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女王様はロマンの塊~古今東西女性君主列伝~  作者: 平井敦史


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広義門院(日本:在位1352.6.19~1353)

 日本の女性君主というと、邪馬台国の女王卑弥呼や何人かの女性天皇の名前が挙げられます。

 そんな中で、広義門院て誰やねん、女性君主てどういうこっちゃねん、とお思いの方も多いことでしょう。


 広義門院(こうぎもんいん)こと西園寺(さいおんじ)寧子(ねいし)。名前は「やすこ」と読まれることもあります。

 彼女は、鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に、北朝初代光厳(こうごん)天皇(1313~1364)、第二代光明(こうみょう)天皇(1322~1380)の生母としての立場において、短期間ながら治天(ちてん)(きみ)となったお方です。


 彼女を「女性君主」として扱うことに対して異論もあろうかとは思いますが、一般にはあまり馴染みがないであろう南北朝時代について、ちょっとばかり知識を深めていただけましたら幸いです。

 まあ、広義門院(こうぎもんいん)と直接関りはないですが、北条氏の遺児・北条(ほうじょう)時行(ときゆき)を主人公にした『逃げ上手の若君』のアニメ化も決定したそうですし、流れは来ているということで(笑)。



 さて最初に、「治天(ちてん)(きみ)」て何じゃらほい? とおっしゃる方も多いかと思いますので、その説明から。

 治天(ちてん)(きみ)とは、日本の古代末期から中世にかけて、皇室の当主として政務の実権を握った法皇(ほうおう)上皇(じょうこう)、あるいは天皇を指します。


 天皇が当然のように政務を行っていた奈良時代あたりまでの天皇については、治天の君という言い方はしません。

 藤原氏が台頭してきて摂関(せっかん)政治を行い、天皇が権威の象徴に祭り上げられた時代を経て、登場したのが白河(しらかわ)法皇(1053~1129)。天皇の座から退いた後、上皇を経て法皇となり、院政(いんせい)を開いて政治の実権を握ります。


 もっとも、白河院も世間で思われているほど最初から権力志向だったわけではなく、摂関家の有力者の死去やそれに伴う混乱の中で、結果的に彼に権力が集中することになった、という見方もあるようですが。


 いずれにせよ、これ以降「治天の君」という概念が生まれます。

 武家政権の台頭により、天皇が政治の実権を握ることは基本的になくなりますが、皇室が有する広大な荘園(しょうえん)を差配する権利を一手に握る者として、「治天の君」は重要な意味を持ち続け、その座を巡って争いが繰り広げられることとなります。


 治天の君となるための最重要条件は二つありました。まあ、後に例外も出て来るのですがそれはさておいて。

 一つ目は、天皇もしくは天皇経験者であること。

 二つ目は、時の天皇の直系(ちょっけい)尊属(そんぞく)――つまり父親、祖父、あるいは曾祖父であること。

 つまり、まずは天皇にならないと治天の君にはなれず、治天の君にならないと自分の血筋を皇位に就かせる権限がないわけです。そりゃあ、その座を巡って熾烈な争いが起きるのも当然でしょう。


 そして後嵯峨(ごさが)上皇(1220~1272)の時代、皇位継承に関して、後々まで揉め事の種となるルールが作られます。

 時の治天の君・後嵯峨院は、息子の後深草(ごふかくさ)天皇(1243~1304)の後継に、後深草の皇子ではなく、自分のお気に入りだったもう一人の息子――後深草の弟に当たる亀山(かめやま)天皇(1249~1305)を立て、それ以降、後深草の子孫と亀山の子孫が交互に皇位に()くというルールを定めたのです。


 この二つの皇統(こうとう)は、それぞれの住まいがあった場所にちなんで、持明院統(じみょういんとう)(=後深草系)と大覚寺統(だいかくじとう)(=亀山系)と呼ばれるようになります。

