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女王様はロマンの塊~古今東西女性君主列伝~  作者: 平井敦史


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武則天(中国・武周:在位690.10.16~705.2.22)

前話を一部加筆修正しています。ご了承くださいm(_ _)m

ご家族のことについて追記の上、例によって主要人物の生没年を付け加えています。

 武則天ぶそくてん則天武后そくてんぶこうという呼び方をされることも多いですが、中国史上における唯一の女帝です。

 元々は唐王朝(とうおうちょう)の皇太后で、皇帝に即位するにあたって、「(しゅう)」という新王朝を建てました。春秋戦国時代の前の周王朝(しゅうおうちょう)や、南北朝時代の北周(ほくしゅう)などと区別するため、一般的には「武周(ぶしゅう)」と呼ばれています。


 女性君主のすべてを、単なる操り人形だとか、男性君主が立つまでのワンポイントリリーフなどと見做(みな)してしまうのはもちろん行きすぎですが、実際そういったケースが多かったのもまた事実。そんな中で、武則天は自ら望んで君主の座をもぎ取ったレアケースです。

 毀誉褒貶(きよほうへん)が極めて激しい女性ですが、その生涯をたどってみることにいたしましょう。


 南北朝時代の混乱を収め、天下を統一(589年)した隋王朝(ずいおうちょう)。しかし、初代・文帝(ぶんてい)こと楊堅(ようけん)(541~604)の後継者となったのは、かの悪名高い煬帝(ようだい)楊広(ようこう):569~618)でした。

 彼も根っからの暗愚だったわけではなく、大運河(だいうんが)開削(かいさく)するなど、様々な大事業にも着手し、統一王朝の(いしずえ)を築こうとはしていたのですが、高句麗(こうくり)遠征に失敗したのがケチの付き始め。すっかりやる気を失い、奢侈(しゃし)(ふけ)るようになってしまいます。典型的な、「一度の挫折を機に転落してしまった天才児」パターンですね。


 群雄が割拠する混乱の中、勝利を収め、唐王朝を築いた(618年)のは李淵(りえん)(566~635)という人物。そしてその次男で、建国の主導的な役割を果たしたのが、第二代皇帝・太宗(たいそう)こと李世民(りせいみん)(598~649)でした。

 武則天こと武照(ぶしょう)は、当初この太宗の後宮に入れられます。


 武照(ぶしょう)が生まれたのは624年。唐の武徳(ぶとく)7年。父親は武士彠(ぶしやく)という人物で、武川鎮(ぶせんちん)軍閥と呼ばれる武装集団の末流でした。そもそも、隋を建てた楊家にしろ、唐を建てた李家にしろ、この武川鎮(ぶせんちん)軍閥の中の有力者です。

 そんな中で、()家は末流とは言いながら、資産は豊かだったようで、武照(ぶしょう)も高度な教育を受けて育てられます。

 12歳の時に父が亡くなると、異母兄たちから虐げられていたようですが、637年、数え年で14歳の時、前述の通り太宗の後宮に入ります。しかし、太宗の目に留まることはないまま、太宗崩御(ほうぎょ)。武照は出家(しゅっけ)して道教(どうきょう)の寺院、いわゆる道観(どうかん)に入ることになります。


 本来であれば、このまま女道士(どうし)として生きていくはずだった武照。しかしそんな彼女が再び世に出るきっかけとなったのは、太宗の(あと)を継いだ高宗(こうそう)(628~683)の妃たちの主導権争いでした。


 高宗の皇后である(おう)氏は、妃の一人・(しょう)淑妃(しゅくひ)に奪われた高宗の寵愛を取り戻すため、武照に目を付け、後宮に入れます。元々武照は、太宗の子である高宗とは太宗の後宮時代からの顔見知りで、一説には高宗の初恋の女性だったのだとか。

 王皇后の思惑(おもわく)は当たり、武照は高宗の寵愛を得ます。ただ、王皇后にとって計算外だったのは、武照が完全に高宗を操り人形にしてしまい、自分自身も失脚する羽目に陥ったことでした。


 武照は高宗の寵愛を得て公主(こうしゅ)(皇女)を産みますが、王皇后が武照の部屋を訪れた時に公主が亡くなってしまい、武照はこれを王皇后による毒殺だと訴えて、彼女を失脚に追い込みます。

 一般的には、この事件は武照自身が娘を手にかけて皇后に罪を着せたのだ、と言われていますが、さてどうでしょうか。武照という女性は政敵に対しては全く容赦しない人ですが、意外に身内には甘い側面もあり、謀略のために我が子を手にかけるようなことをするかという点にはちょっと疑問を覚えます。

 公主はあくまで乳幼児の自然死(当時としては決して珍しいことではなかったでしょう)であって、武照はその機会を最大限に活用したということではないかと思われるのですが……まあ、証拠もないことですし、これくらいにしておきましょう。


 いずれにせよ、この事件を機に王皇后は失脚、蕭淑妃も失脚して、ついには二人とも惨殺されてしまいます。このあたり、確かに武照という人は残忍で情け容赦のない性格であったことは否定できません。


