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女王様はロマンの塊~古今東西女性君主列伝~  作者: 平井敦史


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メアリー二世(イングランド,スコットランド,アイルランド:在位1689.2.13~1694.12.28)

メアリー二世とアンで一話に纏めるつもりでしたが、ボリュームが膨らんでしまったのでやっぱり二話に分けることにしました^^:

 英国を代表する女王、エリザベス一世とヴィクトリアの間に、二人の女王がいたことはご存じでしょうか。

 在位期間が比較的短かったこともあって、あまり名を知られてはいないかと思いますが、英国史上の重要な転換点に立ち会った女性(ひと)たちなのです。

 今回は、知られざる英国女王シリーズ第二弾。実の姉妹でもあるメアリー二世とアンの姉の方、メアリー二世を取り上げます。



 メアリーとアンの姉妹は、スチュアート朝イングランド国王・チャールズ二世(1630~1685)の弟でヨーク公のジェームズ(1633~1701)と、その妻アン=ハイド(1637~1671)の娘として生まれました。

 メアリーが1662年、アンが1665年生まれです。


 スチュアート朝は、スコットランド女王メアリー一世ことメアリー=スチュアートの遺児(わすれがたみ)でイングランド女王エリザベス一世の後継となったジェームズ一世を祖とし、姉妹はその曽孫(ひまご)に当たります。


 英国史におけるカトリックとプロテスタントの争いについては、メアリー~エリザベス~メアリーの回でも触れましたが、この問題はエリザベスの没後もくすぶり続けていました。また、国内の貧富の差も拡大し、不満を抱いた人々が、それぞれの主義主張や血縁関係などから党派を作り、互いに対立を深めていました。


 ジェームズ一世は王権(おうけん)神授(しんじゅ)説を提唱、王権は神から与えられたものであり、神以外の何ものによっても制限されないと主張し、専制政治を行おうとします。

 それに対し、当然ながら議会は反発。両者の抗争は後の世代にまで禍根を残します。


 ジェームズ一世が1625年に亡くなった後、跡を継いだのは息子のチャールズ一世(1600~1649)。

 しかし、彼の代になっても議会との対立は続き、何やかんやあって――いや、この辺の経緯は本当に複雑で、詳述しようとすると文字数がいくらあっても足りませんので、端折(はしょ)ります――、1642年から内乱が勃発、最終的には1649年の清教徒(せいきょうと)革命で、チャールズ一世は処刑されてしまい、共和制がはじまります。


 が、派閥争いは収まるどころかかえって激化し、その果てに、1660年の王政(おうせい)復古(ふっこ)で、王制が復活。チャールズ一世の息子でメアリー・アン姉妹の伯父にあたるチャールズ二世が即位します。


 チャールズ二世は政治面において親カトリック派で、晩年になってカトリックに改宗、弟のジェームズも、フランス亡命中の30代半ばごろにカトリックに改宗していました。


 しかし、当時のイングランドはプロテスタントが支配的。それでも、1685年にジェームズが嫡子のいなかった兄の死を受けて国王に即位、ジェームズ二世(スコットランド王としてはジェームズ七世)となった当初は、議会との関係はそこまで悪くありませんでした。

 が、即位の翌年頃から、ジェームズがカトリック信徒を重用(ちょうよう)するようになると、議会との関係が決裂します。


 一方、カトリックの人たちにとっても、下手に優遇されると反動が怖い、ということで、ジェームズに対する支持は必ずしも広がりませんでした。


 そして、1688年。ジェームズと二番目の妃・メアリー=オブ=モデナ(1658~1718)との間に男児が生まれます。


 ジェームズはそれ以前にも複数の男児をもうけていましたが、皆夭折(ようせつ)しており、後継者候補はプロテスタントとして育てられたメアリーとアンの姉妹。

 そのため、イングランド国内のプロテスタント(多数派)にとっては、カトリックの王は一代限りということでぎりぎりの辛抱が成り立っていました。


 しかし、イタリア生まれのカトリックである王妃との間に、姉妹にとっては異母弟となる男児・ジェームズ=フランシス=エドワード(1688~1766)が生まれたことにより、カトリックの王が二代――あるいは、それ以上――続くことになるのではないか、という懸念から、ついに緊張は臨界点に達します。


 そこで、反ジェームズ派が目を付けたのが、メアリーが1677年に結婚していたオランダのオラニエ公ウィレム三世(1650~1702)でした。

 当時、カトリックの強国フランスの圧力に苦しんでいたプロテスタント国オランダにとっても、イングランドとの同盟は渡りに船ということで、両者の協力関係が成立します。


 1688年11月、ウィレム三世はオランダから兵を率いてイングランドに上陸。孤立していた国王ジェームズ二世のために戦おうとする者は誰もおらず、彼は亡命を試みるも捕縛されてしまいます。

 かくして成功した無血クーデターが、いわゆる名誉革命です。


 翌1689年2月、ウィレム三世はイングランド王ウィリアム三世(スコットランド王としてはウィリアム二世)として即位。同時に、メアリーも女王メアリー二世として即位し、二人による共同統治が敷かれます。


 さて、亡命しようとして捕らえられたジェームズ二世。娘メアリーの立場を(おもんばか)り、また下手に死なせてしてしまうと殉教者として持ち上げられるのではないかという懸念もあって、処刑には踏み切れず、フランスへ追放となります。


 しかし、ジェームズもこれでおとなしく引き下がったりはせず、フランスの支援を得て――もちろん、フランスの側にも色々思惑はあったでしょう――アイルランドに上陸。カトリックを糾合し反乱を起こします。