 しかし、そんなルールがいつまでも律儀に守り続けられるはずもなく。ある型破りな人物の登場により、(くすぶ)り続けていた火種が一気に燃え上がることとなります。


 その人物とは、皆様ご存じ後醍醐(ごだいご)天皇(1288~1339)。鎌倉幕府滅亡のきっかけを作ったお人です。

 大覚寺統から皇位に就いた後醍醐が、幕府打倒を目指すようになったきっかけは、武家が政治の実権を握っていることに対する不満もあったのでしょうが、より大きかったのは、皇位継承に関して幕府から口出しをされたことだったようです。


 どういうことか簡単に言うと、後醍醐の皇子に皇位を継がせて持明院統を排除しようとしたことに対して、鎌倉幕府が横槍を入れ、持明院統の量仁(かずひと)親王――後の光厳(こうごん)天皇を東宮(とうぐう)(皇太子)に立てさせられたのです。


 量仁(かずひと)親王の父は、後醍醐の三代前の後伏見(ごふしみ)天皇(1288~1336)。そしてその女御(にょうご)であり量仁を産んだのが、ようやく登場しました今回の主人公・西園寺(さいおんじ)寧子(ねいし)です。


 寧子(ねいし)は、1292年、公家の西園寺(さいおんじ)公衡(きんひら)(1264~1315)の娘として生まれ、14歳の時、持明院統の後伏見天皇の女御となります。

 そして、量仁親王、豊仁(ゆたひと)親王――後の光明(こうみょう)天皇らの皇子を産む一方、後伏見の弟で後醍醐の一代前の天皇である花園(はなぞの)天皇(1297~1348)の准母(じゅんぼ)――形式上の母親とされ、広義門院(こうぎもんいん)の院号を授けられます。


 花園天皇は1318年、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位しますが、後醍醐は1331年、倒幕計画の発覚、いわゆる「元弘(げんこう)の乱」により皇位を()われ、量仁親王が光厳天皇として即位。後伏見が治天の君となり、広義門院(こうぎもんいん)は名実ともに国母(こくぼ)となります。


 が、2年後の1333年には、足利(あしかが)尊氏(たかうじ)(1305~1358)や新田(にった)義貞(よしさだ)(1301~1338)らを味方に付けた後醍醐が、鎌倉幕府を滅ぼして返り咲き、光厳天皇は廃されてしまいます。

 より正確に言うなら、「(ちん)は皇位を退いてなどおらぬ。量仁が即位? そんなことは知らぬ」というのが後醍醐の主張で、光厳天皇は存在しなかったことにされてしまったのです。

 このあたり、後醍醐の性格が表れているといってよいでしょう。


 1336年、後伏見が没すると、広義門院も出家。しかし、その年のうちに、情勢が大きく変わります。

 後醍醐と対立した足利尊氏が反旗を翻し、両者の対立の過程で、尊氏は光厳を担ぎ出したのです。


 かくして、後醍醐は吉野に()われ、室町幕府が成立。光厳は上皇として治天の君となり、弟の豊仁親王が光明天皇として即位します。

 ここにおいて、光厳(=持明院統)を祖とする北朝と、後醍醐(=大覚寺統)を祖とする南朝とが並び立つこととなります。南北朝時代の幕開けです。


 波乱の末に再び国母となった広義門院。しかし、またしても波乱が襲い掛かります。


 室町幕府の主導権を巡って、尊氏および執事の(こうの)師直(もろなお)(?~1351)と、尊氏の弟・足利直義(ただよし)(1307~1352)とが対立。いわゆる「観応(かんのう)擾乱(じょうらん)」が勃発します。


 この乱の過程で、直義派に押された尊氏は、対抗上南朝に加担。これが、吉野も()われてさらに僻地の賀名生(あのう)(現在の奈良県五條(ごじょう)市)に逼塞(ひっそく)していた南朝を調子づかせることとなり、南朝勢は1352年、尊氏の子・足利(あしかが)義詮(よしあきら)(1330~1367)の軍勢を打ち破って一時京都を占拠。光厳や光明、光厳の息子の崇光(すこう)天皇(1334~1398)を拘束します。


