総長戦記 0094話 発見
1941年10月 『日本 東京 陸軍参謀本部 参謀総長室』
「ほぅ。発見したか」
「はっ。それもかなりの規模の油田のようです」
「よろしい。良くやったと、儂が労っていたと調査団に伝えてくれ」
「はっ。伝えます」
報告を持って来た副官が一礼し部屋から出ていくのを見届けると総長はおもむろに椅子から立ち上がり窓に近寄り外を見た。
空には大きな白い雲が幾つも浮かび、青空をのどかに流れている。
満洲の黒龍江省安達県で油田が発見されたという報告が入って来た。
史実における後世、大慶油田として発見される油田だ。
中質油で低硫黄で流動点が高くワックス分の多い巨大油田。
史実における後世、中華人民共和国の経済発展に大きな影響を及ぼした油田だ。
発見されるのは当然だ……と総長は胸のうちで呟く。
それもその筈、今回の油田調査は総長が全面的に後押しして行わせた。
黒龍江省に油田があるのは最初からわかっている。
史実において日本も満洲で調査を行ったが油田を発見するには至らなかった。
その調査は主に海軍が主導しており、1934年に新設された新会社「満洲石油」が主軸となって調査している。
この当時は石油の消費量の関係で、陸軍よりも海軍が逸早く石油を重要視しており、満洲での石油探査も海軍の人間が責任者になっている。海軍は重油を燃料として大量に使う事から陸軍よりも遥かに石油を消費していたのだ。
陸軍が石油の重要性を認識したのは日華事変で航空機用ガソリンや車両用のガソリンが大量に消費する事になってからの事である。
ただ、満洲での調査は秘密を重視するあまり、探索した地区と使われた機器は限られたものとなっている。
それ故に史実における後世、満洲で発見された大慶油田、扶余油田、遼河油田といった複数の大油田を日本は見つける事はできなかった。
それら満洲石油の失敗は今回の歴史でも変わらない。
だが、今回の歴史では、それとは別の調査を総長は行わせた。
別の会社「日本鉱業」を主体として関東軍に支援させた調査である。
この調査では史実では使われなかった機器が使われた。
日本鉱業が1939年に輸入した反射式探鉱機である。
アメリカではこの反射式探鉱機を使い多くの大型油田を発見している。
史実における満洲石油の調査では古い技術である屈折式地震探鉱機や重力偏差計しか使われていない。
総長は史実では行われなかった日本鉱業の持つ反射式探鉱機による調査を満洲で行わせたのである。
更には大慶油田を発見させる為に、総長は偽りの情報も流している。
史実において1931年に中国の地質調査所が満洲の地質調査を行った。
それ自体は本当の事である。
総長はその地質調査所の調査報告書には極秘にされた部分があり、それを最近になって特務機関が入手したという情報操作を行う。
そして、それには黒龍江省安達県に油田のある可能性があるという調査報告が載っているという事にしたのである。
実際にはそんな極秘の部分等は存在しない。
建て前であり偽りである。
その調査報告書の真偽を確かめる為という理由で、日本鉱業に新式の反射式探鉱機で調査を行わせ、関東軍にはその支援を命じたのである。
今回、見事にそれが成功し大慶油田の発見となったのだ。
ところで何故か現代日本では一部に大慶油田は超重質油だとか硫黄分が多いとか当時の日本の技術では精製できないという説がある。
まず石油製品の比重を示す単位にはAPI度というものがあり、この数値が低いほど重質油とされている。
このAPI度により原油は5つに分類される。
API度26度未満が超重質油
API度26度~29.99度が重質油
API度30度~33.99度が中質油
API度34度~38.99度が軽質油
API度39度以上を超軽質油
大慶油田については文献によって数値が微妙に違うが、一般財団法人の日本〇〇〇〇〇研究所ではAPI度は33.2としている。
独立行政法人の石油〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇では32としている。
他にも石油〇〇〇〇が定期的に発行している協会誌でも数値は中質油である事を示している。
そしてどの文献でも低硫黄だとしている。
2016年に文◯新書より出版された「日本軍はなせ満洲大油田を発見できなか〇〇〇〇」の著者で過去に三〇石油開発に在籍していた事もある人物も大慶油田を中質油で低硫黄としている。
これらの事からは大慶油田は中質油で低硫黄としか判断できない。
ところで原油は含まれる炭化水素成分によりパラフィン基原油、ナフテン系基原油、混合基原油、特殊原油に分類される。
大慶油田は、このうちのパラフィン系炭化水素を大量に含んだパラフィン基原油にあたる。
パラフィン基原油の場合、精製するとガソリンのオクタン価は低くなる傾向にあるものの重油、軽油、灯油、潤滑油、ワックスについては質の良いものができる。
なお史実において日本軍が占領したインドネシアの油田の大半もこのパラフィン基原油だ。
史実における後世、経済が発展した中華人民共和国において石油の消費量が膨らみ必要量が足りなくなった時、まず初めに中華人民共和国が輸入したのがインドネシアの石油だった。
大慶油田での事情によりパラフィン基原油を精製するのに適した製油所を持っていた事から、同じパラフィン基原油のインドネシアの石油が選ばれたのだ。
ちなみにアメリカのカリフォルニア油田の場合はナフテン系炭化水素を大量に含んだナフテン基原油であり、こちらはオクタン価の高いガソリンができるが、軽油、灯油、潤滑油の質は低くなる。
どんな油田もその成分により一長一短がある。