 この、1689年から1691年まで続いたアイルランドにおける戦いは、ウィリアマイト戦争と呼ばれます。

「ウィリアマイト」とは、ウィリアム三世支持派といった意味です。これに対して、ジェームズ二世支持派は「ジャコバイト」と呼ばれます。前者がプロテスタント主体、後者がカトリック主体であることは、言うまでもないでしょう。


 アイルランドに上陸したジェームズ二世およびジャコバイトでしたが、数でこそ(まさ)っているものの、装備も練度もまったく不十分で、数の利を()かしきることができません。

 それでも、ウィリアマイトの将ションバーグ公(1615~1690)が消極的だったことなどもあって、戦いは小康(しょうこう)状態となります。


 これに(ごう)()やしたウィリアム三世は、1690年6月14日にアイルランドへ上陸。自ら軍を率いてジャコバイトを破り、7月12日のボイン川の戦いにおいて、ションバーグ公の戦死という犠牲は払ったものの、ウィリアマイトの勝利を決定づけます。


 ジェームズ二世はフランスへ逃げ帰り、「くそったれのジェームズ(James the Shit)」の汚名を残すこととなりました。

 その後も、アイルランドのジャコバイトは抵抗を続けますが、翌1691年には力尽き、ウィリアム三世はアイルランド全土を平定したのでした。


 ただ、プロテスタントの支配下に置かれたカトリックがそうそう納得できるわけもなく、さらに、ウィリアム三世が降伏したカトリックに対する約束を反故(ほご)にしたことなどもあって、両者の対立は後々まで続くことになります。

 そして、ジェームズ二世に対する支持も、くそったれだの何だの言われつつも、カトリックの希望の星として、根強く残り続けます。


 なお、余談ですが、ジェームズ二世の庶子であるヘンリエッタ(1667~1730)という女性の血筋がスペンサー伯爵家と婚姻を結んでおり、その末裔であるダイアナ妃(1961~1997)を通じて、現在の王太子ウィリアム王子殿下(1984~)にはジェームズの血が流れていたりします。


 さて、夫ウィリアムが父ジェームズと戦っている間、メアリーは留守を任されることとなりました。

 この間の対応ぶりは、彼女の政治的手腕を示すものとして、高く評価されています。


 例えば、1690年7月10日、ウィリアムがアイルランドに出陣している間にイングランド南部のビーチーヘッド沖で行われた海戦についての対応。

 この海戦はイングランドとオランダの連合艦隊とフランス艦隊との間で行われ、前者が惨敗を喫した戦いです。

 それも、ただ負けただけではなく、イングランド艦隊が消極姿勢に終始し、オランダ艦隊を見殺しにしたような格好になったため、同盟関係にひびが入りかねない状況となったのです。


 メアリーはすぐさまオランダに謝罪するとともに、責任者であるトリントン伯アーサー=ハーバート(1647~1716)を逮捕しロンドン塔送りとすることで、国内の結束を図るとともにオランダに対しても誠意を示します(ただし、トリントン伯はその後の裁判で無罪となります)。


 幸い、その二日後にはボイン川の戦いでウィリアムが勝利を収めたこともあって、オランダとの同盟関係は事無きを得ました。


 アイルランド平定後、ウィリアムは今度はフランス王ルイ十四世(1638~1715)対周辺諸国の戦い――大同盟戦争(1688年~1697年)に参戦。メアリーは引き続き留守を任され、その任を全うします。


 この、夫婦揃って中々に優秀なウィリアムとメアリー夫妻ですが、残念なことに子宝には恵まれませんでした。三度ほど妊娠はしたものの、いずれも流産に終わっていたのです。


 二人に万一のことがあった場合の後継者は、メアリーの妹アンということになっていました。しかし、財産分与を巡る問題などから姉妹の関係には亀裂が生じます。

 アンに色々吹き込んでいるのは女官のサラ=ジェニングス(1660~1744)だと目星(めぼし)をつけたメアリーは、妹にサラの解任を求めますが、アンはこれを拒否。姉妹の関係は完全に破綻します。


 メアリーは1692年にアンの息子が生まれてすぐに亡くなった際に一度見舞いに行ったきり、再び妹と顔を合わせることのないまま、1694年、天然痘に罹患(りかん)してこの世を去ります。享年三十二歳。

 その後、ウィリアムとアンは和解し、1702年にウィリアムが亡くなると、アンが跡を継いで女王に即位することとなります。



 姉妹の父ジェームズ二世は、プロテスタント国である英国においては長年に渡り暴君・暗君と評されてきました。

 まあ実際、スコットランドでは兄チャールズ二世と共に、プロテスタントの迫害・虐殺をやらかしていたりするのですが。

 ただ、近年になって、彼は必ずしも専制君主として絶対的な権力を(ふる)ったわけでもそれを目指そうとしたわけでもなく、単にカトリック信仰の自由を求めただけだった、という見方も出てきているようです。


 それに伴って、名君とされてきたウィリアム・メアリー夫妻に対しても、イングランドの宗教紛争に乗じてオランダが(てい)よく王位を簒奪した、というような見方も出てきていたりします。

 まあ、宗教絡みの問題は根が深いですからね。どちらかが一方的に良いとか悪いとか決めつけるべきではないのでしょう。



 というわけで、次回はメアリーの妹アンの治世について語っていきます。乞うご期待!

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スピンオフ(?)作品もあるよ。
第一弾『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ』
第二弾『人間椅子』
第三弾『マルタ=スカヴロンスカヤは灰かぶりの夢を見るか』
第四弾『女帝のお茶会』
第五弾『ハギスと女王と元女王』
第六弾『スルタン未だ没せず』
第七弾『ちっちゃなバイキング』

なろう活動三周年の記念に、かぐつち・マナぱ様よりFAをいただきました~。
どれが誰かはご想像にお任せします(笑)。


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