 幕府勢の反撃により、南朝勢は京都からは追い出されますが、その際に光厳らを本拠地の賀名生(あのう)に拉致していってしまいます。


 これにより、天皇不在となった北朝および室町幕府は、南朝による拉致を(まぬが)れた弥仁(いやひと)親王(光厳の皇子:1338~1374)を即位させようとします。

 しかしその際、三種の神器が持ち去られていて手元に無いのは仕方ないとして、最低限、治天の君による伝国(でんこく)詔宣(しょうせん)を行う必要がありました。


 そこで幕府は、ばさら大名として有名な佐々木(ささき)道誉(どうよ)(1296~1373)を使者として、広義門院に上皇の代理を務めてほしいと申し入れます。

 これに対し広義門院は、最初拒絶の意を示します。京都を攻め落とされた挙句、光厳らの拉致も防げなかった幕府に腹を立てていた彼女としては、都合のいいときだけ利用しようとするな、というのは当然の言い分だったでしょう。


 しかし、幕府としても、彼女に首を縦に振ってもらわないことには、にっちもさっちも行きません。粘り強く説得を重ね、ついに広義門院も根負けして、治天の君の代役を務めることを了承します。


 かくして、女性の身で、しかも天皇経験者どころか皇族ですらない治天の君という、空前にして絶後の存在が誕生したのでした。

 話タイトルに掲げた在位1352.6.19~というのは、広義門院の名で各種の令旨(りょうじ)が発行されるようになった日付で、その時点から治天の君としての務めを果たすようになったと考えられる、ということです。


 そして同年8月17日、弥仁(いやひと)親王は践祚(せんそ)して後光厳(ごこうごん)天皇となります。

 践祚(せんそ)に当たっては、結局広義門院による伝国(でんこく)詔宣(しょうせん)ではなく、継体(けいたい)天皇(450?~531?)が群臣(ぐんしん)たちの支持を得て即位した「群臣義立」の故事に(なら)いました。


 じゃああの茶番はなんだったのか、という話なのですが、やはり、北朝方にも治天の君が存在していることを示すのは、この当時にあっては必要なことだったのでしょう。


 上皇たちを拉致し、これで天皇を立てることはできないだろうざまぁ見ろ、と考えていた南朝方は、もののみごとにざまぁ返しを喰らうこととなったのでした。

 とはいうものの、その後も南朝の抵抗はしぶとく続き、完全に平定されてしまうのは、百年以上後の1457年のことなのですが。


 広義門院は、1353年には政務を後光厳天皇に引き継いで治天の君の座から降りますが、その後も年若い孫を後見しながら、1357年、66歳でこの世を去ったのでした。



 というわけで、広義門院が歴史上果たした役割について見てきましたが、これについては、重要な場面でちょっと代役を務めただけじゃないか、というご意見もあることでしょう。

 亀田(かめだ)俊和(としたか)氏の『観応(かんのう)擾乱(じょうらん)』(中公新書)にも、名前すら出てきませんしね。


 しかしながら、当時の社会において、男性の当主不在時にその妻や母親が代理の役目を果たす、という事例はしばしば見られます。

 一番有名なのは、やはり尼将軍(あましょうぐん)こと北条(ほうじょう)政子(まさこ)(1157~1225)でしょう。

 また、戦国時代にも、夫の死後今川(いまがわ)家を支え女大名とも呼ばれた寿桂尼(じゅけいに)(?~1568)のような女性がいました。


 そうした流れと照らし合わせてみると、中々興味深いのではないでしょうか。

 ちなみに、このような慣行は、武家には見られるが公家には例がなく、そのため、広義門院を治天の君に立てるという珍案の発案者は、公家ではなく幕府だったのだろうと言われています。



 さて次回は、ユーラシアの東の果てからさらに東へ。ハワイ王国の女王リリウオカラニの登場です。乞うご期待!

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スピンオフ(?)作品もあるよ。
第一弾『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ』
第二弾『人間椅子』
第三弾『マルタ=スカヴロンスカヤは灰かぶりの夢を見るか』
第四弾『女帝のお茶会』
第五弾『ハギスと女王と元女王』
第六弾『スルタン未だ没せず』
第七弾『ちっちゃなバイキング』

なろう活動三周年の記念に、かぐつち・マナぱ様よりFAをいただきました~。
どれが誰かはご想像にお任せします(笑)。


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