。
1386年、弱冠11歳のヤドヴィガは、ヨガイラと結婚します。
この時条件とされたのが、ヨガイラおよびリトアニア大公国のカトリック入信でした。
ヨガイラにとっても、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)による北方十字軍の矛先を逸らすために、カトリックへの改宗は望むところだったのです。
ヨガイラはカトリックの洗礼を受けて「ヴワディスワフ」と名乗り、ヤドヴィガと結婚することでポーランドの共同統治者となって、「ヴワディスワフ二世ヤギェウォ」と呼ばれることとなります。「ヤギェウォ」はヨガイラのポーランド語読みです。
結婚の翌年の1387年には、ハンガリー摂政だった母エリザベタが暗殺され、さらに1395年には姉のマーリアも難産が原因で亡くなって、ヤドヴィガは天涯孤独の身の上となります。そして夫は、親子ほども年齢の離れたおっさんです。その心中は察するに余りありますね。
しかしながら、ヤドヴィガは高度な教育を受けて育てられ、ラテン語、ボスニア語、ハンガリー語、セルビア語、ポーランド語、ドイツ語に堪能で、学問や芸術の素養も身に着けた上、大変信心深い女性に成長していました。
政治軍事の実権はヴワディスワフが一手に握っていましたが、1387年には、ヤドヴィガ自ら軍を率いて、父ラヨシュ一世がハンガリーに組み込んでいた現ウクライナのハールィチを奪還。さらにモルドヴァ公を臣従させています。
ただまあ、この時の彼女の年齢なども考え合わせると、自分で軍を率いたというより、旗印として担ぎ出されただけ、と見るべきなのかもしれませんが。
また、ヤドヴィガは文化事業や慈善事業に力を注ぎ、同時にリトアニアのカトリック化も推し進めていきました。
大叔父カジミェシュ三世が設立するもその死後は機能停止していたクラクフ大学を復興させたのも、彼女の業績の一つとされています。
ちなみに、クラクフ大学がヴワディスワフにちなんで「ヤギェウォ大学」と名を改めるのは、1817年のことです。
こうして、ポーランド女王としての務めを果たしていたヤドヴィガでしたが、1399年6月22日、娘を出産するも、難産の影響で7月17日逝去。彼女が命懸けで産んだ娘も、夭折してしまいました。
彼女が若くして世を去ったのは残念なことではありますが、これが個人レベルの不幸だけで終わらないのが、王族の因果なところ。ヤドヴィガの死により、ヴワディスワフはポーランド統治の正当性を失うこととなります。
この危機を、ヴワディスワフはカジミェシュ三世の孫(娘の娘)であるアンナ=ツィレイスカ(1381~1416)を妻に迎えることで乗り切ります。
その後、ヴワディスワフは、カトリック化してもなお侵攻を止めようとしないドイツ騎士団と戦い続けて、ついにこれを撃退。ヤギェウォ朝ポーランド=リトアニア連合王国の祖となります。
以上見てきたように、ヤドヴィガ自身は若くして亡くなったのですが、夫が後に欧州随一の大国となるポーランド=リトアニア連合王国の礎を築いたことや、彼女自身もリトアニアのカトリック化に大いに貢献したことなどから、彼女は神格化されていきました。
そうなると当然、「奇蹟」なんかも起きてしまうわけで。
曰く、困窮していた石工に施しをして立ち去ったら、固まっていたはずの床の漆喰に足跡が残っていただとか、溺死した少年をマントで包んだら生き返っただとか。数々の、まあ何と言うか、不思議な逸話が伝えられています。
そして1997年にはついに、ローマ法王ヨハネ=パウロ二世(1920~2005)により列聖されることとなりました。
ヤドヴィガは女性君主、王妃および統合ヨーロッパの守護聖人であるとされています。
「聖女女王」というと、エイレーネーなんて人もいましたが、まあそれと比べたら、ヤドヴィガの方はまだ納得できますね(笑)。
さて次回は、シチリア女王コスタンツァを取り上げます。誰やねんそれ、って? 拙作『フリードリヒ二世の手紙』の主人公、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の母親です。乞うご期待!





