マティルダ(イングランド:在位1141~1148)
お待たせしました。
突然ですがクイズです。イングランド史上最初の女王は誰でしょうか?
ヒント。メアリー一世ではありません。
本作をお読みいただいている方ならば、ジェーン=グレイの名を挙げられることでしょう。メアリー一世ことメアリー=テューダーの前に、9日間だけ女王の座に就いた少女ですね。
はい、半分正解です。
どういうことかと言うと、それより以前――12世紀に、正式に王位にこそ就いていないものの、実質的な女性君主となった人物がいるのです。
それが、マティルダ=オブ=イングランド。前回の主役アリエノール=ダキテーヌの二番目の夫・ヘンリー二世の母親です。
というわけで、知られざる英国女王シリーズ第一弾は、このマティルダさんを取り上げます。
マティルダは、アングロ=ノルマン語で「モード」と呼ばれることもあります。
最初の名はアデレード。1102年、イングランド王ヘンリー一世(1068~1135)と、その王妃でスコットランド王女のマティルダ(1080頃~1118)との間に生まれました。
彼女は1114年、12歳の時に神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世(1086~1125)と結婚して皇后となります。そしてそれと同時に、母と同じ「マティルダ」に改名します。
しかし、1125年にハインリヒ五世が亡くなると、それ以前に彼女の弟が事故死してイングランド王位継承権者がいなくなっていたことから、イングランドに呼び戻されることとなります。
ちなみに、ハインリヒ五世には子が無く、次期神聖ローマ皇帝には、選挙の結果ザクセン公ロタール(ロタール三世:1075~1137)が選ばれます。
さらに余談ですが、ハインリヒ五世の父親のハインリヒ四世(1050~1106)は、「カノッサの屈辱」(1077年)で知られる人物です。
名前は聞いたことがあるけど詳細は知らない歴史用語のトップを争う(笑)この事件、簡単に言うと、司教などの聖職者を任命する権利――叙任権を巡る争いから、教皇に破門された皇帝が赦しを乞う羽目になった、という事件です。
教会もそれぞれに所領や財産を有していましたから、その人事は世俗権力にとっても重大な関心事だったのです。
で、父・ハインリヒ四世が拗らせた教会との関係を、ハインリヒ五世は1122年のヴォルムス協約において皇帝の叙任権を放棄することで解決しました。
これに関しては、叙任権を放棄したといっても教会人事に対しての影響力を完全に放棄したわけではなく、実質的には何も失っていない、という見方がある一方、神権を完全に教皇に独占させてしまい世俗のみの権力に成り下がるきっかけとなった、という見方もあり、評価は様々なようです。
さて、マティルダに話を戻しましょう。
イングランドに戻った彼女は、貴族たちからもヘンリー一世の後継者と認められましたが、1128年には、今度はフランスに赴いて再婚することとなります。
再婚相手は、アンジュ―伯の世子ジョフロワ四世(1113~1151)。そして二人の間に生まれたのが、アンリ――後のヘンリー二世です。
ただ、マティルダは元神聖ローマ皇后としての自負心もあって、この11歳年下の夫を見下していたため夫婦仲は良くありませんでした。
さらに、イングランド貴族たちにとっては、これまで長年争ってきたアンジュ―伯にイングランドを乗っ取られるのではないかという危機感があり、マティルダを忌避する感情が強まります。
1135年にヘンリー一世が亡くなると、マティルダがアンジュ―領を離れられずにいる隙に、従兄(ヘンリー一世の姉の子)のスティーブン(1092or1096~1154)がイングランド王位に就きます。
スティーブンはヘンリー一世の生前、他の貴族たちと共に、マティルダの王位継承権を認め、自身の継承権を放棄していたため、マティルダは誓約違反をローマ教皇に訴え出ます。
しかし、スティーブンは弟が高位聖職者だったことなどからローマ教皇庁とは友好な関係を結んでいたため、彼女の訴えは却下されました。
ただ、そうした過程でスティーブンは教会や貴族たちに足元を見られるようになり、王権の弱体化を招いてしまいます。
スティーブンの諸侯への統制力が弱まったと判断したマティルダは、1139年、イングランドに上陸し、両者の間で争いが繰り広げられることとなります。
このような経緯で、スティーブンの治世は内乱に明け暮れ、「無政府時代」と呼ばれることとなります。
中々に失礼な呼称ですが、まあ彼の力量不足が混乱を招いたことは確かですし。
そもそも彼自身、父親はフランスのブロワ伯であり、イングランドの人たちから見れば、スティーブンとマティルダ、いずれもフランス系の勢力による王位争奪という構図で、ちょっと冷めた目で見られていたようです。