ただし、当時のオクタン価で言えば軍用機の燃料などにはオクタン価の高い航空機用ガソリンが求められはしたが、民間の自動車ではそこまで高いオクタン価は求められていない。
アメリカは1935年の時点で2620万台もの車がある世界一の自動車王国だった。この年、アメリカの軍用機ではオクタン価92の航空機用ガソリンが主に使われている。
しかし、一般の民間人が乗る車ではオクタン価70のガソリンが主流を占めており、それより低いオクタン価60のものでさえ市場の2割を占めていたのである。
パラフィン基原油でオクタン価の高い軍用機用ガソリンを生産するのは困難を伴うが、オクタン価60~70の自動車用ガソリンを生産するのは容易にできた。
それに技術の発展はパラフィン基原油からでもオクタン価の高い軍用機用ガソリンの生産を可能にすることになるのである。
なお2004年に新◯◯文庫より石油業界に在籍していた専門家が「石油はどこにあった〇」という本を出し、その中で大慶油田について触れているが、その油質について船舶を動かすのに充分であり、この油田を日本が発見していれば、石油のためにアメリカと戦争をする事などなかった筈だと述べている。
そこには日本の精製技術で大慶油田の石油を精製できないなどとは一言も書かれていない。
もしできなかったら船舶を動かすのに充分だとか、アメリカと戦争をする事などなかったとは書かないだろう。
大慶油田の石油成分については石油〇〇〇〇が定期的に発行している協会誌の中でも数値が取り上げられているが、当時の精製技術で不可能だとは思えない。
これらの事から大慶油田は超重質油だとか硫黄分が多いとか当時の日本の技術では精製できないという説を鵜呑みには出来ない。
この時代の日本にとりパラフィン基原油の大慶油田が発見された事は僥倖だ。
何故ならこの時代の日本は重油の消費量が非常に多い。
1934年の時点では日本の消費する石油製品の約7割が重油だ。
逆にガソリンの消費量は重油に比べ当然少ない。
車の発達と普及と共に日本でのガソリンの消費量も年々増えてはいるが重油の消費量には及ばない。
何故ならこの時代の日本では道路網が発達しておらず、その大部分が未整備な上に、自動車は一般大衆にとって高価すぎる贅沢品だったからだ。
この時代、日本の道路の舗装率は全体で約1%。国道のような大きな道路に限ってさえも約15%でしかない。
また、現代日本なら一家に車一台は当たり前の世の中となったが、この当時はまだまだ車は少ない。
文献により数字が違ったりするが、日華事変の始まった1937年で、トラックや商業車を含めた車の数は12万8000台しかない。
商用以外の目的で自家用車を所有している民間人は資産家ぐらいのものだ。
それどころか陸路移送の物流という点では、この当時はまだ日本全国で荷馬車が30万台、牛車が11万台も使用されていた。
さらに人専用の乗用馬車も1000台ほど使われている。
陸路では車よりも遥かに動物を使用した荷物の移送手段が使われていた時代なのだ。
そもそもマイカー通勤などという概念がこの時代にはない。
遠距離通勤自体が一般的ではなく、人々は地域密着の仕事と生活をしている。
更には貧富の差は激しく、貧しい家が多い。
農家などは小作人が多く凶作になると泣く泣く娘を身売りする場合もある。
工場で働く労働者はそれこそ僅かな賃金で酷使された。
そんな時代であり、そのような社会だからこそ車が一般大衆に普及する筈もない。
実際、史実において日本で自家用車が普及し始めたのは戦後20年経った1960年代からである。
その前に一般家庭において大いに普及したのが、白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機であり生活必需品の「三種の神器」と呼ばれている。
車の普及はその更に後だ。
昔の日本では多くの人々にとって車は生活必需品とは言えなかったのだ。
なお現代日本とは違い戦前の時代において物流で重要な役割をはたしていた物に小型の機帆船がある。
機帆船とはエンジンと帆の両方を持つ船だ。科学の発展とともに帆に風を受けて航行する帆船からエンジンにより航行する船に時代は移り変わっていく。
しかし、その過程において帆とエンジンの両方を併せ持つ船も数多くあった。
特に日本では沿岸航路でよく小型の機帆船が使われている。
燃料費節約のために帆に風受けて走る機帆船の姿は昔はよく見られた姿だ。
正確な記録が残っていないので不確定な数字でしかないが、戦前には機帆船が約1万隻もあったようだ。
中には100隻以上の機帆船を保有し運用していた船会社が幾つもあった。
高速道路ができ車社会の発達した現代日本に比べ、この時代の物流は沿岸航路を航行する船が重要な役割を果たす時代だったのだ。
また、戦前の日本は漁船が多かった。
肉よりも魚が食べられていた時代である。
その漁船と機帆船では小型の焼玉エンジンが主に使われていた。
ディーゼルエンジンよりも構造が簡単で安く製造できた為に焼玉エンジンは戦前に爆発的に普及する。
そこで燃料に使用されたのが重油だった。
漁船などは1920年代の時点で既に7割以上の船が重油を燃料にしており、日本が消費する重油の3割が漁船で使用されている。
それに日本は島国であるから他国との貿易に使用される大型・中型船舶も多い。
それは当然、燃料として重油の消費量を多くする。
故に日本重油消費量は多かった。
日本の経済活動において重油はなくてはならない重要な物なのだ。
大慶油田では、その欲しい重油が手に入る。
これほど日本の経済にとって有意義な油田はないのだ。
この発見は日本のエネルギー事情を大きく変えるだろう。
閑院宮総長は空を流れる雲を見つめながら胸の内でそう思惟していた。
【to be continued】




