イサベル一世(スペイン・カスティーリャ王国:在位1474.12.11~1504.11.26)
スペインのイサベル一世。イザベル、イザベラという呼び方をされたりもしますが、本来のスペイン語の発音では「z」の音は濁りません。アラゴン王国のフェルナンド二世(1452~1516)と結婚し、共にカトリック両王と称されました。
イベリア半島からのイスラム勢力の一掃――いわゆる「レコンキスタ」を完成させるなどの偉業を成し遂げる一方、クリストファー=コロンブス(1451頃~1506)を支援してアメリカ大陸征服のきっかけとなったり、カトリックに傾倒するあまり宗教弾圧で多くの血を流し、ユダヤ人も追放するなど、まさしく「光と闇」というべき女王です。
彼女が生まれたのは、スペイン中部を版図としトレドに首都を置くカスティーリャ王国。この当時は、レオン王国という国を併合し、カスティーリャ=レオン王国とも呼ばれていました。
父親はフアン二世(1405~1454)、母親はポルトガルの王族出身のイサベル=デ=ポルトゥガル(1426~1498)で、二人の長女として1451年に生まれます。母親と同じ名前ですが、祖母の代から「イサベル」の名を受け継いできました。
フアン二世の没年を見ていただけばわかる通り、彼女が3歳の時に父親が亡くなるのですが、その後を継いだ異母兄エンリケ四世により、母親、そして弟アルフォンソ(1453~1468)とともに追放されてしまいます。
しかし、エンリケは国内の支持を得られず、一部の貴族らがアルフォンソを国王に擁立、二王が並び立つ状態となります。
その後、アルフォンソが14歳で亡くなると、イサベルを擁立する動きが出てきますが、彼女は国内の分断を避けるため、エンリケ没後は、という含みを持たせつつこれを固辞します。
そして、ポルトガルとの縁談が持ち上がりますが、イザベルはイベリア半島東部を領有するアラゴン王国と縁を結ぶ道を選び、アルフォンソの死の翌年・1469年の10月には、アラゴン王国王太子・フェルナンド二世と結婚します。元々この二人は、カスティーリャ王・フアン一世(1358~1390)を曾祖父とする又従姉弟同士でもありました。
1474年にエンリケ四世が亡くなると、イサベルは夫フェルナンドと共同で王位に就き、ポルトガルの干渉をはねのけ、国内の反対派を一掃していきます。
その後、1479年にはフェルナンドも父王の逝去に伴ってアラゴン王となり、カスティーリャ=アラゴン連合王国が成立します。これがスペイン王国の原型となります。
ところで、この一連の筋書きを考えたのは誰なのでしょう。二十歳前後のイサベルが自分で考えたのだとしたら大したものですが、あるいはこれは母親の方のイサベルが考えたのかもしれません。もしそうなら、スペイン王国成立の真の立役者は母ベルということになりますが……。はてさて。
誰が考えたことかはともかく、こうしてイベリア半島の大部分を領有することとなったイサベル、ならびにフェルナンド。西部のポルトガル王国はまあ置いといて、南部に余喘を保つイスラム教国・ナスル朝(グラナダ王国とも)を滅ぼしレコンキスタの完成を目指します。
レコンキスタ。「再び征服する」という意味で、日本語では「国土回復運動」とか「再征服運動」などと訳されます。イスラム教勢力に奪われた領土をキリスト教勢力の手に取り戻す、というような意味です。
ラスボス(?)がのこのこ戦争見物に出向いて行って戦闘に巻き込まれて崖から転落死する某ロボットアニメとは全く関係ありません。多分。こちらは「キ」であちらは「ギ」ですしね。
710年頃から、イスラム教国家ウマイヤ朝がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に進出、西ゴート王国を滅ぼして勢力を拡大します。
732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れ、ピレネー山脈越えには失敗しますが、それ以降もいくつもの王朝が興亡しつつ、イベリア半島に根を張ります。
このあたりのあれやこれやも中々興味深いのですが――特に、ウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされた際に、ウマイヤ王家が皆殺しにされる中、難を逃れてイベリア半島まで辿り着き、後ウマイヤ朝を建てた「クライシュの鷹」ことアブド=アッラフマーン一世(731~788)とかね――、詳述しだすと大変なことになるので深入りはしません。
簡単にまとめると、一時はイスラム勢力がイベリア半島をほぼ手中に収めるも、次第にキリスト教側が勢力を盛り返し、イサベルの時代にはイベリア半島南部のグラナダを首都とするナスル朝を残すのみとなっていた、とだけ理解していただければ問題ないでしょう。