 一代の英傑たる父・太宗とは対極的に、気弱でおとなしい性格だった高宗は、完全に武照の言いなりで、彼女を皇后に立てようとしますが、さすがにこれには廷臣(ていしん)たちから反対の声が上がります。しかし、建国の功臣の一人であり対突厥(とっけつ)戦などでも活躍した名将・李勣(りせき)(594~669)が「これは陛下のご家庭のことですから(臣下(しんか)が口出しすることではありません)」と消極的な賛意を示したことから、ついに武照は皇后となります(655年)。


 こうして、高宗の皇后となり、夫の代わりに政務を執る――いわゆる垂簾(すいれん)政治を行うこととなった武照。武川鎮(ぶせんちん)軍閥の有力貴族たちからの支持が得られないことは承知していたので、隋の時代に始まった科挙(かきょ)を活用し、下級層の人材を大量に登用して支持基盤を固めます。

 この時に登用された人材の中から、後の玄宗(げんそう)皇帝(685~762)時代の政治的安定期、「開元(かいげん)()」を支える名臣たちが多数台頭してきます。武照の人を見る目の確かさ(だけ)は評価に値する、と言われる所以(ゆえん)です。


 その後、683年に高宗が崩御すると、武照の所生(しょせい)である中宗(ちゅうそう)(656~710)が即位しますが、その皇后の()氏というのが武照の劣化コピーのような女性で、自ら権力を握ろうとしたため、中宗は即位からわずか55日で廃位されてしまいます。

 ついで、やはり武照の所生(しょせい)である睿宗(えいそう)(662~716)が立てられますが、これも後に廃位され、皇族や廷臣たちの蜂起も軒並み鎮圧されて、ついには武照自ら帝位に()きます。690年、数え年で67歳。意外に思われるかもしれませんが、皇后・皇太后として政務を執っていた期間の方が断然長く、実際に帝位に就いたのはかなりの高齢になってからなんですね。


 彼女の治世を支えたのは、前述の通り低い身分から登用された人たち。この中には、確かに狄仁傑(てきじんけつ)(630~700)のような名臣も出たのですが、一方で武照が密告を奨励したこともあって、酷吏(こくり)と呼ばれるような奸臣(かんしん)たちも現れます。もっとも、酷吏(こくり)の中には性根がねじくれているわけではなく単に法の運用が厳しくて嫌われただけ、という人たちもいたようですが。


 このように、負の側面も決して小さくはなかった武照――即位後は自ら「聖神皇帝」と名乗ります――の治世ですが、庶民にとってはそれほど暮らしにくい時代ではなく、農民反乱などの発生も意外に少なかったとか。

 そうして、彼女が寄る年波(としなみ)と共に心身が衰えてくると、ついに廷臣たちがクーデターを起こし、彼女の寵愛を得てやりたい放題をしていた張易之・張昌宗兄弟を斬って、中宗への譲位を迫ります。かくして、政権は再び李氏の手に戻り、唐王朝が復活します。


 武照はその死後、自身の遺言により、「則天大聖皇后」――皇帝ではなくあくまで唐の皇后として葬られることになります。一般的に「則天武后」と呼ばれるのはこれが由来です。


 かくして終わりを告げた武周時代。しかし、中宗が復位すると、(くだん)の劣化コピーこと()皇后が政治を壟断(ろうだん)、これを討って即位したのが、玄宗(げんそう)です。そして、「開元(かいげん)()」という安定期の後、安史(あんし)の乱という大乱を招くことになるのはご存じの通り。


 ちなみに、武照という人は「則天文字(そくてんもじ)」と呼ばれる新しい漢字も多数考案しています。武照の「照」の字も、「明」の下に「空」という字に改められるといった具合。

 もちろん、そのほとんどは定着することはなく、武照の死後は消え去っていくのですが、わずかに生き残った一つが、「国」の則天文字である「圀」という字。そう、水戸黄門こと徳川(とくがわ)光圀(みつくに)(1628~1701)の名に使われているあの文字です。



 というわけで、中国史上唯一の女帝のお話でした。次回はベトナム史上唯一の女帝・李昭皇(リ・チウ・ホアン)。拙作『越南元寇録』でもご紹介したことのある彼女の登場です。乞うご期待!

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スピンオフ(?)作品もあるよ。
第一弾『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ』
第二弾『人間椅子』
第三弾『マルタ=スカヴロンスカヤは灰かぶりの夢を見るか』
第四弾『女帝のお茶会』
第五弾『ハギスと女王と元女王』
第六弾『スルタン未だ没せず』
第七弾『ちっちゃなバイキング』

なろう活動三周年の記念に、かぐつち・マナぱ様よりFAをいただきました~。
どれが誰かはご想像にお任せします(笑)。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 則天文字には武則天の趣味や考え方が反映されていて面白いですね。 エッセイ内の具体例である「圀」も、「『國』の中の『或』が『惑う』に通じて不吉だから」という理由で「八方」と書くようになったそ…
[良い点]  武則天は本当にスケールの大きい女性君主ですよね。  個人的には、武則天は「権謀術数の手腕などが優れていたのは間違いないが、統治面においては偶然に時代とピッタリとハマったため、後世から見て…
[良い点] 武則天、国をぶんどったというのは事実ですが、 治世自体は悪くなかったり…と評価が難しい人物のようですね。 最後には権力を奪われてしまいますが、処刑されたりはせず、 「やりたいことはやれた人…
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