ただ、スティーブンの弟のヘンリー(1096頃~1071)がウィンチェスター司教に就いており、彼を通じてカンタベリー司教も抱き込んで、聖職者層の支持を得ていました。
また、このウィンチェスター司教は、イングランド王の宝物庫の管理も担っており、そのためスティーブンは軍資金に事欠かなかったのです。
そんなわけで、即位当初はある程度安定した統治を行っていたスティーブン。しかし、支持を固めるために貴族たちにばらまいた領地や特権など諸々が、彼らに足元を見られる原因となり、また、相互に矛盾する部分も多かったことから貴族間でも争いの火種となって、マティルダに付け入る隙を与えてしまいます。
1139年にイングランドに上陸したマティルダは、ヘンリー一世の庶子、つまり彼女の異母兄に当たるグロスター伯ロバート(1090頃~1147)を実質的な司令官として、スティーブン派と争います。
そして、1142年2月には、第一次リンカーンの戦いにおいて、スティーブンを破り捕虜とすることに成功します。
この勝利を得て、マティルダは「イングランド人の女君主(The Lady of The English)」を名乗り、ロンドンに入城しようとしたのですが……。それに先立って、ロンドン市民が陳情した減税の訴えをにべもなく却下したことから、市民の反発を買い、城門を閉ざされてしまいます。
そしてその間、スティーブンの王妃であるこちらもマティルダ――ブローニュ女伯マティルダ=オブ=ブロイン(1103or1105~1152)が反撃に出て、同年9月、自ら軍を率いてウィンチェスターでグロスター伯軍を撃破。彼を捕虜とします。
いやはや、この女性も中々興味深いですね。
結局、両派の中心人物、スティーブンとグロスター伯は捕虜交換で解放されることとなり、内戦は膠着状態のままだらだらと続くこととなります。
なお、この間、マティルダの夫ジョフロワ四世は、妻のイングランド争奪戦には関心を示さず、ノルマンディー征服など、大陸での領土獲得に勤しんでいました。
マティルダ派はイングランドのほぼ全域を支配下に置くも、ウェールズに踏みとどまって抵抗を続けるスティーブン派を圧倒するには至らず。
1147年にマティルダ派の支柱だったグロスター伯が亡くなると、マティルダはフランスに引き上げざるを得なくなります。
1151年にはジョフロワ四世も亡くなり、マティルダのイングランド王への望みは潰えたかに思われたのですが――。
その翌年、1152年に、彼女の息子アンリが、フランス王妃にしてアキテーヌ女公であるアリエノールを寝取り、ジョフロワ四世が拡張した領土に加え、広大なアキテーヌ領も手中に収めたことから、一気に流れが変わります。
フランスの半分以上にも及ぶ広大な領土を手にしたアンリは、その国力をバックに、翌1153年1月、イングランドに上陸。スティーブンに圧力をかけます。
一方のスティーブンは、1152年に頼れる妻を、翌1153年8月に跡取り息子を亡くし、気力を喪失していました。
両者の間でウォーリングフォード協定(ウィンチェスター協定、ウェストミンスター協定とも)が結ばれ、スティーブンの存命中は彼が王位を有する代わり、彼の没後はアンリが王位に就く、という取り決めがなされます。
この協定は1153年12月にイングランドおよびノルマンディーの諸侯も交えて正式に承認されました。
スティーブンは精魂尽き果てたのか、翌1154年10月25日に死去。アンリがイングランド王ヘンリー二世として即位し、同年12月19日にウェストミンスター寺院で戴冠式を執り行い、ブランタジネット朝(アンジュ―帝国)が成立することとなったのです。
マティルダは、息子が自分の野望を成し遂げてくれるのを見届け、1167年にこの世を去ります。
その後のことについては前回お話しした通り。
マティルダという女性は、良くも悪くも(どちらかというと悪い方寄りで)プライドが高く、また幼くしてドイツ、ついでフランスに嫁いだことから、イングランドに地盤を有しておらず、十分な支持を得られなかったため、ついに彼女自身が正式なイングランド女王として戴冠することは叶いませんでした。
また、もう一人のマティルダ――スティーブン妃・マティルダ=オブ=ブロインが負けず劣らずの傑物だったことも、運が悪かったと言えるでしょうか。
もっとも、マティルダの息子の嫁であるアリエノールなども含め、この時代の女性は中々に逞しい人が多かったようですから、夫が戦に敗れ捕虜になっても途方に暮れるばかり、みたいなのを期待するのは、いささか虫が良すぎるのかもしれませんが(笑)。
さて、次回は知られざる英国女王シリーズ第二弾。エリザベス一世とヴィクトリアの間を繋ぐ、メアリー二世とアンの姉妹女王を取り上げます。乞うご期待!