もっとも、この「レコンキスタ」という用語については、宗教的にはともかく文化の面ではイスラム時代の影響が血肉の一部となって残っているにも関わらず、「侵略者を追い払った」という一面的な印象を与えてしまう、という批判もあるようです。まあ、だからと言ってすっかり定着している用語を変えるというのもねぇ、というところのようですが。
参考までに、スペインにおけるイスラム文化の影響というのはどんなものかというと、まず単語や地名などにイスラム・アラブ由来のものも少なくありません。
また、スペインと言えばフラメンコですが、この音楽にも北アフリカの影響が強く表れています。
そして、スペイン料理の代表格パエリアも、サフランを用いる点などにイスラムの影響がみられますし、魚介類、特にイカ・タコを好んで食べるのもイスラム由来とされています(元々パエリアにはウサギの肉などが用いられていました)。少なくとも、ユダヤ教徒はイカタコは絶対に食べませんからね。
他にも、イスラム圏で好んで食されるレンズ豆、ヒヨコ豆などの豆類料理も、スペイン料理に影響を与えています。
話を戻しまして、フェルナンドはグラナダ攻略に向けて自ら陣頭に立ち、イサベルも軍資金や物資の調達に尽力して夫を支えます。
そして1492年1月、ついにグラナダは陥落し、イベリア半島からイスラム教勢力が一掃されます。レコンキスタの完成です。
え、何百年もかけて弱らせてきた相手に最後のとどめを刺す役目が回ってきただけじゃないのか、って? それは言わないお約束(笑)。
それに、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって両者の睨み合い状態が解消され、ナスル朝討伐に全力を注げるようになったから、という面も大きいですので、イサベルの(もしかすると母ベルの)功績であることは間違いないでしょう。
ところで、グラナダと言えば世界遺産アルハンブラ宮殿が有名ですね。
元々この城塞兼宮殿は、後ウマイヤ朝時代に建てられたものが原型で、グラナダ陥落後も、多少は手を加えられつつも破却されることなく受け継がれます。
個人的には、死ぬまでに行ってみたい場所の一つなんですけどね。コロナ禍の前に無理をしてでも行っておくべきだったかなぁと、ちょっと後悔。
閑話休題。
レコンキスタを完成させたイサベル夫妻。この偉業にはローマ教皇も喜び、時の教皇アレクサンデル六世(1431~1503)は二人に「カトリック両王」の称号を授けます。
しかし、このことがきっかけなのか元々そうだったのか、良く言えば敬虔な、悪く言えば○信的なカトリック信者だった両王は、他宗派の信徒を激しく弾圧し、カトリックに改宗した人たちに対しても、たびたび異端審問を行って、財産の没収や追放・処刑を行いました。
異教や異端の信徒たちにとってみれば、偉大な名君どころか最悪の暴君以外の何者でもありません。
また、彼女は新航路開拓を目指す冒険家たち、中でもコロンブス(1451~1506)を支援したことでも知られています。
その結果、「新大陸」が「発見」され、スペインに莫大な富がもたらされたわけですが……。その陰では、多くのアメリカ大陸先住民の血と涙が流されたことも、皆様ご存じのことでしょう。
それにしても、コロンブスという人物も、一昔前までは「新大陸を発見した偉人」扱いだったのに、今日ではかなり微妙な評価となってしまいましたね。
実際、相当に山師的な人物だったのは確か(と言っても、冒険家というのは皆多かれ少なかれそういうものですが)なようですし、後世に与えた悪影響も極めて大きいこともまた確かですので、残念ながら当然という面もあるのですが。
歴史上の評価というのはあっさりと覆されてしまうものなのですね。
かくして、両王の時代にスペインは「黄金時代」を迎えるわけですが――。黄金時代とはつまり、得られた富を上手く活かして後の時代に受け継がせることができなかったという意味であると、Wikipediaにも中々辛辣なことが書いてあります。
さて、イサベルはフェルナンドとの間に一男四女をもうけますが、唯一の男児フアン(1478~1497)は若くして亡くなり、娘たちも皆あまり幸福な人生を送ったとは言えません。
後継者問題に頭を悩ませながら、イサベルは1504年11月26日にその生涯を閉じ、その亡骸は遺言に従ってアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬、のちにグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に改葬されました。
結局、スペイン王位は、次女フアナ(1479~1555)とブルゴーニュ公フィリップ美公(1478~1506)の子カルロス(1500~1558)に受け継がれることになります。
というわけで、スペインの光と闇、イサベル女王のお話でした。次回は、オランダのウィルヘルミナ女王。第一次・第二次世界大戦の激動の時代を生き、ナチスドイツとも戦った女王様の登場です。乞うご期待!





